あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

ポストまどマギのアニメ史(2011-2012)

魔法少女まどか☆マギカ』、通称がTBS系列で放映されてからおよそ一年が経とうとしている。

放映当時、特に最終回前後においてのまどマギフィーバーは、まさにエヴァ以降の「社会現象」と言っていいものだった。サブカルチャーや若者文化について語るものは猫も杓子もまどマギを論評*1し、そして絶賛した。その熱は、一年が経った今でも衰えておらず、ちょっと現在の日本アニメについて触れた文章を書くならば、まどマギに言及することは必須であり、逆に言えば、まどマギと、あとけいおんについて触れていれば、現代アニメの主だった潮流はだいたい理解できると、思われているように感じる。
だが、まどマギは既にもう1年前の作品である。「まだ1年」というかもしれないが、しかしアニメ作品は、一年間あれば、ずっと一つのアニメにかかりっきりだったとしても、2クール作品なら2本、1クール作品なら4本もの作品が作れてしまう。事実、まどマギが終わった2011年の春以降に放映されたアニメは、算出方法によって大きく異なるが、およそ100本近くに上る。
では、これら100本にも上るポストまどマギ作品は、一体まどマギについてどのような答えを出してきたのか?この記事では

といった作品から、考えていきたいと思う。
これらの作品が選ばれた理由は、ただ単に「私が見ていた作品の中で、まどマギに対する答えらしきものを提示しているように見える作品だから」である。よって普遍的な代表性は全くないし、『STEINS;GATE』、『TIGER&BUNNY』、『C3−シーキューブ−』、『Fate/Zero』、『偽物語』といった、まどマギと扱うテーマや用いる演出が似ていたり、まどマギと同じスタッフが関わっている作品も含んでいない。であるからして、「ポストまどマギのアニメ史」という大仰な記事タイトルをつけているが、実際は歴史といえるような公共性を持つものではまるでない、「この部分ってまどマギに対する答えになっているよな」と私が感じたところをまとめた、極私的な感想文に過ぎない。
また、この記事では実際にこれらアニメのクリエイターがまどマギを意識しているかは一切触れない。あくまで視聴者から見た記事である。
このように穴だらけの―というかむしろ「穴しかない」―文章であるにもかかわらず、なぜ私がこの文章をアップするか。それは一重にこの記事を読んだ人々が奮起して、「自分にとってのポストまどマギのアニメ史」を書いてくれることを期待するからである。そのような極私的な感想の集積から、ポストまどマギのアニメ史を立ち上げる、その礎に、この記事がなれば幸いである。

日常―「何が起こるか分からない、それが野球!ってね」

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この作品は厳密に言えばポストまどマギではない。「日常」は4月の初旬に放映が始まったアニメだが、まどマギは東北大震災の影響で最終回の放映が遅れ、4月の中旬までずれ込んだからだ。
にも関わらず、4月の時点、少なくとも「日常」が放映される直前の時点までは、「日常」が、シュタゲと共にまどマギを超えるアニメとして有力視されていた。これは第一に、日常を製作するスタジオが「京都アニメーション」という、まどマギを制作した「シャフト」というスタジオと並び、現在激しく注目されているスタジオであったこと。そして第二に、多くの論が指摘する通り*2まどか☆マギカのテーマの一つとして「アンチ日常系」ということが言われるわけだが、それに対し『らき☆すた』、『けいおん!』といった日常系の大ヒット作品を手かげてきた京アニが、その名も「日常」というタイトルのアニメを作るということで、アンチ日常系に対し、日常系の逆襲が始まるのではないかという、日常系アニメファンの期待が集まったのである。
だがしかし、少なくともそのような日常系アニメファンの期待には、「日常」という作品は答えられなかった。
まずそもそも、「日常」は、らき☆すたけいおんを楽しんだファンが期待したような、いわゆる「日常系」に連なる作品ではなかった。確かにキャラクターこそ可愛い萌え系のキャラクターといえなくもなかったが、その内容はいわゆるナンセンスギャグ。このアニメの宣伝文句として「こけしが舞い、あかべこが飛び、鮭が落ちてくる。これって日常だね〜。」というキャッチコピーがあったが、それは、少なくとも、「日常系」における日常ではない。
つまり、元々まどマギの敵となりうるような性格を持つアニメではなかったのだ。そして、ナンセンスギャグ、それも毒を持たないナンセンスギャグである「日常」は、まどマギのように人々がのめり込むフックはまるでなかった。登場人物に激しく感情移入できるわけでもなし、QBのような本気で殺したくなるキャラクターが出るでもなし。来週どうなるのか引き込まれるストーリがあるわけでもなし。
もちろん、これらの要素は別にナンセンスギャグ漫画のアニメ化としては何らマイナスポイントではない。ギャグマンガのアニメ化として考えれば、「日常」は普通に秀作であるといえるだろう。だがそれ故に、そもそも全く関係ない別の道を歩んでいるのだから、「日常」がまどマギを超えることなどあるわけがないのである。
だがしかし、実は「日常」の中には、かすかにまどマギ的な「アンチ日常系」の思想への反発も、見られるのである。それは25話、長野原みお、通称ちゃんもお

