あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

限りないもの、それは欲望

って歌詞の曲*1は知ってるかなぁ。いや僕もリアルタイプで聞いていたわけではないけど。仏教やるなら井上陽水を聞くのは必須じゃないかと思う。仏教なんて全然知らないから勘だけど。。最近の人だったらミスチルの桜井がやっているBank Bandのカバーの方*2がいいかもしれない。仏教やるならミスチルが必須かどうかは……まぁ人によるか。でも『シフクノオト』*3はとりあえず聞いておいて損はないです。
はてなダイアリー
一日千秋の感じで繰り返されてきた「アニメとかのオタク趣味で本当にオタクは満足できるのか?」議論ですね。シロクマ先生よんでこーい!*4

宇野氏は別に決断主義者ではないよ、少なくとも彼の自称では

あ、この記事の著者であるid:schizo-08_08氏は「自分は宇野常寛氏と同じ『ゲーム・アニメで逃避をしてはいけない』と思っている決断主義者だ」と定義しているけど、それはちょっと誤解ですね。宇野氏の主張は、「逃避してはいけない」ではなく、「ゲーム・アニメで逃避しているというのは彼らの勘違いで、本当は逃避できていない」という主張ですから。さらに言えば、「でもまぁ、彼らは『自分たちは逃避できてるんだ!』って言ってるんだから、放っておきましょうw」という感じで、別にid:schizo-08_08氏みたいに「彼らを改心させなければならない」とは思ってない……はず。*5だからそういう意味で、これは『ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

が刊行されたときも散々誤解され*6、そしてその度に散々指摘されてきたことだけど*7宇野氏はそもそも決断主義を肯定してない=自分を「決断主義者」であるとは規定していないんだよね。というかね、そもそも彼の理論枠組みでは、「ゲーム・アニメで逃避する人たち」も、実は「決断主義者」なんだな。つまり、ゼロ年代には決断主義者しかそもそも存在できない*8というのが彼の主張であって、そしてその様な前提の上で、じゃあ人々が幸せに暮らしていくにはどうすれば良いかって話で、『木更津キャッツアイ』とかのクドカンドラマや、『フラワー・オブ・ライフ』みたいな漫画の内容*9を賞賛してるんだな。暇があればこれらの作品是非読んでほしいけど、別にこれらの作品は決して決断主義的に「オタクは成熟しろ!」とかいうことを主張しているわけじゃないから。
ちなみに、こういう宇野氏の立場をどうやって理解するかっていう話なんだけど、まぁ確かに「著書読めば良い」って話かもしれないし、若いときは本をとにかく沢山読むことは是非良いことだから賞賛するけど、宇野氏の議論についてはネット上のサイト、Yahoo!¥¸¥ª¥·¥Æ¥£¡¼¥ºって所で無料で公開しているから、わざわざ借りてこなくてもそれを読めば良いんじゃないかなぁ。特にYahoo!¥¸¥ª¥·¥Æ¥£¡¼¥ºという所の「第1部 善良な市民の『総括・2006年』」を読んで、あと座談会のほうで涼宮ハルヒの憂鬱について述べている回*10を読めば、まぁ彼の言いたいことは大体分かってしまうというか……あ、一応言っておくと「善良な市民」というハンドルネームが宇野氏だそうです。

実は「欲望の抑止」こそが近代資本主義体制を支えてきた

宇野氏の議論についての注釈はここら辺で。別にそんなどーでもいいことをわざわざ書きたかったわけじゃないんだ。はてな論壇の交通整理なんてどこぞの村長にでも任せておけば良い!
本題に入る。id:schizo-08_08氏は、「アニメ・ゲームじゃあ欲望はどうにもならない」という前提*11の上で、じゃあこの現代で欲望をどうすれば良いのかという問いを立てて、それに対する答えとして

ただ、仏教徒として言わせていただくと、これからの社会のキーワードとなるのは、欲望の抑止ではないかと思っている

と書き

だから、それまでの高度消費社会の絶対命題であった「消費こそが正義」の意識を改める必要があると思う。これからは、「欲望の抑止」「足るを以って知る」の思想の下、それほど豊かでなくても、充実した生活で満足し、精神面での豊かさにシフトすることも考えるべきではないだろうか。

