仕事を退職して暇なので、甘いあまいサブカル自意識地獄 ハセガワケイスケ『いのち短しサブカれ乙女。』 - 小説☆ワンダーランドで紹介されていた『いのち短しサブカれ乙女。』なる小説

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いやー、ノアちゃん(この小説に登場しているサブカル女子*1)の言葉の一言一句が、いかにもサブカル女子らしいパワーフレーズばっかりで、こういう痛い女の子が大好きな僕としては、ゲラゲラ笑いながらいちいちセリフに傍線を読んで一気読みしてしまいました。傍線引きながら小説読むとかはじめての経験ですよ……
具体的にどんなパワーフレーズがあるかといえば、例えば、いつも被っているベレー帽について聞かれた時に
「なんちゃってオシャレアイテムで流行に乗って何の魂もなくベレー帽を頭にのせてたやつらはみんないなくなった。そして真に魂の権化のごときベレー帽をかぶった、いやベレー帽に選ばれし者だけが残った……――それがつまり、サブカルよ」
と、そこまで聞かれてもいないのに長々と演説したり、ノアちゃんの友人である主人公「わたし」がふと浅野いにお作品を手に取ると、いきなり
「浅野いにお先品はね、サブカル好きの登竜門でもあるの」
「そうなんだ」
「数々のすばらしいサブカル好きの先人たちを生み出したそうまさにサブカルバイブル。しかし――」
ノアちゃんは苦々しく唇を噛みしめる。
「と同時に! サブカル糞野郎へのとっかかりでもあるんだよ!」
えっ!
「残念ながら勘違いしたファッションサブカルどもがハイエナのごとくいにお臭をかぎつけ我も我もと群がってきやがったんだもの!」
と、ファッションサブカルへの憎悪を爆発させたりする。かと思えば見ているゲーム実況動画のゲーム*2のヒロインが死んだ時には
iPhoneを手からこぼすように床に置いて、ノアちゃんは大きなため息をついた。
「……逝ってしまわれた。」
なんてあざとい可愛らしい様子を見せる。こんな痛い女の子、もう萌えるしかないでしょ!分かるでしょ!?あ、分かりませんか、そうですか……
とにかく、僕は小説読んでる間ノアちゃんに萌えっぱなしだったわけですが、一方で読んでる内に、こんな思いもしてくるわけです。
「こういう女の子が、特に現実を見せつけられもせず、優しい世界で『日常系』できる、今って―良くも悪くも―そんな時代なんだよなぁ」と。
「厳しい世界」から「優しいセカイ」へ
だって、こういうサブカル系の痛い女の子が登場する作品では、ほとんどの場合、それこそ『ヤサシイワタシ』

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しかしそうはならないわけです。むしろ、ノアちゃんの回りにいるのは、ノアちゃんを素直に尊敬していて、"サブカルではまったくないんだが、しかし自分のサブカル趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らないサブカルの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる"ような"都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女"である、主人公の「わたし」ちゃんを筆頭に、理解ある人たちばっかりで、水を差してくるような敵キャラは全くいないわけです。そういう点では、それこそ『中二病でも恋がしたい!』

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現代のサブカルは「キャラとしてのサブカル」である
さて、多くの場合、前者のような「痛さに厳しい世界」を描く作品のほうが、後者のような、「痛さに優しいセカイ」の作品よりリアルであるとされて、後者のような作品は、物語の中の都合の良い世界とされてしまうわけですが、でも僕は、むしろ現代においては後者のような作品のほうがリアルであると、そう思えてならないのです。
どういうことか。つまり現代のコミュニケーション状況とは、どんなに痛いキャラクターであっても、その「痛いキャラクター」から逸脱せず、また他者のキャラクターを否定しない限りは、その「痛さ」でさえ許されて、ひとつの個性として認められてしまう、そんな「優しいセカイ」なのではないかということです。
それは、良い面もあれば、悪い面もあるでしょう。良い面としては、それこそ手ひどい目に合わずに誰もが、そこそこ優しい世界で、自分のキャラに沿って自分の趣味に没頭することが出来るという点がそうです。しかしそれは逆に、それぞれのキャラが固定化され、そのキャラから逸脱する可能性が、最初から排除され、成長、または変容のチャンスが失われてしまうということです。それは「サブカル」という文化そのものにも言えることで、「キャラとしてのサブカル」が認められる、しかしその時点で、そのキャラから逸脱して、他の文化クラスタ―それこそv.s.オタクというような―にけんかを売って、打ちのめしたり打ちのめされたりして、その中で文化自体が成熟・変容していくチャンスが奪われていくということでもあります。
このような「キャラとしてのサブカル」についてどのような評価を下すかは人それぞれでしょう。僕個人としては、そこに一抹の寂しさを感じざるをえないところもあります。ただ、よくも悪くも、現代の「サブカル」とはこういうものであるということを、『いのち短しサブカれ乙女。』という小説は象徴しているのでは、ないでしょうか。
アーバンギャルド - さよならサブカルチャー