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輪るピングドラム3話感想:ボーイミーツガール(withカレー)

というわけでいよいよ三話目、輪るピングドラムの感想記事です。(1話感想2話感想

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いよいよまわピンも3話目ということで、スタートダッシュがおわり、物語の真価が問われる時期になってきました。ただそこで少しでもダラケたら、それはもうまわピンではない別の何かになってしまうわけで、当然三話も、牛コスプリクリやら苹果ちゃんの百面相やら修羅場展開やらカレーやら次々と新しい展開やネタがあり、視聴者は極めて楽しく振り回されました。
ただ、そんな中からも、いよいよこの物語が一体どのような骨組みを持つものなのか、ヒントが示されてきました。特に僕が注目したのは、これまでずっと閉じていた高倉家3兄妹に、荻野目苹果という、強烈な個性を持つ異物が侵入したということです。これが一体どういう意味を持つのか、そしてそこから一体このまわピンというアニメは何を描き、何を伝えようとしているのか、考察してみたいと思います。

まわピンは「セカイ系という演技」をしている?

これまでのまわピンは、1話を見れば極めて明確な通り、高倉家の兄妹がいかに運命に直面するかという物語でした。そこでは、意図的に兄妹以外の他者が排除され、兄妹の間の愛情こそが物語の原動力となるわけです。
このような物語のあり方というのは、それこそ90年代から流行り始めた「セカイ系」という物語のパターンと近いものだったともいえるでしょう。セカイ系とは、はてなキーワードによれば*1
keyword:セカイ系

過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。
新世紀エヴァンゲリオン』『ほしのこえ』『最終兵器彼女』などがこれにあたる。
小説なら『イリヤの空、UFOの夏』や、桜井亜美田口ランディの作品など。

[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。特に『最終兵器彼女』などは、「きみとぼく」が「世界」の上位に来ている、すなわち「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまうという設定であるのも興味深い。

というものです。ただ「自意識」というキーワードはなかなか共通認識として捉えるのが難しいものなので、ここでは後者の定義、つまり[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品Kという方の定義を採用することとします。
まわピンにおいても、兄妹の間の関係性が前面で詳細に描かれる一方で、その背景、端的に言えば「親の存在」といったことは意図的に隠されているわけです。そしてそういう兄妹の関係性が、いきなり「運命」という変えがたい世界的なものに直面せざるを得なくなる。ちようどエヴァにおいてシンジ君がいきなり使徒と戦うことを迫られたように、まわピンにおいても高倉兄弟はいきなり「ピングドラムを探せ」と迫られるわけです。
では、なぜ現代アニメにおいてはこのようなセカイ系が好かれるのか。これについてはてなキーワードの説明では

なぜ、セカイ系といわれる作品群がこれほどまでに多くの若者に受け入れられるのかというと、若い時代に特有の心理があげられる。たいていの若者は大人と違って経験の蓄積もそれほどないため、その場の空気の読み方などといった、この世の”社会の約束事”は非常に複雑に感じ、己が社会と付き合っていくことにわずらわしさを感じる(=ウザイ)のが普通だ。そのために、社会との接点を”すっ飛ばした”セカイ系の作品は、”自分がそこに居たらどんなに心地よいだろう!”と感じるため、すんなりと入っていきやすいのである。