のシーンである。
25話においてちゃんみおは「失恋」をし、自暴自棄になって暴走する。実は、それ以前の話においてもちゃんみおは頻繁に荒ぶり、ファン界隈ではミオタヴィア・フォン・ナガノハドルフという風に、一種の魔女なんかじゃないかと茶化されていた。そして、この魔女名からも分かる通り、その青い髪から連想されるのは、そう、美樹さやかである。

そしてさやかというキャラクターは、失恋して絶望し、魔女になって、そして杏子に倒された。それを多くのまどマギファンはさやかと上條と杏子が絡む悲恋物語として賞賛したわけだ。
だが、言っちゃあ悪いが、たかだか失恋した程度で絶望してしまうほど、人間というのはヤワにはできていないだろう。もちろん、少女の身からしたら、失恋というのはそりゃあ一大事だ。暴走して痛みすら感じなくなるというのも理解できる。でも、それでも人間は丈夫だ。そして、その丈夫さを、「日常」は、京アニが持てる作画技術を全て駆使したような映像で、表現した。

もちろんこれはあくまでギャグ演出であり、シリアス演出のさやかと比較するのは根本的に無理があることは重々承知している。しかし、私はこのちゃんみおの躍動にこそ、物語の枠から微妙にはみだし、それ故に言いようのない感動を生む、人間のリアルを感じずにはいられない。