と書いて

単純な資本主義の翼賛からは、これからは決別していくべきだと考えている。

と書いているね。
これを読んで僕なんかが連想したのは、宇野氏が『ゼロ年代の想像力』の序文に載せた「ニーバーの祈り」*12

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

だなぁ。だから、前段での記述を覆すようだけど、実は宇野氏の考えていることとid:schizo-08_08氏の考えていることは根っこの部分では同じなのかもしれないね。仏教とキリスト教の違いはあるけれど、まぁ宗教は突き詰めると神様の違いはあれどみんな同じところに行くって誰かが行ってた気もするし。
―所で、さっきの『すっぱい葡萄』の話に続いて、また童話の話で悪いんだけど、id:schizo-08_08氏は『アリとキリギリス』って話を知っているかな?ま、当然知ってるよね。といっても、童話っていうのは実はその童話を伝えてくれる人・メディアによって微妙に細部が変わってしまったりするから、一応僕が知ってる『アリとキリギリス』の概要を引用しておこう。

アリtoキリギリス(アリとキリギリス)はホリプロ所属のお笑いコンビである。略称「アリキリ」。

  • メンバー

石井正則(いしい まさのり 1973年3月21日 - )
ボケ担当、(アリ) 神奈川県出身、O型
石塚義之(いしづか よしゆき 1975年3月26日 - )
ツッコミ担当、(キリギリス) 東京都江戸川区出身、A型
アリtoキリギリス - Wikipediaより)

……違う違うw

アリとキリギリスは、イソップ寓話のひとつ。
元は『アリとセミ』だったが、セミは熱帯・亜熱帯に生息し、地中海沿岸を除くヨーロッパではあまりなじみが無い昆虫のため、ギリシアからアルプス以北に伝えられる翻訳過程で改編された。日本に伝わった寓話はアルプス以北からのものであるため、日本では『アリとキリギリス』で広まっている。英語では、The Ant and the Grasshopper、The Grasshopper and the Ant、The Grasshopper and the Antsなどと表記される。

  • あらすじ

夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとするが、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と断られる。
なお、それでは残酷だというので、アリが食べ物を恵み「私は、夏にせっせと働いていた時、あなたに笑われたアリですよ。あなたは遊び呆けて何のそなえもしなかったから、こうなったのです」とキリギリスに告げる話などに改変される場合もある。このように食べ物を分けてあげるという改変は古くからあるが、最も有名なものは1934年にシリー・シンフォニーシリーズの一つでウォルト・ディズニー制作の短編映画であり、アリが食べ物を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するという結末になっている。

へー。元々は『アリとセミ』だったんだ。うん、細部の違いについても述べられてるね。
さて、この話を「欲望」という視点から考えてみると、「キリギリス」は欲望の赴くままに行動してしまったがゆえに死んでしまい、それに対してアリさんは欲望を抑止した。つまり禁欲したために、冬を越せるだけの十分な富を得たわけだ。実にありがたいお話だねぇ……
でもちょっと待ってね、このお話では、冬が来るがゆえにキリギリスは死に、そしてアリさんも蓄えたものをなくしてまた働くことになってしまうわけだけど、もし冬が来なかったら一体どうなるだろう?。アリさんは富を使うことは禁欲しているから、どんどんどんどん富を蓄えていくだろうね。それに対してキリギリスはそれこそその日ぐらしの自由奔放な、欲望に身を任せた生活を送って、富なんか一切蓄積されない。
そう、実は禁欲したほうが富っていうのは増えていくものなんですね。まぁ、こんな童話なんか例に出さなくても当たり前の話だ!ってid:schizo-08_08氏は怒るかもしれないけど、でもこう言い換えたらどうかな。「禁欲」によって、社会は「経済成長」していくと。
id:schizo-08_08氏は