というような説明がなされています。まぁ、こういう説明でも合ってるのでしょうが、、もうちょっとセカイ系の物語を消費する側の心情に即して言うならば、そもそも彼らはにはそういう「社会の約束事」みたいなものにリアリティを感じ得ないのです。それこそ「運命」という言葉がまさにそういうリアリティを象徴しているもので、「運命」というのは社会の約束事ではなく、むしろそういう社会的なものをすっ飛ばして個々人を支配するものなわけです。もしこれを社会的に描くとするならば、「運命」は、それこそ進学・就職指導的な「進路」という言葉になるでしょう。ですが、90年代以前ならいざしれず、ゼロ年代にはもはや「進路」に縛られているなんて感覚は殆どありません。むしろ、そういうものからは人々は自由になっている。にも関わらず、何故か人々は自分の進みたい道を歩めるわけではなく、「運命」に翻弄されてしまう。社会の約束事に基づく「進路」なら、それを求める「社会が悪い!」みたいなことが言えるでしょうが、「運命」では、それを誰が強制しているかもよく分からない。セカイ系とは、そのような、ある意味では絶望的なリアリティの中で、しかしそれでも「きみとぼく」の力を「世界」に立ち向かう力にできるのではないかという、物語構造だと言えるのです。*2
そして、まわピンという物語も、そのような「君と僕」で「世界=運命」と対峙する物語と、一見は解釈できるでしょう。
しかし、そのような「セカイ系」としてまわピンを見るのは、確かにつじつまは合うのですが、しかし「なんか違うような感じがする」というのも、また実感としてあったわけです。なぜか?セカイ系的意匠が、あまりにわざとらしすぎるのです。例えば「親」の存在。3兄妹の住む家において、親の存在は「隠されている」ことが明らかなわけです。しかし、もしこれが純粋なセカイ系なら、親の存在といったことはそもそも隠す必要がないわけです。だってそんなものは「存在しない」のですから。それこそけいおんみたいに、全く存在を描かなければいいわけです。しかし、それが敢えて隠されることによって、いわば「不在の存在感」というものが生じてしまっている。このことは、他にも、それがピクトサインによって描かれることによって、かえってその存在感が増してしまっている「通行人」の存在など、様々な傍証から言えることです。つまり、まわピンは、純粋なセカイ系というよりは、むしろそれを「演じようとしている」のではないかと、見えてしまうわけです。
そして、その「セカイ系を演じる」物語構造に亀裂を走らせたのが、荻野目苹果の存在なのです。
荻野目苹果は、まず最初に「覗かれる」対象として物語に登場してきました。しかし、そのような覗かれる存在だった荻野目苹果が、実は「覗く」ものであった。実はここで、「君と僕」からなる高倉兄弟の特権が既に失われ、性質としては高倉兄妹と同じ水準の他者として苹果が存在するようになる。そしていよいよ三話においては、その苹果が、高倉兄弟が頭があがらない相手である陽毬と接触することにより、有無をいわさず高倉家そのものに侵入し、「君と僕」の間に入っていくのです。
では、このような行為によって「セカイ系という演技」に亀裂を走らせることは、一体どういう意味を持つか?もちろんそれについて詳細に語るには、まだまだ話数が足りないわけですが、ただこれだけは言えると僕は考えています。
輪るピングドラムは、セカイ系的な空間を、その内側から崩し、新しい『世界』を私たちに見せてくれるのではないか」と。

苹果ちゃんという「セカイ」の外

セカイ系という物語は、確かに私たちの絶望的なリアリティから、しかしそれでも世界を変えようとするものでした。ただその「世界を変える」という目標は、残念ながら成功したとは言えません。例えばAIRという物語*3においては、結局なんだかんだやっても女の子は死んで、あー頑張ったけど君と僕じゃやっぱどーにもならないよね、みたいなお話なわけです*4セカイ系的な物語は、「君と僕」によって世界に立ち向かおうとしますが、しかしそもそもそんな「君と僕」を強く信じられるなら世界なんてどーでもよくなる(ここで本当に「君と僕」を左翼信じて世界なんてどーでも良くなるのがまさしく『けいおん!』や『ひだまりスケッチ』のような日常系である。日常系っていうのはつまり強者の想像力なのであり、だからこそ弱者は蛸壺屋的な想像力でその強者の世界を壊そうとする)わけで、そこで「世界」を気にしちゃうような弱い「君と僕」じゃ、key的な諦念に行き着くか、あるいは「物語の上でだけなら強い『君と僕』を夢見てもいいよね」と、グレンラガンのような熱血妄想に行き着くかしかなくなってしまうのです。
それに対してゼロ年代においては「サバイブ系」と呼ばれるような物語がセカイ系の対抗馬として現れてきた、というような議論もあります。それらの議論においては、結局「君と僕」だけじゃ生き残れないんだから、人々は自然と「君と僕」以外のものを利用せざるを得なくなる。だからセカイ系なんてものはもはや通用しない、というような議論がなされます。ただ、そのような「君と僕」以外のものにリアリティを感じられなくなっている以上、幾ら生き残れないんだろうが、「君と僕」以外のものを信じる事は可能なのか?それは一体どのようなロジックによってなのか?このような点に注目すると、むしろ「生き残る=サバイブ」ということはあまり重要ではないと言えます。
本当に重要なのは、「君と僕」という関係性のリアリティを、いかにその内側から、外に広げていくか。そして、それにより「世界」と対峙できる主体を見つけだせるか、なのです。
そして、そのような点から、今回の3話における苹果の役割は、極めて重要なものになるのです。
これがただ高倉兄妹の物語なら、まわピンはちょっと異色だけど、しかし根っこは90年代によくあったセカイ系的物語にすぎないものになってしまうかもしれません。しかしそこに、苹果という、極めてエキセントリックなキャラクターが、そのセカイに侵襲してくる。そこで兄弟は否応なしに、「君と僕」の外に広がることを求められる。それが一体どのような方向に向かっていくのか、まわピンという物語は、一体僕達にどんな新しい世界を、その物語の力によって見せてくれるのか、ただ見ていても楽しいですが、ひのような「時代性」を考慮しながら見ていくと、実はもっとまわピンが面白くなるのではないかと思います。

*1:なぜかセカイ系の説明をするときははてなキーワードの引用から始めるんだよな

*2:シャカイ系の想像力 (若者の気分)なども参照

*3:最終的に女の子が死んでカンドーなkey的物語に対するアンチテーゼとして、死んだところから物語を始めたまわピンを見るのは、そんなに間違った読み方ではないと思う

*4:別にAIRにkanonやらclannadやらを代入しても同じ