ゆるゆり―「あかり死んでないから〜」

「日常」の高かった期待とは違い、ゆるゆりの下馬評はそれほど高くはなかった。女子中学生四人組によるゆるい日常というのは、日常系の王道設定すぎ、新鮮さを欠いているように見えたし、特にアニメスタジオが有名なところなわけでもない。
しかし、まず一話でいきなり「主人公の影が薄い」ネタや「アニメあるあるネタ」を投入し、そして2話〜4話で助走を付けていき、伝説の5話。前半にコミケネタを挟みこんでおいて、最後のあのがちゆり落ち。ここで多くの人は気づいた。「このアニメ、只者じゃない……」と。
そして続く6話ではちなカレー空間、完全に視聴者の心を掴み、最終話までお祭りムードを持続させて突っ走る。そして気づいた時には、もうゆるゆりなしでは生きていけないのである……もし無人島にテレビとBlu-Rayプレーヤーとアニメ一作品持って行っていいと言われたら、私は間違いなくゆるゆりを選ぶだろう。
そんなゆるゆりの魅力とは一体なんなのかと聞かれれば、中毒者的には「全部」としかいいようがない。ごらく部メンバーも生徒会メンバーもみんな可愛くていいキャラクターだし、ギャグのテンポはいいし、主題歌は中毒性抜群、キャラソンもきちんとそれぞれのキャラクターの性格を反映して、なおかつ面白い。作画も動くべき所できちん動かす。むしろ悪いところを言えと言われたほうが困り果ててしまうのだ。
ただ、そのような様々な魅力の中で、特に重要な魅力だと私が思うのは、物語の枠を飛び越えるメタネタの使い方や、作品外での盛り上げの使い方の上手さだ。だって、第一話からいきなり「主人公の影が薄いネタ」を入れてくるのである。普通そういうのって大体キャラクターの印象が固まってきた時にやるもの(原作では連載開始からある程度経ってのネタである)だと思うが、このアニメではいきなりそれを冒頭に持ってくる。その意表のつき方はすごいし、それによってあかり不憫キャラが固定化しおいしいネタとなるし、5話の衝撃の伏線となる。
\アッカリ〜ン/ネタ以外にも、アニメの中で自己言及的にアニメや絵に言及したりもする。魔女っ子ミラクるんやちなカレー空間といったネタは、単純に面白いし、そのネタのオタクっぽさは、深夜アニメを見るオタクとして、より作品世界に親しみやすくなる。
そしてこれらネタを、公式自身が後押しするのである。ニコニコ動画でアニメが放映される時に、公式アカウントの人や漫画の編集者や声優さんたちが実況に参加し、一緒に弾幕を打ったりして盛り上げる。ただ一人で孤独にアニメを見ているのではなく、みんなで一緒に盛り上がってアニメを見ている感覚が、ゆるゆりの醍醐味なのだ。*3
そして、その醍醐味が、ゆるゆり最終話の冒頭においては、なんとゆるゆりのアニメの中で再現されるのである。ゆるゆり最終話の冒頭は、魔女っ娘ミラクるんの最終回から始まる。多くの人はその映像を見て困惑し、そしてこう突っ込んだだろう。「これまどマギ最終回じゃん!」と。月に佇む魔女っ娘、一人はなんとまどか役の悠木碧!片方の魔女っ娘は力尽き倒れ、もう一人の魔女っ娘*4に遺志を継がせようとする。しかしそこでドリフ並みの遺言コントが繰り広げられた後、カメラはそのアニメを見て涙する、ごらく部面々を映すのである。そう、このごらく部はまさしく、まどマギを見て涙する私達そのものなのだ。「『ゆるゆり』を見ている私達」=「『魔女っ娘ミラクるん≒まどマギ』を見る娯楽部面々」。
そして最終回の最後において、まるで自らのみを犠牲にして魔法少女を救ったまどかのごとく、あかりはごらく部と生徒会の面々を救い、爆発する。そしてあかりは、私達の心にいて、いつも私達を見守る、「概念」となったのであった……あかりさんまじ概念

「ちょっと、みんなー、あかり死んでないから〜」
このふざけ方、まどマギ放映以降、何でもかんでもすぐまどマギネタに結びつけようとする私達そのものである。
私はここに、アニメファンたちのどうしようもないリアルさを感じてしまうのである。私たちは「戦う魔法少女」ではない、「『戦う魔法少女』を見て涙するごらく部」なのだ。まどマギ放映時、さんざん言われたことの一つに、「日常系のゆるゆる空間より、アンチ日常系のハード空間のほうがよりリアリティを持っている」と。だが私はそれにはっきりとこう答えられる。「『まどマギ』より『ゆるゆり』の方がよっぽどリアルだし」と。「テレビやパソコンの前に座って、久しぶりに笑い合って、楽しげに悲しいアニメを見る」、それこそが、ぼくらなのだ。

輪るピングドラム―「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」

「ポストまどマギ」という言葉をGoogleで検索すると、実はそのまんまのタイトルの記事がヒットする。
ポスト『まどマギ』!? "アニメ界の小室哲哉"が放った力作『輪るピングドラム』を再考 - 日刊サイゾー
この記事でも書かれているとおり、もしアニメに少しでも詳しい人に、「ポストまどマギと呼べる作品をひとつ挙げてください」と問えば、多分殆どの人が「輪るピングドラム」と答えるだろう。同じMBS深夜アニメであり、共に奇抜な演出をし、謎めいていてそれでいてジェットコースターなストーリー、萌えアニメの皮をかぶりながらその中身はハードなストーリー。まさしくまどマギ対抗馬の本命と言っていい。
しかしそうであるが故に、実はこの記事でピンドラについて扱うことは特にない。何しろ多くのピンドラ批評がまどマギとの比較を用いてピンドラを分析している。
ニコ生PLANETSのピングドラム語り - さめたパスタとぬるいコーラ