それまでの高度消費社会の絶対命題であった「消費こそが正義」

という風に言うよね。そしてそのような「消費の礼賛」こそ

単純な資本主義の翼賛

なのだと。でも実際は、誰もが消費のことばっか考えていたら、誰も工場を作ったり、その工場で働いたりすることはない。工場を作るってすごいお金のかかることだから、当然それをするにはそれまで我慢してお金を貯めなきゃいけないし、その工場で働く労働者だって、工場で働くっていうのはその工場全体の流れ(ライン)に自分を同化させるってことなんだから、欲望を爆発させて好き勝手やってたら絶対に出来ることではないからね。
だから、資本主義経済っていうのは実は人々を「我慢=禁欲」させることによって初めて成り立つものなんで。そして、実はその人々を「禁欲」させるのに大きな役割を果たしたのが、実は「宗教」なんだなぁ。具体的に言うなら、それこそさっき挙げたニーバーの宗教である「キリスト教プロテスタント」だったりするんだよ。
まとめるならば、禁欲という「プロテスタンティズムの倫理」こそ、実は、「(単純な)資本主義の精神」を作り出したものなんだ。これはとーっても有名な社会学者であるマックス・ウェーバーっていう人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』って本

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

で述べてることなんで、詳しくはこれを読んでくださいね。宗教について考えるなら、一にも二にもとにかく重要な本だから。
でもまぁ、確かに常識的に考えれば「宗教」と「資本主義」ってとても縁遠いものにみえるかもしれないね。でも、例えばid:schizo-08_08氏は松下幸之助って人を知ってるかな?*13松下電器を創った人で、「経営の神様*14」って呼ばれている人なんだけど、あの人の言った言葉を集めた語録なんてものがよくコンビニとかで売られたりしてるね。で、僕もたまーに立ち読みしてみたりするんだけど、結構宗教チックなお説教を述べていたりするんだなぁこれが。松下氏に限らず、実は大企業の経営者や創業者って、宗教の敬虔な信者であるケースがかなり多かったりするんだ。たまにはそれが行き過ぎて、カルト宗教っぽいものにのめりこんだりするケースもよくある。詳しくは『カルト資本主義
カルト資本主義 (文春文庫)

カルト資本主義 (文春文庫)

っていう本を読んでほしいんだけど(宗教に対して考えるなら、この本も必読だと思うよ)。
もちろん、一方で『プロ倫*15にも書いてあることだけれど、あんまりその資本主義の精神が行き過ぎると、最初にあった「宗教」は忘れ去れていき(世俗化)、そして、それに伴って「禁欲」ということも忘れ去られていくのかもしれない(ここら辺は、宗教学(主に宗教社会学の領域かなぁ)でも諸説あることだから軽々しく言えないけど)。id:schizo-08_08氏の言う「消費ばっかを考えた資本主義」っていうのも、多分そんな感じの「資本主義」なんだろう。
まぁ、結局は「資本主義というものを如何に定義するか」という、糞つまらない定義問題*16なのかもしれないね。ただ、ここでまず覚えてもらいたい重要なこととしては、少なくとも「禁欲」は「資本主義」の敵ではない。むしろ味方っぽい存在なんだよってこと。この点を理解した上で、さらにもうちょっと議論に付き合ってほしい。

人々を「禁欲」へと誘う権威主義

繰り返ししつこく何度も何度も言うけど、近代資本主義の成立には、「禁欲」っていうものがすっごーい大きな役割を果たしたんだ。
でも、ここで一つ問いが生まれる。「禁欲」「禁欲」って何度も僕は言うけれど、そもそも何で「禁欲」しなくちゃいけないの?
……いやごめん。こういう問いをid:schizo-08_08氏にするのが適切でないことは分かってる。正直、ある宗教の信者に「なんでそんな神様信じてるの?」と問うのと同じぐらい乱暴な問いだと思う。よくてかみ合わない議論、悪ければ宗教戦争だ。
でも、それでも無宗教の僕はこの問いをせずにはいられないんだ。一体そもそも、何で何かを我慢したりしなきゃいけないんだろうと。自分の好き勝手に生きて、何が悪いんだろうと。
何かを我慢したり、それを禁欲するってことは、言い方を変えれば「何かをする自由」を自ら放棄するってことだ。こういうことがなぜ起こるのかについて、僕と同じように疑問を持ったんじゃないかなーって、(僕が勝手にかもしれないけど)思ってる人に、エーリッヒ・フロムって人が居ます。そして、なんでそういうことが起こるのかを考えた有名な本に『自由からの逃走』って本があります。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

