あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

格好悪い追記

格好良いエントリ*1を書いた後には格好悪い追記を書かないとこの世界の帳尻は合わないのだ。というわけで今回の記事は前回の記事
いい加減に戦おうぜ、たまご野郎! - 斜め上から目線
の格好悪い追記。頭も冷えたし。

結局それって「女の子を守るボク」っていうキモヲタの妄想じゃん

といっても、実は僕が追記しなきゃならないことっていうのは、既にはてブとかで大体書かれているんだけどね。
はてなブックマーク - いい加減に戦おうぜ、たまご野郎! - 日常ごっこ

  • id:tetracarbonyl これが、レイプファンタジーか。
  • id:schwarzewald 実のところ元エントリの「ケンカを起こす気にはならないんです」に対しては「それは違う」と言いたかった。ウンコ投げられたら殴り返すぐらいの意気地ぐらい、腐女子だって持ってるからバカにすんないと。
  • id:lisagasu 現実には晒されて泣くのも私怨晒しするのも便乗叩きするのも、美化した男同士のセックス妄想で興奮しているありふれた女達。無邪気で可憐な美少女腐女子は男性の妄想の中にしかいません。しっかり区別してください
  • id:y_arim 腐女子を一方的に弱者と規定するあたり、たまごまご氏と同じ穴のムジナで「零落したマッチョイズム」のかほり
  • id:font-da 「女の子を守るボク」の主張。悪ならば、女の子が可哀想だろうが、なかろうが、戦えよ。
  • id:hestigo “こんな風に女の子を泣かせた奴を、君は「悪」ではないって言うんか!?” これって「現役JKハァハァ」じゃね?
  • id:Yagokoro かわいい想像上の女の子ちゃんを旗印に持ち出すあたり完璧に終わってる。自他の区別に欠陥がある痛いオタクを地で行きすぎ。
  • id:koisuru_otouto 腐は男性オタクさんの腹話術人形じゃないので矢面に立たせないで下さい
  • id:namelesscult 「可哀想な女の子」像を勝手に腐女子に仮託しているうちはたまご氏と同様に彼女達からは冷ややかな目で見られそうな
  • id:Amerikan もしかして、その腐女子はあなたの想像上のものにすぎないのではないのでしょうか
  • id:bye-bye_jupiter 作品の中の架空の腐女子に対してなら叩くも守るも崇拝するも自由でいいと思う/しかし実物の腐女子はヒュドラーみたいなものだから、どのスタンスでも喰われてしまうというのがオチ

要するに「君、『腐女子を助ける格好いい自分』に酔ってるだけなんじゃないの?それって『現役JKハァハァ』と何が違うの?」っていう批判。実にごもっともであって、ぐうの音もでない……
そして、http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20091127/1259268295:TITLE=たまご野郎の記事には書かれてなかったことだけど、こういう見方を補強する傍証の一つとして、「実はこのケース、攻撃する側も腐女子なんじゃないか?」っていう疑義が、id:y_arimから提示されているわけだ。
はてなダイアリー

 というわけで、たまごまご氏の感想やブックマークの反応とは、実はけっこう意味合いが違う話なのだ。たまごまご氏がそのへんを書き落としているおかげですっかり「嫌なら公開するな」方面へ反応が展開してしまっている。腐女子界隈においては、ある意味「外部」のバッシング以上に「内部」からの攻撃こそが恐れられているのだが……(そのことを正しく指摘していたブックマーカーは、jack_oo_lantern氏をはじめ、少なからず腐女子なのではないか)。たまごまご氏は、むしろそちらの話をすべきだったようにも思う。

そうなるとどうなるか。
「あー女の子が泣いている、こんな女の子を泣かせた奴はどいつだ!よーし回線を辿ってそいつにガツンと言ってやる!」

「回線を辿って女の子を泣かせた奴の所にたどり着いたぞ!よし女の子を泣かせた奴出てこい」

「あ……れ……出てきたのは、さっきの子と同じように泣いている女の子だった……」
という、なんつーかこれはもう悲劇っつーより喜劇のような事態が展開されるわけだ。
もちろんだからといって別に僕は「腐女子こそまさに悪い奴なんだ!」なんていう風に腐女子叩きをしたいわけではない。というかこれは全く腐女子に限ったことではないよね。加害者が実は被害者だったなんて事は、世の中に一杯あるわけだから。