革命ってもう無いわけじゃない。70年代くらいから。もう信じられないと。昔の方法ではね、マルクス主義とか信じてたころから。そこでピンドラが95年が主題となってることから明らかなように、結構オウムがそうだったんだけど、「世界は変えられないけど、自分の自意識は変えられる」んだと。薬物とか、物語とか、コンテンツを脳に注入すると、自分の意識が変わるから、世界が変わったように見えると。それがオウムだったわけだよね。オウムは最終的には自分たちの理想を信じられなくなって、実際にテロを起こしてしまった。ピンドラってそれを肯定してるわけじゃないけど、それに近いじゃない。それをテーマにしてるわけじゃない。世界は変わらないけど、自分は変われるっていうね。

まどマギっていのは、革命とは違う新しい方法で、世の中を変えていこう、システムを変えていこうって。キュウベエってシステムじゃない。ゲームのルールみたいな。無機的なシステムに対して、どう奇跡を起こして、世界をどう書き換えるのかという。

けいおんっていうのは、世の中のことを全部一回横に置いといて、今この瞬間の幸せ。世界の問題は無いということに、ひとまずして、今のこの素晴らしさをひとまずうったえようという。それが一番ラディカルでロックなんだみたいな。

それが今の世の中に対しての三つの態度を表してると思う。現代日本の物語的というか、文学的想像力を代表する三角形。三つとも好きでも嫌いでもないというか、凄い引いて見ている。個人的に最適解だと思うのはまどマギ。システムを変えていこうというのが。でも批判力があると思うのはけいおん。一番ぶっ飛んでるというか。

ピンドラはどっちでもないけど、「世界は変えられないけど、自分は変えられる」っていう思想って、20世紀後半の三十年くらいに凄く支配的だった思想だと思うんだけど。あの頃のことを、あの時代が終わったからこそ、距離を持って見返して、そこにあるユニークな思想を使って、面白い表現を作ってるって感じがする。だから私も思春期を過ごした時期とか来ると、一番肌に合うというか、普通に見ていて面白く見れるのはピンドラだと思う。

腐フェミニスト記-801 Feminist Diary-

わたしの中でまどまぎへの違和感とかそういうものを解消してくれるアニメが現れてしまった。
輪るピングドラム

「輪るピングドラム」が「まどマギ」よりも悲しいかったワケ | 一本気新聞 www.ippongi.com

そういえば、一つの平凡で平和な世界は、別の世界における他者の犠牲の上に成り立っているという結論は、まさに昨年春のヒット作『魔法少女まどか☆マギカ』のテーマ(参照:「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。)でもあったが、この『輪るピングドラム』で訴えかけてくるこの世の摂理は、『魔法少女まどか☆マギカ』における意志的な救済に比べると、見方によっては、より、悲しいものだったように思う。
つまり、『魔法少女まどか☆マギカ』では、まどかが最終的に下した決断によって、新しく魔女が居ない世界が現出させたのに対して、『輪るピングドラム』では、「運命の果実を一緒に食べよう」という呪文によって乗り換えられた運命の先は、必ずしも望みが叶えられた世界ではなかったからである。

ほら、大体思いついたことは全て書かれている(笑)。
ただ、一つ屋上屋を重ねるとするならば、荻野目桃果というキャラクターはなんかまどかっぽいように思えた*5。まどかは自分の身を犠牲にして世界を救ったけど、桃果は自分の身を犠牲にしても最悪を次悪にすることぐらいしかできなくて、しかもその犠牲があらたな犠牲を生むという、ピンドラのシビアさがすごかった。まぁ、自分の身を犠牲にするぐらいで世界が救えるなんて、ちょっと真剣に物事を考えた人なら鼻で笑うことなので、そこは当然と言えば当然であるが。

