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「論壇プロレス」よもう一度!―『現代ニッポン論壇事情』を読んで

北田暁大栗原裕一郎後藤和智の鼎談をまとめた新書『現代ニッポン論壇事情』を読みました。
いやー、かつて論壇誌とかが盛んに出版されていて、いわゆる「論壇プロレス」というのが活発だった頃に、大塚英志*1とか宮台真司宮崎哲弥*2とかがやっていたシュートな批判を思い出して、かつて論壇プロレスが大好きだった人間としては、「『論壇プロレス』が蘇ってきた!」と、興奮を感じました。
正直、立場としてはこの鼎談の主張は、文化左翼かつ反安倍・野党共闘派で資本主義大嫌い、ついでに言えば後藤氏もいまいち好きになれない(まあ、それは向こうも同じみたいで、後藤氏には以前↓のように
批判されているわけですが)な僕の立場とは全然相い容れないにも関わらず、「いいぞ、もっとやってやれ!」と叫びたくなる、そんな書です。
いやほんと、この本のガチさに比べれば、この本で批判されている現代ニッポン論壇の論客たちが、いかに小粒な試合しかやってないかっていうことですよ。

批判されている論客

とりあえずまずは、この本のガチさを分かってもらうために、この本での、論客たちや論壇上のもの・ことへの批判を、とにかく羅列してみましょうか。

北田 ……思想経歴の落とし前もなく、「正義の人」になってしまっているのが、どうにも理解できない。「正義の人」に転向するのはいいんですが、俗流初期中年論を掲げて、政策的にも放置されている出生コーホートを「最弱」なだといいのける。びっくりしましたね。

北田 ……本当に社会に対して無責任だと思う。

北田 結局、内田樹は精神論なんだよね。

後藤 ……『動物化するポストモダン』に対して「ポストモダン社会を生きる若者像を描いている」という評価もありますが、どうしてあんないい加減な本がそう受け止められるのかという疑問があったんですよね。
栗原 ……東は若手をはべらせては使い捨てるようなことをずっと繰り返しています……

後藤 ……東さんは「自分だけが本質を見ている系」……

栗原 ……東浩紀の批判者みたいに売り出しましたけど、要は東浩紀の掌の上で東を批判するようなことばかり書いていた……

北田 ……宮台さんの言う「社会システム理論によれば」というのは、「私の考えによれば」以外の何ものでもなくて、システム理論をまじめにやっていれば到底あんなこと言えないですよ。ルーマン何も関係ないですもん。……

北田 宮台さんは彼が部分的にしか見ていない「沖縄」が理想社会なんですよ。……沖縄が日本社会の行き着く先だなんて、呆れてしまう……

後藤 宮台さんは、最近の本を読むとほとんど過去の理論の焼き直ししかやってないです。
北田 ごめんなさい、私、読んでいません。
栗原 俺も読んでないです。

後藤 宮台さんこそ「自分だけが本質を見ている系」のスターですよ。

  • ニッポンのジレンマ

北田 ……学究肌の人が出る番組じゃない。とにかく中高年の人たちにとって非常に無害な人たちが立ち並んでいて、衝撃を受けたんです。

北田 ……NHKの「ジレンマ」とか本当にいい加減にしてほしい。ああいうのは公共放送で流す価値はない。……

栗原 ……『ユリイカ』にしても、今やただのオタク雑誌としか思われてないですよね?
北田 立派なサブカル誌ですよね。

栗原 ……『ユリイカ』にヤバい原稿を書いたとしても、燃える気がしない。……

北田 ……昔だったら『現代思想』『ユリイカ』『思想』に書くことはステイタスだったけれど、今の大学院生にそんな感覚はない。「それよりちゃんと査読つけたほうがよい」という感覚がある。それは全く正常なことですけど……

北田 ……同じ大学の教員と学生だから古市さんには触れないようにしてましたけど、さすがに「劣化」発言の頃からどうでもいいかと思うようになってきました。……僕は彼の本を読んでいないから何で怒っているのかわからなかったけど、テレビを観るとその理由がわかった。「ああ、これにムカつくのか」と。
栗原 あの舐め切った態度ね(笑)。……