「何も出来ない僕」という零落したマッチョイズム

しかし、まぁ言い訳がましく聞こえるかもしれないけど、僕は、むしろそういう袋小路に直面し、そこで考えるという行為をするためにも、まずは「戦う」べきだと思うわけ。
どういうことか。僕はさっき「戦う」ことを決断する行為によって起きた悲喜劇を、多少カリカチュアした形だったけど例示した。ところが、これがもし「戦わない」という選択をしたらどうなっていたか?
「あー女の子が泣いている。女の子が可哀相だなー。でもおいらにはどーすることも出来ないなー」
……これで終わり。多分こういう風に考える奴の頭の中では「女の子を泣かせる奴は本当にただの悪い奴なんだ」という思い込みがされていて、実際にその女の子を泣かせた奴がどんな奴なのかは知られないし、そして知られないが故に、自分にとって心地よい、「ただ可哀相な女の子」という対象イメージと、「女の子を可哀相に思う優しい自分」っていう自己イメージは絶対的に守られるわけだ。
たまご野郎があの記事でやっていることって、実はこういうことだと僕は思うんですよ。「女の子が泣いている。でも僕は応援することぐらいしか出来ない」って語るときに、そこで確かに「僕」は「自分には何も出来ない」っていう無力感による絶望は持つけど、でもそれは実はその人にとって「心地よい絶望」なんだよね。だって、そうやってその絶望に浸っている間は「力はないから何も出来ないけど、でも女の子を可哀相に思うという、心はキレイな僕」でいられるんだから。何もしないが故に、自分の心をキレイだと思い続けられるっていう、そういう詐術が、たまご野郎の記事にはあるわけだ。まさにid:y_arimが指摘する「零落したマッチョイズム」な訳だ。
そのような自分の自己イメージをキレイなままに保つ事が出来る詐術を駆使するが故に、きっとたまご野郎っていうのはあそこまで読者の人気を集める有名ブロガーになったと思うのだけれど、でもやっぱりそれは詐術であり、僕にとってたまご野郎とは詐欺によって人の人気を集める詐欺師ブロガーなわけだ。
もちろん「自分が醜いものであると知りたい」なんていう風に思う人なんて、この世には殆ど居ないでしょう。だから「自分をキレイに保ちたい」と思う心自体は否定出来ないし、するべきではないと思う。だけど、それが「何もしない」という、醜い自分から目を背ける行為によって保たれるなら、それは僕は否定する。

「女の子を守るボク」から抜け出すためにも戦うべき

そして、僕が「戦う」ということを殊更推奨する理由もそこにあるのだ。
最初からキレイな人間なんてどこにもいないでしょう。僕だって汚れた人間だからこそ、先日の記事みたいにマッチョイズムに溢れているようなそういう記事を書くわけだから。でも、上記でカリカチュア化したように、戦ってみれば、そういう「汚さ」っていうのは必ず露わになってくるもんなわけ。そしてそこで初めて人っていうのは、自分の中に「汚れ」を見つけ、それを少しでも減らそうと努力する。今回の例で言うならば、「女の子を守る格好良い自分」であった「僕」が、実は「ある女の子を口実に別の女の子を虐める糞野郎」いであることが分かり、そしてそこで初めて、そういう糞野郎じゃなく、みんなが幸せになる方法を考える、もう少しましな自分になろうとする努力が始まると、僕は思うのだ。
もちろんただ「戦う」だけでこういうことが達成されるとは僕も思わない。一番重要なのは、戦うときに、それが「暴力」によらないことだと思う。戦うのにそれが「暴力」によらないとは一体どういうことなのか?分からない人もいると思う。だけど、「戦うこと」と「暴力を行使する」ことは明らかに違う。といっても別にそれは「物理的な力を使わない」とかそういう外形的な区別ではない。詳しくは『暴力の哲学』という本を読んで貰いたいのだけど

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

「暴力」とは、相手の口を封じ、相手を自分の意志の元に屈しさせようとする、そういう力だ。そして暴力を傍観していることも、「暴力」である。そして故に、たまご野郎の記事は二重の意味で暴力的であると言える。一つには、「晒されたくない腐女子を晒そうとする暴力」を傍観するという意味の暴力性、そしてもう一つは、「俺が腐女子を代弁してやる」という形で、腐女子を代弁することにより、腐女子を「弱者」という檻に閉じ込める暴力性だ。そして二つ目の暴力性は、まさに上記でブクマコメが指摘したとおり、僕の記事にもある。
では、そのような「暴力」によらない戦いとは一体何か?それは、他人に対し自分の声を発し、そして相手の意見を聞き、その意見に反応する、そういう戦いだ。今回の例で言うならば、「嫌がらせは止めよう」という声を発し、「嫌がらせをする側にも理由がある」という声を聞き、それに対しまた返答していく、そういう戦いである。
そして、ぼくがたまご野郎に求めるのも、まさにそういう意味での「戦い」なのだ。
たまご野郎の記事は、確かに文字数自体は多い。だが、その内容は空虚そのものだ。「晒しに便乗する悪意」というものに言及しながら、その人たち自身に向けた発言は何もない。書かれていることと言えば、誰もが「それはそうだねぇ」と同意するしかないような、「100の人の言葉を忘れないで欲しい、とだけ叫びたい。」という実に万人に心地よい言葉、そして、そのような万人に心地よい言葉に、しかし隠された暴力性にみんな気付いたからこそ、ここまで注目をたまご野郎は集めたわけだけど、それに対して返答は一切せず、身内のなれ合いに閉じこもるだけ……
なるほど、そうやってやってれば確かにたまご野郎の「僕」はいつまで経っても傷つかないだろう。そのたまごの殻に守られて、そしてその中で腐り朽ち果てていくというのも、選択の一つではある。しかし、本当にそれで良いのか?一千万アクセスも集めるブログを書き、アルファブロガーとして君臨しながら、内輪の殻の中でよどみ、腐り果てていくことが、本当にたまご野郎の望むことなのか?
そろそろ、そのたまごの殻を破って、「ひよこ野郎」になったら、どうなのだろう?