劇場版けいおん!―「いつもの私たちの歌で良いんだ」

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「日常」で敗北を喫した京アニ。しかしその敗北すらも、全てはこの「映画けいおん!」を飾り立てる装飾の一つに過ぎないのではないか?そう思えてくる、京アニが作り出した日常系アニメの最高傑作。
だが、評論家によれば、このような日常系は既に飽きられ、そしてその反動として、アンチ日常系のまどマギのような作品が人気になったのだという。
朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?

 震災時に放送され、大きな話題となったアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は一見すると、主要な登場人物が、ほんわかした外見の女の子だけという「空気系」でよく用いられるスタイル。ところが実際は、彼女たちは穏やかな日常から投げ出され、過酷な戦いに身を投じていく物語だった。
 それは、ほのぼのと安心して、女の子たちを眺めるような「空気系」の楽しみ方とは異なる興奮を、視聴者にもたらした。
 坂上さんは「震災に不安定な世界経済も重なり、空気系に白々しさを感じる人もいる。強い『物語』が求められていくのではないか」と話している。(宮本茂頼)

これを読んでの私の表情。

映画けいおん!をもしまじめに見ているなら、こんな妄言絶対吐けないと思うんですがね。
けいおんの様な日常系に「物語」がないというのは、日常系批判の常套文句と言える。ここでいう「物語」とは、キャラクターたちが、その日常から離れ、そこで様々な、辛いものも含む非日常の経験をし、日常を暮らしていた自分たちとは違う自分になる。そんな展開のことである。そしてこの記事では、そのような「物語」こそが、今人々に求められているのだと言う。何故なら、人々は震災や不況により非日常を経験しているのだからと。
しかしながら、この「物語」への憧れ、実はこれこそが映画けいおん前半のメインテーマなのだていうのは一々説明しなくても普通に分かると思うんだがなぁ
ロンドンに旅行に行く唯達軽音部、彼女らはまさしくロンドンに特別な非日常を見出そうとする。そういう非日常があれば、特別な曲が作れるのではないかと。しかし、ロンドンで様々な経験をした彼女らは気づくのだ。

「いつもの私たちの歌で良いんだ」と。

これをアンチ日常系の人々は、今までの非日常な経験から目を背けると現実逃避と嗤うかもしれない。だが、私から言わせれば「現実逃避をしているのはそっちの方」だ。ロンドンでの彼女らの行動を思いだせ。彼女らはロンドンに行っても、本当にそれまでの軽音部のノリでロンドンを楽しんでいた。もちろん、それはロンドンでのことだから、上っ面だけ見れば非日常」なのかもしれない。しかし本質は、日本にいる時と何も変わらない、彼女たちの日常なのである。
そして、震災や不況に相対した私達が過ごしたのも、まさしくそのような日常である。「震災で日本が変わった」?馬鹿馬鹿しい。被災地でも、被災地以外のところでも、人々がやっていることは、本質的には何も変わってないのだ。
そして、そのように変わらない日常」は、一方で、そうだからこそ変化を生む。いつものように部室に生き、ちょっと練習してお茶したりして、そんな日常を繰り返していくごとに、新しい曲やテクニックを覚えたり、進級したり、そして卒業したりしていく。非日常が変化を生むんじゃない。日常こそが変化を生むのだ。
まどマギにはこのような日常はなかった。彼女らは非日常の、現実から遊離した空間の中で、さんざん暴れた上で、たかが少女一人の存在と引換に世界は救えるんだなんてうそぶいた。だが、はっきりと言う。世界はそんな安っぽいものではない。現実は、少女一人ごときが死んだって、民族虐殺の悲劇*6は救済されないし、交通事故もいじめもなくならない。
もし本当に世界を変えたいなら、この残酷な世界を、それでももうちょっとマシな世界にしたいのなら。そのような変化は、日常からしか生まれない。民族虐殺のような悲劇をなくすには、もっと人々と相互理解を深めるために、海外旅行先のお寿司屋でライブをしたりしよう。いじめをなくしたいなら、放課後に音楽室で気の合う者同士でお茶会とかをしよう。交通事故を無くしたいなら、横断歩道を気をつけて歩こう。
「日常系≒空気系は白々しい」?むしろその逆だ、アンチ日常系の、日常を経由せずに、たかが自己犠牲ごときで世界を救っちゃう「物語」こそ、「白々しい」のである。

