あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

お手頃に承認欲求が満たされる時代

かつて、「承認欲求をいかに満たすか」みたいなことが、ブロゴスフィアで盛んに議論されていた時代があったわけだけれど、
昨今はむしろ「勝手に満たされてしまう承認欲求にいかに甘えないようにするか」が、問題なんではないだろうかとか、思ったり。
例えば、twitterやらfacebookとかで何か、世の中では賛否両論あるようなことをつぶやいたとする。
で、ある程度のフォロワー数がいれば、その中にはいつもふぁぼなりRTなりいいねなりをしてくれるありがたい人っていうのがいるわけで、でまあそういう時、だいたいそういう人はふぁぼとかしてくれるわけだ。
で、そのふぁぼとかを見て、人は―というか自分の場合は―まあ気分よくなって、「ああやっぱ自分の意見に賛同してくれる人っているんだな」と、承認欲求を満たされるわけだ。
ほんと、お手頃に承認欲求が満たされる時代になったよなぁと思うわけですよ。
いやもちろん、検索して探そうと思えば、そのようなポジティブな反応ではないネガティブな反応っていうのも見つかります。でも、まーある程度ネットで発言するのになれちゃった人って、そういうネガティブな反応は受け流して、ポジティブな反応により多く反応するような心的機制が身についちゃってるもんでしょう。もちろん倫理的にはネガティブな意見こそ真剣に拝聴すべきものなんだけど、でもそんなこといちいちやってたら早々心が折れちゃうわけで、良くも悪くもそういう心的機制は、たとえ倫理に反しても、身についちゃうものなんじゃないかなぁ。
というか、個人の視点に立てば、そういう自分のメンタルを防御する試みってのは、そんなに悪いものではないと思うのよ。ネット上での発言を生業にしたりする特殊な人なら違うかもしれないけど、多くの個人は別にネットにそこまで人生かけてないわけで、余暇としてやる分には、そりゃあメンタルにいいやり方でネットライフを楽しんだ方がいいに決まってる。
で、さらに言えば、そうやって似たような意見を持つもの同士が寄り集まって相互承認するようにすれば、マイノリティな意見を持つ人たちでも安定的に意見を発することができて、結果としてインターネット全体に流通する意見が多様化するわけで、実は大局的に見ても、こういうお手軽に承認欲求が満たされてしまうシステムは、そんなに悪くはないとも思うわけですよ。
でも、やっぱりなんかこう、「それで本当にいいのか」とも思うわけで。
僕の持つ意見、それに対して違う意見を持つ人がいる。だったら、いったいどっちの意見が正しいのか、本気で、言葉を拳にして、殴り合わなきゃいけないんじゃないか。そしていったいどっちが正しいのか、きっちりと決着をつけないといけないんじゃないかと、思うわけです。そしてそのためには、ポジティブな反応なんかより、むしろネガティブな反応にこそしっかり向き合い、それと対決しなきゃならないんではないかと。
でも、そう思いつつも、やっぱりお手軽に承認欲求が満たされる、SNSでのポジティブな反応集めから逃れられない自分がいて。
「そんなんじゃだめだ、もっと生きるか死ぬかの戦場で戦わなきゃ」と思う自分と、「もうそんなのいいじゃん、ぬるく生きようよ」と思ってしまう自分。二つの自分の間で葛藤に悩む、そんな今日この頃なんです。