この本は、ナチスドイツのファシズムを分析した本としてよく知られているけど、実はそれ以外にも、アメリカのフォーディズムコマーシャリズムを分析していたり、あと、プロテスタンティズムの禁欲がなぜ広まっていったかについての分析も乗ってたりするんです。で、僕が今回紹介するのは後者の、プロテスタンティズムについての分析です。
キリスト教においては「原罰」という概念がある、っていうのはよく知られている話です。といっても僕も詳しくは知らないんだけど、なんかアダムとイヴは楽園にいたんだけど、悪魔にそそのかされて林檎という知恵の実を食べてしまった。で、それを機に人間は楽園を追われることになったと、それ以来すべての人間は「罪」を背負わされているんだと、まぁそんな話。
で、その原罪を許されて楽園に行くにはどうすれば良いかっていうのが、まぁキリスト教の主要なテーマだったりするらしいんだわ。
中世のカトリック教会がそれに対してどう答えていたかというと、「このお札を買えば罪が許されて楽園に行けますよー」っていうお札を発行し、そしてそのお札を買えば罪が許されるとしたわけ。これがかの有名な、今も慣用句として使われる「免罪符」ですな。
所が、それに対し反旗をひるがえした人がいた。マルティン・ルターっていう神父さんだ。彼は「なーんで人間が作った教会が発行したお札が神様の許しに関係あるんだよ。人間を許すかどうかはそもそも神が決めることなんだから、教会といえど人間がそれを左右することはできないんじゃねーの?」っていうことを言った。まあ確かにそうだわな。で、「そりゃそうだ」と思った人がどんどん教会から離れていく。これがかの有名な「宗教改革」だったわけ。
で、この時点で人々は「免罪符を高い金払って買うこと」から自由になったわけだ。ところが、一方で自由になった人はこう思うわけだ。「免罪符を買っても楽園にいけないんだったら、じゃあどうやったら楽園に行けるんだべさ?」と。
さぁ困った。というのも、ここでルターが「こうすれば楽園に行けるんですよ。」みたいなことを言ってしまったら、それは結局カトリック教会と同じで、人間であるルターが神の許しを左右することになってしまう。だから結局、「それは分かりません。」と言うしかない。いや、正しくは「聖書は神のものだから、聖書を読んで、聖書のとおりに信仰すれば良いんですよ」と言うんですけどね。でも確かに聖書は神様のものだけど、でもそれを読むのは人間なわけです。じゃあ結局人間が如何に読んで行動するか、人間の行動によって楽園に行くかどうか左右される風に思えて、どうにも納得できないわけです。
そんな中で現れたのがカルヴァンという人です。彼はルターの言った「人が許されるかどうかは神様が決めることだ」っていうことを更に突き進めて、こういうことを言うわけです。
「人が神様に救われるかどうかは、生まれる前からすでに決まってる」と。

