あままこのブログ

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ニコニコ動画から「文学」は生まれうるのか?

id:masafiro1986氏が「カゲロウプロジェクト」という、最近若者の間ではやっている(こういう風にいうと自分がおっさんになったことを痛感するなぁ)作品について、面白い記事を書いています。
カゲプロのような思春期中二女子に届く作品に今後の文学の可能性を感じている件について - 群青
カゲプロは中二女子向けだから新しいのだと思う - 群青
ここで一応解説しておくと、「カゲロウプロジェクト」とは、ニコニコ動画で発表されたボカロ曲が元になって生み出された作品群で、ボーカロイド曲・小説・アニメと多数の派生作品を生み出しています*1
で、上記のブログではこの作品が最近の女子中学生に人気であるといい、一体なぜ女子中学生に人気なのかを考察しているわけです。
その内容を僕なりに要約すると、このカゲロウプロジェクトの作品・世界観は、「女性が欲望すべき世界」の様に作品の世界を描くことを避け、少年・少女が未分化な空間を作品内に作り上げることによって、自らの女性性に違和感を抱く「中二女子」を惹き付けていると、そういうことのようです。
そして、このように思春期の心性に寄り添う「カゲロウプロジェクト」のような作品こそが、今後求められる文学なのではないかと、id:masafiro1986氏は主張したいのかなと、僕は解釈しました。*2
そして僕も、その考察・主張自体はとても納得はいくんです。というか、そういう風な、思春期の申請にきちんと寄り添ってきた、ジュブナイル小説こそが、日本においては「文学」が果たすべき役割を果たしてきたというのは、否定しようがないでしょう。
ただ、そこで僕は考え込んでしまうのです。
「でも、カゲロウプロジェクトって、元々はニコニコ動画の曲から生まれた作品群で、その作品が好きな人は当然ニコニコ動画も大好きなわけでしょう。そんなところから、果たして本当に思春期の心性に寄り添えるなような『文学』が生まれるの?」と。

ニコニコ動画は「はしご外し」のメディアである

例えば、ちょっと実際に、ニコニコ動画にアップロードされている、カゲロウプロジェクトの中の一曲、「カゲロウデイズ」の動画を見てみてみましょう。あ、ご覧になるときは、NG共有レベルを切
にするのを忘れずに:)

……いやぁまぁ、凄い荒れような訳です。よほど訓練された人間でなきゃこのコメントを掻き分けてまじめに曲を聞くことはできないでしょう。
更にいえば、悪ノリ大好きなニコニコ動画民だから、当然こういう動画に対するパロディ動画も作られます。大多数の人は不快感を持つし、差別要素も多々ある作品ですから、URLを書いておくだけに留めておきますが、本当に酷い動画です。見る価値ないです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22865743
もちろん、こういった動画は見ようと思わなければ見なくてすむものですし、コメントだってNG機能をフル活用すれば、まぁ大抵のアンチコメは消せるでしょう。ただそれでも、「こんな動画にマジになってるお前らダセー」というような声が存在する(しかもネット上では。そういう声はことさら大きく見える)ということは知ってしまう訳で、それでもなおベタにこういう動画を好きでいられるものなのか?
以上の理由が、僕がニコニコ動画から「文学」が生まれるうることに懐疑的な、一つ目の理由です。ニコニコ動画っていうのはむしろそういう「文学」の神聖性・神秘性を脱臼させるフラットな空間なのです。

ニコニコ動画は「独りよがり」を許さない

ただ一方で、そもそも「文学」なんてものはいつの時代も世間から「恥ずかしい」ものとみなされてきた、でも文学の担い手・受け手はそんなものには屈しなかった、という声もあるかもしれません。もしそうならば、例えすぐ隣でその作品に対するはしご外しが行われたとしても、変わらずその作品は「文学」でありうるという主張もできるかもしれません。
では、仮にそのはしご外しを乗り越えたとしましょう。ですがそこに現れるのは、少なくとも僕の目から見れば「文学」にもっとも似つかわしくない、〈共感の海〉です。
試しに、先ほどの「カゲロウデイズ」を、今度はNG共有強にしてご覧になってみてください。

