あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「怒り」という力が失われた時

ものすごい久しぶりに書くブログ記事な気がします。皆さんお元気でしょうか。僕は色々あって元気じゃないです(てへ)。
今日の記事は完璧に自分の内面だけを吐露するような記事なんで、なにか有益な情報とか、また誰かを批判するのかとか、そういうのを期待している人は読まなくてもいいです。

「怒り」がなくなって、何のために生きればいいか分からなくなる

で、早速本題なんですが、最近の自分は、どーも「怒り」が足りないのではないかと、そう思えてならないのです。
これ、まあ普通の人にとってはいいことなんでしょうが、僕みたいに「怒る」ことが、ブログを含めた全生活を、なんとか支えていたものだったわけで、これが足りなくなると、すごい困るんです。
色々試してみました。なんとか他の、喜びみたいな感情を動機に生活できないかとか……でも、喜びって結局刹那的で、かつ孤独なものじゃないですか。何か食べて美味しかったー、アニメやゲームが面白かったーなどのように、その一時に対しては、喜びが行動の原動力になるわけですが、じゃあその為に自分の生活をきちんとしようとは思えないというか……「今が楽しければそれでいい」でズブズブと堕ちていってしまう。
怒りは違うんですよ、怒りっていうのは、尾を引くものであり、何か対象を持つものなわけで、怒りの対象をなんとか貶めてやろうという計画を練り、その為に日々の日常生活を送ろうとする。少なくとも以前の僕にとっては、そーいう怒りの感情が、ブログ執筆も含めた、日々の生活を支える原動力だったわけです。
そしてその原動力がなくなった今の僕は……結構生きること自体がきつくなっちゃうわけです。

怒らなくなったのか、怒りを表現できなくなったのか

ただ、瞬間瞬間で頭にくることは、自分だって結構あるわけです。今の日本の政治なんて頭にくることばかりだし、サブカルチャーにおいても、教養もない、うちわネタでただ楽しんで、その表現の意味を考えることすらしないような作品を見れば、頭に血が昇りますし、それに対する不満をtwitterにぶつけたりするわけです。
でもじゃあ、それが、かつての自分を支えていた「怒り」と同じものなのかを考えてみると、どーも違うような気がするんです。例えるなら、昔の怒りは、それが届いていたかどうかは疑問ですが、とにかく怒りの「対象」に向かって、拡声器で怒りの声を上げるような、そんなものだったのに対して、今のこの刹那的な感情の吹き上がりは、本当にただ刹那的に吹き上がって、壁ドンとかはするけど、すぐ収まってしまい、自分の中で解決してしまう、そんなものなのです。
だから、もしかしたら後者の刹那的な感情の吹き上がりは、前者の感情の成れの果てなのかもしれない。いずれにせよ、もはやそれらの感情の吹き上がりもまた、先ほど上げた喜びと同じように、自分の人生の目的となるようなものではなくなってしまっている。

これからどうやって生きていくか

これからどうやって生きていけばいいんだろう、そんなことをふと考えます。怒りを取り戻すべきなのか、怒りなんかに囚われないで、自分の生きる目的を探すべきなのか。
ただひとつ言えることは、今の自分は、昔の自分がまさしく嫌悪していたような、そんな人間になってしまったんだなと、いうことです。