北田 ……僕の同世代の職業社会学者で古市さんを評価している人ってゼロなんですけど。

栗原 ……濱野智史の『前田敦子はキリストを超えた』は、良くも悪くも……良くはないか(笑)、象徴的でした。濱野氏はアイドルオタクをこじらせてPIPというグループの運営に手を出したんですが、行き詰まったのか「アイドルはクソ」と言い残して途中で放り出してしまった。その後、最低限の説明責任も果たさないまま雲隠れしてしまい……ほとんど社会人失格……

後藤 ……熊代亨さんが『ロスジェネ心理学』という本を出していますが……ロスジェネより下の世代としては全く共感できなかった。……

  • SEALDs、AEQUTAS

栗原 単純に言っちゃうと、経済オンチはSEALDsが好きなんですよ。AEQUTAS(エキタス)とかも好き。
後藤 確かにそんな感じはします。

北田 ……もう現存する既成野党には絶対何も期待しない……

北田 ……共産党大会に社民党民進党の代表が行ったんですよね。あんなこと、以前だったら考えられない。……正直な話、いまだに共闘で勝とうとか言っている時点で、もう終わっているとしかいいようがない。

北田 ……やっぱり共闘って困ったものです。なんの解決にもならないですしね。

栗原 あの人、言っていること支離滅裂じゃないですか。

北田 上野千鶴子さんとか小熊英二さんとか、本当に心配になるんです。あの人達の考えが一番わからない。……あの人たちには「経済はほっといてもこの程度は維持できる」という日本経済信仰があるんじゃないか。……

栗原 ……大澤と浜崎が箱根の老舗温泉で対談しているんだけど、驚いたことに浴衣姿で写っているという。いいご身分というか何というか。……
北田 ロスジェネ論壇の一つの上がり方ですね。
後藤 そうですね、それがロスジェネ論壇の一つの上がり方になっている。
栗原 大澤、太ったよー(笑)。

北田 赤木さんって、テキサス親父っぽいですよね。

栗原 國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んだら、まず人というのは暇と退屈を持て余すものだっていうのが前提になっていてすごい違和感を覚えて、現在ってどちらかというと「退屈を持て余してる暇なんかねーよ」っていう……

北田 國分さんの本は、デリダじゃないけど、「時間が無限だ」という前提がないと成り立たないと思うけどね。

栗原 ……「素人の乱」の松本哉にしても偉くなっちゃったしねぇ。
北田 そうそう、全然貧困とは思えない(笑)。ご本人が裕福になることは構わないのだけども、それが生活保守とか彼らが言う新自由主義に当てはまっちゃってるということは、少し考えてほしいなとは思いますよね。

北田 ……白井さんすごくよい服を着ていて、生まれ育ちもよいのがわかる。一番金がない僕が一番“右側”ってどういうことですか、という話ですよ(笑)。

栗原 ……柄谷の『世界史の構造』の収奪論・搾取論にしてもやっぱり比較優位説を理解していない。もしくは理解を拒絶しているから出てくる話……

いやあ、バッサバッサと斬っていきます(笑)。斬られた人たちは、ここで斬られたことを自覚して斬り返さなきゃ、一生死んだままなわけで、ぜひとも反論に期待したいところです。その度胸がないなら、論壇からは退場すべきでしょう。
ちなみに現段階でこの本に言及している論客については、togetterにまとめているわけですが、この本で言及されている論客でこの本に反論しているのは佐々木敦と千葉雅也ぐらいです。
togetter.com

本の内容と、自分の感想

さて、ここからは実際に本にどんなことが書いてあるかと、それに対しての自分の意見を書いていきます。
本の内容は箇条書きで要約すれば以下のとおりです。

  • 90年代から現在の若者バッシング・若者擁護論は、俗流若者論であり、証拠はなにもなかった。それが受け入れられたのは、上の世代の不安や希望をちょうど表すものだったから。
  • ピントのずれた若者バッシング・若者擁護に嫌気が指した当時の若者が、その仕返しとして反左翼の冷笑系になっている
  • 日本の文化左翼は経済政策に関する展望がないが、今社会問題に口を出すなら経済に関する意見は欠かせないはず
    • 搾取とか労働問題ばっかり語ることは経済について語ることにならない。成長戦略について語らないと駄目
  • 脱成長論は結局金持ち左翼の道楽。真に庶民・貧困のことを考えるなら左派リベラルはアベノミクスを支持し、経済成長推進派に舵を切らないといけない
  • 経済の問題についてきちんと考え、エビデンスに基づいた議論と、それに基づく政策提言をやることが今論壇のやるべきこと
  • 社会学に社会全体を説明できる大理論はない。それを語るのは「自分だけが本質を見ている系」