ブラック★ロックシューター―「ちゃんと一緒に痛がろうよ」

正直に告白する。三話まで見たときは、ただまどマギとか、あとエヴァやらピンドラやらそういった有名作品の雰囲気だけを借りたアニメとしか思っていなかった。元々、とらドラ!放浪息子やあの花が嫌いな私としては、岡田麿里には期待出来なかったし、そもそもブラックロックシューターの元歌をうたうボーカロイドが好きではない。そして、三話までのストーリーも、全然わくわくしない、痛みを感じない空虚な戦闘パートに、よい子な主人公が熱血な感じで友達を救おうとするという、はっきり言ってウザウザな日常パート。キルミーベイベーとミルキィホームズの間の時間帯になければ、絶対一話で視聴を切っていた。
ところが、このアニメ、4話で化ける。
まず、問題の種となっていた女の子が毒舌だけど普通の性格となる。ところがその普通の性格へのなり方が明らかに異常なのだ。確かにそのような変化こそが、主人公たちが望んでいた変化なのだけれど、何かがおかしい。そしてそう思っている間に、周りの女の子も悩みを抱えたかと思うと、異常な「回復」を遂げる。そしてその影で暗躍しているように見えるスクールカウンセラー。物語は一気に極上のサイコミステリーの様相を呈していくのである(ただ、その段階では相変わらず戦闘パートが邪魔)。
そしてアニメの後半では、そのような変化が、実は主人公の思念体、ブラック★ロックシューターによるものであることが判明する。スクールカウンセラーブラック★ロックシューターに、少女達の悩みを全て消し去ってもらおうとしていたのだ。ブラック★ロックシューターは、他人の思念体を殺すことにより、その他人の悩みを消去しているのだと。しかしそれは、その悩みに付随した、記憶ごと消去することによって成り立っていた。つまり、誰かを好きで心が苦しいのならば、その好きな人の記憶ごと消去してしまうということなのだ。主人公はそれは酷いと感じ、ブラック★ロックシューターを止めようとするが、間に合わず、主人公を愛す、主人公の友達の思念体を殺してしまう。
そしてそこに更に思念体と本体が入れ替わったキャラクター(本体=ユウ/思念体=ストレングス)も登場してくる。
そこで更に主人公は、思念体が実は自分の「かっこよく人々を悩みからすくうヒーローになりたい」という欲望から生まれたものであることに気づく。つまり、ブラック★ロックシューターが他人の思念体を殺すのは、それを主人公自身が望んでいたからなのだ。だとしたら、一体ブラック★ロックシューターはどのように止めればいいのか。
主人公マトの決断は……という作品なんですね。まぁ、大変複雑な作品なので、見ていない人は是非見ていただきたい。
この作品において、重要なキャラクターがユウ/ストレングスである。彼女は「ずっと苦しみが続く現実世界より、思念体たちが単純にバトルロイヤルする思念体の空間のほうが良い。現実はつらすぎる!」と。これを聞いた時、私は即座にまどマギの、「心が絶望するとソウルジェムが真っ黒になって魔女になる」という、語弊を恐れずに言えば、極めて便利で都合の良いシステムを連想した。
なるほど、確かにまどマギの世界は、絶望が即、魔女化につながる。これは、普通に聞けば残酷だろう。だが、考えてみれば、絶望したのならもうこの世に未練はないはずだ。魔女というものがどんなものなのか、いまいち良く分からないのだが、少なくとも人間社会に属する必要はなく、人との煩わしい関わり合いもない。ただ単純に魔法少女と戦って、殺すか殺されるかの世界。最終回より前のユウならこう言うだろう。「そうだよ、それこそが私の望みだ!」と。
だが実際は、そんな都合のいいことはない。絶望をしたって、それこそあの主人公の友達のヨミのように心を壊して、それでも人として生きていかなくてはならなくなる。だからこそ、ブラック★ロックシューターというヒーローが求められる。そう、まるで女神まどかが魔女を自動的に浄化して魔獣にしてくれるように、ブラック★ロックシューターは絶望した人の心を、その記憶ごと、浄化してくれるのだ。
だが、そのようなブラック★ロックシューターに、マトは「違う」と言う。人は、悩みを抱えて、それでも生きていくべきなんだと。友達が傷ついたのなら、一緒に自分も傷ついて、痛がろう。そうやって、生きて、もっと多くの世界を見るべきなんだと。そんなQBに短時間で見せられた世界のほんの一部で満足するのではなく、自分の目と足で、世界を見ようと。
私は、この台詞こそが、女神になろうとするまどかに対し、ほむらが言うべき台詞だったんじゃないかと、そう思えてならないのだ。もちろん、これが両者の作品の設定の違いをまるで無視した発言であることは重々承知している。もしまどマギの世界でマト的な選択をすれば、魔法少女のソウルジェムの濁りはどんどんたまり、みんな魔女になってしまうだろう。最後にコトリトリが落ちたように。
でも、それでも、全てのソウルジェムの濁りを吸収する女神なんかになるよりはずっといいと、私は本気で考える。世界が魔女で埋め尽くされるなら、それは世界が間違っているのだから、その当然の報いなのだ。あるいは、そうやって生きていく中で、ひょっとしたらもっと良い名案が思いつくかもしれない。それは余りに夢想主義的かもしれない。だが、現実主義に屈する神よりは、夢想主義を信じる人間のほうが、よっぽど、いい。