要するに生きているうちに何やったって無駄よと。神様は全知全能なんだから、そもそも生まれる前にすでに「こいつは楽園行き」、「こいつは地獄行き」とか分かってるんだと。そんなことを言うわけです。
これは、キリスト教を信じている人にとってはとてつもなく不安な考え方ですよね。だって、何をしたってもう運命はくつがえせないんですから。「何をしろ」とは言われない。なのに「楽園に行く人はもう決まってるよ」って言われる。言ってみれば、試験が終わった後の合格発表の不安を数百倍にしたぐらいの不安でしょうか。
そのような不安を打ち消すために人はどうしたか。とにかく働くわけです。と言っても、もちろん「働いたら楽園に行ける」という話じゃありませんよ。何度も言いますが、楽園に行けるかどうかはもう決まってるんですから。ただ、「楽園に行くようなきっと現世でも真面目な人なはずだ」→「自分は真面目に働いているからきっと楽園に行くと決められた人なんだろう」というように、自分が安心するために真面目に働き、「禁欲」しながら富を蓄積するのです。
と、ここまでがマックス・ウェーバーによる説明です。*17ちなみに、Wikipediaによるとエーリッヒ・フロムの師匠はマックス・ウェーバーの弟さんだったそうですね。
で、これをエーリッヒ・フロムは心理学的に分析するわけだ。そこでキーとなる概念が「自由」なの。
予定説によって、確かに人は免罪符とかそういうことから自由になったわけだ。免罪符を払わなくても良いし、教会に服従する必要もない。こういう自由を「○○からの自由(消極的自由)」とエーリッヒフロムは言います。なるほど、そういう観点からは人は自由になったわけです。
ところが、一方で人はこうも言われるわけです。「ただし、死んだ後魂が楽園に行くかどうかはすべて決まってるけどね」と。つまり、この現世でどんなにがんばろうと、楽園に行く人は楽園に行くけど、楽園に行けないと決まってる人はどんなに頑張っても楽園に行けない訳です。つまり「楽園に行く自由」は人にはない。こういう自由を、フロムは「○○への自由(積極的自由)」と呼びますが、そういう自由は、以前奪われたままな訳です。
そこで人はアンビバレンツになるわけです。つまり、どんなことをしても自分は自由だ。しかし、どんなことをしても自分は結局「楽園」に行くことは選択できない。だとしたら、その「○○からの自由」に一体何の意味があるのか。というか、むしろ昔だったら免罪符を買えば楽園にいけたはずなのに、下手に免罪符から自由(消極的自由)になってしまったがために、かえって「楽園に行く自由」(積極的自由)を失ってしまうわけです。
そのアンビバレンツな不安をどう解消するかということで、「禁欲」が選択されるのです。つまり、「消極的自由」を自ら捨て去ることにより、自分を「消極的自由」も「積極的自由」もない状態とする。そして、神という「権威」に依存し、その権威に基づく行動を行うものとして自分を定義する。それにより安心を得る(自分は楽園に行くことが決まってる存在なんだと思う)というのが、少なくともプロテスタンティズムに対する「禁欲」のメカニズムなわけです。このようなメカニズムを、フロムは権威主義と呼びました。
そして実は、これと同じことをしたのが、ナチスドイツのファシズムだと、フロムは主張するんですね。
第一次世界大戦により帝国は崩壊し、ドイツにはワイマール共和国が成立しました。言論の自由、政治活動の自由、経済活動の自由といった、ありとあらゆる「○○からの自由(消極的自由)」が保障された、それこそ制度上はファシズムなんかとはもっとも程遠いような、そんな国だったわけです。
ところが一方で、そのワイマール共和国は、敗戦による多額の賠償金に苦しみ、国民経済はほとんど破綻している、そんな国でもありました。一応憲法で「社会権」は保障されていましたが、現実にはほとんど実効的に機能せず、国民は貧困に苦しみ、「○○をしてもいい」と言われても、そもそもその○○をするだけの富がない、そんな経済状況だったわけです。
また、敗戦により既存の権威は崩壊しました。皇帝はいなくなり、それまで強大な力を持っていた軍隊は縮小され、国土も割譲された。ではその一方で新しいものは生まれているかというと、民主制は常に不安定であり、国家の威信もぼろぼろ。もはや、何も頼るものはないという状況だったわけです。
そんな折に乗じて現れたのがナチスだったわけです。ナチスの指導者ヒトラーはこういいます。「今のこのドイツの惨状は、全て『自由』と『個人主義』のせいだ。『自由』の名の下に人は『個人主義』に走り、民族の誇りを忘れ、不安になっている。『自由』を捨て去り、『民族』という権威のもとに服従するようになれば、君たちの不安はなくなり、ドイツも再び過去のような栄光を取り戻すだろう」と。そしてその様な言葉に人々は乗っかり、熱狂的にナチスを支持し、その結果ワイマール共和国は崩壊し、代わりにドイツ第三帝国が誕生したわけです。
これこそまさしく「権威主義」のメカニズムなんですね。「消極的自由」と「積極的自由」が齟齬を起こし、人がアンビバレンツな不安に陥ったときに、そっと「消極的自由を放棄し、権威に服従すれば、君は楽になれる」とささやく。そして人はその誘いに乗り、権威へと盲目的に服従していく……