……ま、正直そんなに変わらない訳ですけど、目につくのはとにかく弾幕弾幕、そして弾幕でう。要するに「この作品はここが盛り上がりどころですよー」「ここで驚いてくださいねー」「ここで感動して拍手してくださいねー」ということが逐一、コメント欄という場の雰囲気によって決定され、そして視聴者はその流れに同調して盛り上がり、一体感を感じるわけです。
……これ、「文学」なんでしょうか?
もちろん、別に文学に決まりきった定義なんてありませんから、こういう祝祭的盛り上がりも文学なんだって言ってしまえば文学でしょう。ただ、それを読む個々の心性に寄り添うことができるものが「文学」であるとするなら、ここにあるのはそれとは正反対の、個々の心性をいったん忘却させ、集団全体と同一化させる、そんなものなのです。
なぜそうなるのか?答えは簡単です、みんなで一斉に作品を見て、そしてその作品をどう解釈し、どこでどう盛り上がるかもみんなで決める、ニコニコ動画という場所がそういう「みんなで決める場所」だからです。
かつての「文学」が読まれる場所とは、そういう場所ではありませんでした。もちろん作品自体は大量生産される製品なわけですけど、しかし読者はそれを一人で読み、そして一人でその作品について解釈・評価するものだったわけです。そしてそのような評価の中で、「この作品は実は俺のことを書いているんじゃないか」「俺に向けて書かれた本なんじゃないか」と誤解させる、文学とはそういうものだったのです。もちろんそれは、小説というものがマスプロダクトである以上、独りよがりな誤解以外の何者でもないのですが、しかしそういう独りよがりな誤解によって、マスプロダクトでありながら個々の心性に寄り添い、そして個々の独立を促す、そういう効果が文学にはあったのです。*3
ですが、ニコニコ動画という空間ではそういう独りよがりな誤解は許されないのです。それはカゲロウプロジェクトでも同じです。作品のストーリーとか言葉に込められた隠喩とかそういうのを解釈するのは自由です。ですがそれは所詮、エヴァが放映された頃に流行った謎解き本と同じように、トリヴィアルなオタク知識の競争でしかありません。そうでない作品の本質部分、一体どういう場面で人々に共感し、悲しんだり喜んだりするべきなのかは、厳密に決められ、そこからの逸脱は許されません。そして、その逸脱を許さないことにより、(敢えてその言葉を使えば)「カゲロウ厨」は「カゲロウ厨」としての集団アイデンティティを強化し、団結するのです。

ニコニコ動画が生み出すのは「文学」というより「民話」ではないか

そのような点から考えると、僕は、ニコニコ動画から生み出される物語は、カゲロウプロジェクトも含めて、「文学」というより「民話」として考えるべきなんではないかと、思います。
「民話」は個人の心性には寄り添いません。それよりも共同体の生活に寄り添います。共同体の生活の中で重要なことを訓話のように伝えたり、共同体であがめられている神を讃える話を語り継ぎます。そしてそれによって、人々を共同体に帰属させ、「自分は共同体の一部である」という意識を持たせるのです。
そして、民話において重要なのは真性性(それが個人にとって唯一無二のものであるか)ではなく実用性であるから、多くの二次創作=異潭が作られます。そこには単一の作者も意思も存在せず、ただ「○○が好きな俺ら」という部族が存在するのです、カゲプロ、ニコマス、東方、淫夢etc...それらはすべて、ニコニコ動画というサービスに住み着いた部族であり、そしてそれぞれの部族は、自らの共同体を維持するために、「民話」を生成し続けるのです。

「民話」ではない「文学」は、果たしてニコニコ動画から生まれ得るか

もちろん別に僕は「民話」より「文学」の方が偉いなんていう話をする気は毛頭ありません。というか、僕自身ニコニコ動画で、いくつもの部族を掛け持ちしながら、「民話」を聞くのが大好きです。むしろそこで勘違いして「文学」っぽいことをされたら興ざめです。
ただ、一方で、僕は「ニコニコ動画」で文学を紡ぐことは、難しいけれど不可能ではないし、また、やらなくてはならないことではないか、とも考えるんですね。
先ほどちらっと注釈で述べたように、近代の個人主義というのは、やはり「集団(共同体)」ではなく、「個人」に寄り添う文学があったからこそ成立し得たものであり、自由主義や民主主義といった、現代の私たちを支える基本的考え方も、その基盤にある「個人主義」、そしてそれを涵養する文学がなければ、絵に描いた餅になってしまうのです。
だから私たちは文学を取り戻さなくてはならないのです。ただそこで「動画サイトなんか見るのやめて本を読もう」とか言っても、ラッダイト運動にしかならないわけで、新しいメディアが登場し、そこに人々が集まっている以上、その新しいメディアに適合した文学を、私たちは模索しなければならないのです。
もちろん、こんな偉そうなことを言っている僕ですが、ではどうすればいいのかという具体策はほぼありません。ただ一ついえるのは、はしご外しを恐れたり、それを恐れるあまり「集団による祝祭」に逃げ込んでいるかぎりは、その物語は文学足り得ないということです。はしご外しを恐れず、むしろ積極的にはしごを外していき、このすべてがパロディにされてしまう世界を受け入れながら、しかし集団的な物語ではなく、個人それぞれに熟慮してもらうような、そんな物語が生まれれば、それは「文学」と言って良いでしょう。
ただ、僕が見る限り、「カゲロウプロジェクト」を含めて、そこまでの文学足り得る物語は、今のところニコニコ動画からはまだ出てないようです。

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

*1:残念ながらアニメはそんなに評判よくなかったみたいですが

*2:要約といいながらより小難しい言葉の羅列になってしまっているのはご愛嬌

*3:そして更にいえば、そうやって文学により「個人主義」が成立したこそこそが、実は近代の自由主義を生み出す前提条件ともなったわけだ