戦姫絶唱シンフォギア―「大人だから夢をみる」

「ついこの間まで日常の中に身を置いていた少女が誰かの助けになるというだけで 命を賭けた戦いに赴けるというのはそれは歪なことではないだろうか」

こういう台詞をきちんと言い、そして言うだけではなく、きちんとその歪さを受け止めて、戦う大人がいるアニメ、それが戦姫絶唱シンフォギアであるっ!
この作品は、まだ最終回が放映されてない。そして一話の冒頭から考えて、最終回には驚愕の展開が待っているはずだから、今取り上げるのは時期尚早かもしれない。だが、ポストまどマギについて考える時、このアニメを抜きにして考えるということは、ほぼ不可能だろう。何故なら、この作品はまどマギという絶望的な作品を受け止め、その絶望を希望へと変換したといえる作品だからだっ!
その変換点を箇条書きにして述べるっ!*7

  • まどか@悠木碧が最後の最後まで戦わなくて萎えー→一話の終わりから全力のバーサーカー!
  • 魔女によって出ている被害に、なんで社会はあんなに無関心なの?→特務機関が災害として対処します!
  • まどかの世界の大人たちは頼りなさすぎ。少女に全て任せすぎ→大人もきちんと戦います!むしろ大人が強い!
  • 主人公が結局死んじゃうとか悲しすぎる……→最初に遺影を見せてショックをやわらげます!でも本当は死なないかも!?
  • ぶっちゃけ、魔女v.s.魔法少女のバトルあんまわくわくしないよね→奈々ちゃんとあやひーと碧ちゃんが、毎回歌いながら戦います!しかも蒼ちゃんは物理!カンフーもあるぜ!
  • エントロピーとか話しややこしくしすぎ→全ては米軍の陰謀だぜ!
  • 最後に主人公が神様になっちゃうって……→神様萌えのヤンデレがラスボスだ!
  • 結局まどかが何のために戦ってたかとかよく分からん→戦う理由?ゆかちとのキマシタワーを守るために決まってるじゃないか!
  • 先輩キャラが最初のほうで死んで悲しい……→毎回枕元に出るぜ!成仏?何それ?
  • 最後の方になるに連れてみんな死んでどんどん話が暗くなってくよね……→さぁ!12話を見よう!
  • やっぱり最後はみんなで力を合わせないと→さぁ!12話を見よう!
  • どうせアニメでしょ、それって→さぁ!12話を見よう!