「足るを知る」ことは、時に危ない

もちろん、だからといって別に僕はid:schizo-08_08氏のことを「人々を再びファシズムに引きずり込もうとするナチスの再来だ!」とか言おうとしているわけではない。ここで述べたのはあくまで「禁欲」の一つの有り様として、「権威主義」というものがあると述べただけで、「全ての禁欲は権威主義だ!」と述べたいわけではない。権威主義的ではない禁欲というのもありえるし、多分id:schizo-08_08氏はそのような権威主義的ではない有り様で、「禁欲」を支持しているのだと思う。
大体、フロムにしたってどっちかというと「足るを知る」べきだって考え方の持ち主だからね。ただフロムの場合は、外在的な権威ではなく、あくまで「自分の正直な心」に従いなさいということを述べているわけだけど。*18
でも、それでもやっぱり僕は一方で、id:schizo-08_08氏の言う「欲望の抑止」というもの、特に、↓で述べられるような考え方について、一部、権威主義的な「禁欲」のにおいを感じずにはいられないんだな。

これからの日本は少子高齢化社会になることは確実であり、長期低落傾向に陥るのは確実であると見られている。そのような社会では、これまでの高度経済成長のように、家が欲しい、おいしい物が欲しい、パソが欲しいと物欲を引き伸ばして言ったところで、決して望み通りにはいかないだろう。あるいは、豊かだった高度成長世代や、日本より経済水準を超えているであろう中国への反感、怨恨につながるかもしれない。
だから、それまでの高度消費社会の絶対命題であった「消費こそが正義」の意識を改める必要があると思う。これからは、「欲望の抑止」「足るを以って知る」の思想の下、それほど豊かでなくても、充実した生活で満足し、精神面での豊かさにシフトすることも考えるべきではないだろうか。もし、個々人がこのようなライフスタイルをとったとすると、生産力が低下し、今のスペイン程度の経済力まで低下するのかもしれない。しかし、それが何であろうか?人間の幸せは、決して富の大小では計れない。ミャンマーブータン*19の人々の方が日本人よりも生き生きしているともいうではないか。単純な資本主義の翼賛からは、これからは決別していくべきだと考えている。

↑でid:schizo-08_08氏は、高度成長世代や豊かになっていく中国への妬みをけん制、というよりも批判している。僕も、ネット上で吹き上がる反老人感情や反中国感情には正直うんざりしてるのは事実な訳だ。
しかし一方で、例えば高度成長世代にあった重要なものが、今の時代失われているっていうのも、もう一つの事実な訳。終身雇用制度は崩れ若者の非正規雇用者率は年々増加し、生活保護以下の水準で日々を暮らすようなワーキングプアが急増している。そして更に、より安い賃金を求める資本は(円高の影響もあって)生産拠点を中国などの海外に移転し、それにより中国の労働者と日本の労働者が互いに競わされる、そういう事態も生じている。そんな中で人々は憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」どころか、「生存」そのものが奪われそうになっているわけだ。
そして、そのような状況でありながら、日本の国家体制はいまだ高齢者重視型で、年金制度により貧しい若年層から豊かな老人層に所得が再分配されるという逆転現象がおきていたり、円高を容認することによって生産拠点を更に海外に移転させるなんてことをやっているわけだ。(詳しくは↓の文献などを読んでほしい。)