  • id:amiyoshida 戦えば起こる負の連鎖を知る大人は戦え!とは言えない

いや違う。確かに戦いは戦いを呼ぶ。ちょうどどんなに正しい「解放戦争」だって、その裏では怒り・憎しみ・悲しみが生まれ、そしてそれが新たな戦いを呼んできたように。でも、そういう戦いの中で、人類は少しずつ成長していき、自由を獲得していった。
個々の戦いが正しかったかは存分に検証されなければならない。だけれどそれでも、「戦い」自体を否定し、未だ全ての人が幸福になっていないここに留まることこそ、決して許されないことではないのか?
「戦いなんて負の連鎖を巻き起こすだけ」とニヒリズムを気取る中二病こそ「子供」なのだ。真の大人は、戦いが決して終らないことを知りつつ。しかしそれでもなお、人々の幸福のために、「戦う」のである。

最後に

もちろん今までのことは、たまご野郎が十分強いと分かっているから言えることではある。だってあれだけ文章も書けてアクセス数も集められていて、それで「自分は何も出来ない」っていうのは、やっぱり通らないでしょう。
だから上記の文章はあくまで「たまご野郎」について述べた文章で、これを全てのオタクに敷衍されて、「全てのオタクは戦うべきなんだ!」というようなことを思われると、困る。というか「全てのオタクに向けた文章」なんて書けるわけがない。どんなオタクだってそれぞれ個別の事情を持ってるんだから、たまたま眼に付いたオタクを例に出して、「全てのオタクはマッチョイズムを反省すべきだ!」とか、あるいはその反対に「全てのオタクはマッチョたれ!」なんて言うことは、やっぱり出来ないと思う。
ただそのような限界を承知した上で、敢えて多くの、今回の騒動で話題になったような「晒しによって傷つくオタク」を対象にして言えるアドバイスがあるとするならば、「匿名の別アカウントで良いから、そういう『晒し反対!』みたいなことをきちんとネット上で主張するべきじゃないかな」ということ。
僕は、前回の記事で参照した「無断リンク論争」でも分かるように、ずーっと前からそういうことを主張して、そういう晒しを趣味にするようなモヒカン族と戦ってきたわけだけど、でもそれは余りに不利な戦いだったわけ。なぜなら、そういう「晒し反対!」みたいな声を出す人が殆ど居なかったから。
現在の「晒し全然OKじゃん」みたいなネット上の雰囲気っていうのは、まさにそういう晒しを容認するようなモヒカン族みたいな勢力が、大きな勢力である様に見せかけられていることによって生じていることであるわけで、これを変えれば「晒しOK」みたいなネットの雰囲気は絶対変わると思うわけだ。
そしてその為には声を上げるしかないと、僕は思うの。もちろんだからといって晒されたくないような自分の本ページで言うなんてことは本末転倒である。だから別アカウントで良い。自分が使っているアカウントとは違うアカウントを匿名で取って、そしてそこで「晒しって良くないと思う」ということを声に出して欲しいのだ。
そしてそういう声がどんどん大きくなれば、きっと晒しも少なくなるし、晒しに便乗するような奴らも少なくなる。もちろん幾らそうやったって、モヒカン族みたいに嫌がらせにしか自分の存在意義を見いだせないような輩はゼロにはならないんだけど、でもそういうことがいけないことだっていう雰囲気は形作られると思うのだ。
もちろん本当に心が苦しくて、そんな別アカウントで自分の意見を表明するなんてこと出来ないっていう人は別にそういうことする必要はない。ゆっくり休んでほしい。ただ、少し余裕があって、そういうことが出来る人は、そういうことをすれば、自分を含め、みんながもっと生きやすいネットになると、僕は思うのだ。

*1:自分の中ではそういう感覚なんだから仕方ない。他人からどう思われていようとさ