とまあ、まどマギを見て、「ここがこうだったらなぁ……」と素朴に思うような場所を全部改めた、まさしくご褒美アニメなのですっ!
と、こういう風に言うと、「まどマギは暗くて絶望的な雰囲気こそが良いのに。なんかご都合主義で子どもっぽい」と思う人もいるかも知れません。しかし!

「大人だから夢をみる」のだっ!

そして、その夢を叶えるのだ。だって、大人だから!*8

まとめ

というわけで、6つの作品を例に出しながら、日本のアニメが如何にまどマギの命題に対し立ち向かってきた様に見えたのか、私の独断と偏見から、紹介してきた。
誤解してほしくないのが、私はただ単に、まどマギに対するアンチテーゼとなりうるから、これらの作品が好きなわけではないということ。いやそりゃ、確かにぶっちゃけまどマギは大嫌いだが、しかし例えそんなまどマギという仮想敵がなくたって、これらの作品は素晴らしいメッセージを、私達に与えてくれているのだ。まどマギを仮想敵にしたのは、ただ単にそうやってまとめたほうがまとめやすかったからにすぎない。
ただそのように考える一方で、でもこれらのアニメはやっぱり、どれもこれも、あのまどマギという呪いと戦ってきたのではないかと、まぁ妄想だと言われれば否定しようがないが、私にはそう思えてならない。
この試みを「対立厨的な行い」として批判する人もいるかもしれない。しかし私は、日本のアニメは、それを語るものたちがもっときちんと「対立」すべきであると考えている。
アニメとは表現だ。そしてそこで表現されるのは、そのアニメ固有の一つの思想であり、思想とは、お互いに互いを批判し合うことで、より成長し、洗練されたものになっていく。
言っておくが、ここで言う「対立」とは、売上なんていうしょうもないものを競い合うものではない。というか、売上で言ったら、今回紹介した作品は、映画けいおん以外ほぼボロ負けだ。
だが、売上なんてどうでも良い。もし売上で全てが決まるなら、この世で最も強いフィクションは『聖書』ということになるだろう。だが実際は、私は神を信じない。聖書なんかより強い思想が、アニメの中には山ほどあるからだ。
対立を恐れるな。己が愛するアニメの力を信じ、そのアニメを讃えよ。そして、そのような対立と対決を行うことにより、お仕着せのものではない、私達の、アニメ史が形作られるのである。

*1:当ブログでも、3回にわたってまどマギを論評し(id:amamako:20110505:1304547864、id:amamako:20110608:1307502747、id:amamako:20110706:1309921972)し、その後も事あるごとにまどマギについて触れた(id:amamako:20110909:1315551855、id:amamako:20111012:1318426337)。

*2:[http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-2789.html:title]、[http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY201112060258.html:title]

*3:そして一旦一緒にみんなで盛り上がることにより、一人でブルーレイを見ていても、勝手に脳内で「みんなのコメント」が脳内補完それるのである

*4:ここで配役が逆転し、悠木碧の方がほむら的立ち位置にいて、まどか役はあずにゃん@竹達がやるというのも、ほんと示唆的で面白い

*5:ただ声は唯ちゃんであり、因果@UN-GOなのだが。

*6:[http://www.syu-ta.com/blog/2011/04/24/105159.shtml:title]、ほんと、この描写こそ私がまどマギで最も許せないのだ。ホロコーストの悲劇を、たかが少女一人の犠牲で「修正」してんじゃねー!!!!!

*7:[http://www.youtube.com/watch?v=ZwyxwilU2zA:title=マッハ!の予告]のノリで読んでくれっ!

*8:これだけ大見え切って最終回どっちらけだったらやだなーw