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

こういう状況、僕なんかは、実はすごくナチスドイツ台頭以前のワイマール共和国に似ているんじゃないか。「消極的自由」は憲法で保障されても、「積極的自由」は保障されない、そんな社会になっているんじゃないかって、僕は思うのだけれども、どうだろう?
もちろん、「積極的自由」と言っても、欲望を何でも肯定することなんてそもそも経済的にも、環境面でもできないだろうとは、僕も思う。しかしそれでも、「健康で文化的な生活」を保障し、そしてそれにより「きちんと頼ることが出来る社会」という社会の威信を保つという、「積極的自由」は、保障しなきゃだめなんじゃないだろうか。
「足るを知る」こと、「欲望を抑止」すること、これらは、確かに個人的な価値観としては、とても美しいものだと僕も思う。でも一方で、それが社会において支配的な価値観、すなわち「権威」となったときにどうなるか。人が何か権利や自由を主張するときに「足るを知れ!」とか「身勝手な欲望は抑えろ!」という社会的な弾圧がなされ、そしてそれにより不平等が温存・固定化され、人の尊厳が踏みにじられる、そんな社会になってしまうことも、十分、考えられることじゃ、ないかなぁ?
「欲望を抑止する程度」を、民主的に決めれば良いじゃないかとid:schizo-08_08氏は言うかもしれない。でも、忘れてはならないのが、ナチスドイツも「民主的に選ばれた政権」なんだよ。民主制っていうのは、暴走すれば多数派による専制となる。民主制を十分に機能させるためには、その前提として、個人の自由を最大限尊重する、「自由主義」が貫徹されなければならないわけだ。
id:schizo-08_08氏は、まぁ宇野氏に引きずられてだからなのかもしれないけれど、自分を「決断主義者」と定義するよね。でも、実は「決断主義」っていう単語は、ユウガタ - 断片部でも指摘されているけど、もとはカール・シュミットという、ナチスと深い関係にあった法学者に関連する用語で、とてもアブナイ意味を持つ言葉なんだよね。なぜか。「決断主義」においては「決断」することが潔いとされるけど、その「決断」を如何に検証するかということは全然考えていないわけだ。逆に、考えてないからこそその「決断」は尊いのだというのが、「決断主義」の考え方な訳だけれど、でもその考え方によって、ゲルニカ爆撃、第二次世界大戦開戦、そしてユダヤ人虐殺というような、さまざまな歴史的惨劇が「決断」されていったこともまた事実な訳だ。

とりあえずの解、「コミュニケーション行為」

じゃあどうすれば良いか?僕は、まぁ西洋かぶれなのかもしれないけど、ユルゲン・ハーバーマスという人の「コミュニケーション行為」というものが、一つの解になると思っているわけだ。

ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)

ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)

id:schizo-08_08氏は相対主義、許容主義というものを敵視しているね。その背景には、相対主義っていうのは結局、社会の中の他人が何をしていても一切不干渉というような、そんな態度を連想させるというのがあるからだと思う。
でも、世の中には「不干渉/他人に押し付ける」という、二つの選択肢しかないんだろうか?もしそうだったら、人間はケモノとまったく同じだよね。でも、そうじゃない、人間はケモノじゃないわけだ。人間には、物を話す「口」、または物を書く「手」があり、そして物を聞く「耳」、物を読む「目」がある。
だとしたら、まずはそれを用いて、「説得」をすべきじゃないだろうか。
しかし一方で、その説得の背後に「権力」があってはいけない。暴力に物を言わせながら相手を服従させるなんて言うのは論外だし、経済的圧力や文化的圧力を持ちこむのもやっぱり駄目だ。コミュニケーションが行われる場―これを「公共圏」と呼ぶのだけれど―では、あらゆる意見が平等に扱われ、邪険に扱われることがないようにしなければならない。たとえそれがid:schizo-08_08氏の嫌うような、動物的、享楽的な人生観でもね。
これは、腹立たしいことだろうか?でもね、考えてごらん、「公共圏」が存在しなければ、いくらid:schizo-08_08氏が自らの価値観を広めようと思っても、そもそも「動物的、享楽的な人生観」を持つ人に会うことすら出来ないんだよ?それを考えれば、まず相手を許容する許容主義に立つことによって、むしろ自らの価値観を広めやすくなるわけだ。
そして、一切の「権力」が排除された「公共圏」において、各々が自らの価値観に基づいてコミュニケーションを行っていく。そのことによって、それぞれの価値観が精査され、よりよい方向に改良されていく。これは、「決断主義」においては絶対ありえないことだし、単なる「相対主義」においても起こりえないことだ。
そしてそんな中で、社会は「欲望を抑制」することと、「権利を主張する」ことの間で最善のバランスを模索していくんじゃないかと、僕は思うわけだ。
そして、公共圏において、僕はid:schizo-08_08氏に、問いかける。
「君は、どう思う?」

まとめ

  • 「欲望の抑止」こそ実は資本主義の精神そのものなんだよ
  • 「欲望の抑止」が権威化すると、ファシズムみたいな危ない目に遭うよ
  • 今の日本で「足るを知る」と言ってしまうと、それは当然の権利の主張を抑圧する結果につながる恐れもあるよ
  • 互いの価値観を許容することによって、初めて価値観を伝えることが出来るんだよ
  • そしてそんなコミュニケーションをしていく中で、それぞれが納得できる形で「欲望の抑止」と「権利の主張」のバランスをとっていけばいいんじゃないかな

*1:[http://www.youtube.com/watch?v=vOmHLx33umY:title]

*2:[asin:B0002ZMB0A:title]

*3:[asin:B0001FA9P0:title]

*4:うそです。呼ばなくて良いです。あの人出てくるとまた話がややこしくなる。

*5:ここら辺は自信ないけど。あの界隈の人たちってほんと「建前」と「本音」を使い分けるメタコミュニケーションが好きだからなーw

*6:[http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html:title]とか。指摘された後に追記しているけど

*7:[http://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/zero_memo.html:title]とか。あとちょっと内輪向けだけど[http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20070616/1181977308:title]とか。

*8:「しちゃだめ(must not)」じゃないよ、「できない(can not)」なんだ

*9:僕には要するに昔っからある「日常の肯定」という話にしか聞こえないのだけれど、きっと宇野氏は賢いから、そんなありきたりのことじゃなく、もっと頭の良いことを考えてるんじゃないかなぁ。僕にはわからないけどw

*10:ところで、この回、【僕の考えた10年後のハルヒ】 の所が部外者には滑っているように思えて仕方ないんですが、きっと何か深い考えがあるんでしょう。

*11:この前提はとりあえず正しいものとしておこう。でもまぁこういう議論への反論としては本田透氏の『電波男』(asin:4062759241)なんかもあるよ。ただ僕は、「でも秋葉原の加藤君は人を殺した」という点で、本田氏には賛成できないのだけれど。

*12:http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm

*13:ベンジャミン・フランクリンは僕も知らないから例に出さないw

*14:ここで「神様」って言葉を使うのも、実は宗教と資本主義の近さをあらわしてるのかもしれない

*15:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の略。まぁ、略っていうのはたいていスノッブ気取りたいときに使うものなんだけどねw

*16:でも、この定義問題を怠ると後々議論がかみ合わなくなるから、やっぱり重要なんだなぁ

*17:といっても僕の曲解がたぶんに混ざってるから、真面目に勉強したいんならきちんと自分で読むように!原著とか読んだらすごいよね!僕はひれ伏します。

*18:ただ、僕はいまいちそのフロム氏の言う「自分の正直な心」っていうのがよく分からない。そんなの結局、散々批判された「本当の自分」ってやつ([asin:4797344997:title])なんじゃないの?と、思ったりしてる

*19:僕は、これらの国は正直嫌悪している。ミャンマーなんて、それこそ典型的な「権威主義的国家」で、軍部の独裁の元、人々の人権が抑圧されている国だし、ブータンにしたって、そりゃメディアが解禁されていなくて外の世界を知らなければ、自分の今あるところが幸せだと思うかもしれないけど、でもそんな情報を統制された上での「幸せ」が、本当に幸せと呼べるのか?