これに対する自分の意見は以下のとおりです。

  • 俗流若者論が若者に対する期待・不安の結果だとしたら、それ自体を批判することにあまり意味はなく、肝心なのはそのような俗流若者論というものが生まれた原因を探ることにあるのでは?
  • 社会問題に対して口をだすときに経済政策への意見は、なくてもいい場合もあるのでは。例えば、政策を変えるのではなく、政策の中で生き残る方法を考えるときなどには
    • そして文化左翼の基本戦略は、むしろ「政策より対策」なのでは
  • 経済成長推進はいいけど、それが持つミクロな意味を語らなければ、経済成長推進に説得力はない
    • そしてミクロな意味には、ポジティブなものもあればネガティブなものもあるはず
  • エビデンスに基づく議論よりむしろ、エビデンスを多少無視しても自由な発想をし、そしてどのような社会であるべきか規範を語るのが、論壇の役割では
  • 真に人々に訴えかける政策提言をやるには、むしろ「自分だけが本質を見ている系」になっても、社会全体を語り、その中で規範的価値に基づいて目指すべき社会像を指し示すことが必要なはず

それぞれについて、説明していきます。

俗流若者論は、社会病理の「症状」であって「病因」ではない

この鼎談で後藤氏はいつもと同じように俗流若者論を「エビデンスがない」と非難するわけです。ただ、そこで終わるならこれまでの後藤氏の議論と同じで、正直飽き飽きなわけですが、この鼎談ではそこから一歩進み、その俗流若者論の背景には、年長世代の社会に抱える不安や希望が「若者」に反映されているのではないかといった、原因に関する考察や、この俗流若者論における「若者」が、「外国人」や「マイノリティ」に変化したものが、ヘイトスピーチであったり、ポストトゥルースといったものではないかという分析を行ったり、更に俗流若者論に対する反発が、ロスジェネやポストロスジェネに蔓延する反左翼・冷笑系の原因になっているのではないかと、考察したりします。
まあ、これに対して栗原氏は

栗原 ……ただし調査して統計を取ってみないと正確にはわからないところなので、断定するのはリスキーだと思います。……

なんて釘を刺したりするわけですが、ぼくはむしろ、そういうツッコミを受ける可能性があることを知りながら、敢えて自分の考察を明らかにした後藤氏の勇気を褒めたいと思ったりします。今までの後藤氏ならそういう風に、統計的裏付けのないことを語ることは絶対なかったわけですから。
ただ、そこまで進みながらも、相変わらず後藤氏は俗流若者論自体への批判こそが自分の使命であるというわけです。ここで僕は「ガクッ」ときちゃうんですね。いやだって、俗流若者論には、それを求める人々の心性があると分かってるわけでしょ。だったら何で、その心性の元となるものであるものを明らかにし、そこをなんとかしようと考えるのではなく、心性の結果でしかない「俗流若者論」を批判して、批判すれば問題が解決するなんて思っちゃうのか。根拠なき若者蔑視、あるいはその反対の根拠なき若者賞賛が一種の社会病理であるとするなら、「俗流若者論」はその病因である症状にすぎないということは、当人にさえ分かってきたはずなのに、なんでそこまで行ってまだ対症療法にこだわり、病因そのものを解明して治療しようという発想にならないのか、僕には理解できないんです。
もちろん、そのような解明・治療を行うためには、一旦エビデンスの世界を離れ、理論と仮説の世界に飛び込まなければなりません。しかし一旦離れたとしても、結局はそこで考えた仮説を立証するため、エビデンスの世界に戻ってくるわけなんですから、別に自分が今まで言ったことの裏切りにはならないと思うんですがねぇ。

「政策より対策」を考えるのも文化左翼の一つのあり方

この鼎談では、主に第2章で、毛利嘉孝吉見俊哉上野俊哉といったカルチュラル・スタディーズの学者や、松本哉鶴見済といった活動家を「文化左翼」とし、この人達が大勢への抵抗とか大学改革反対を叫びながら、経済への展望が全くないことを、「社会問題に首突っ込むなら経済的展望を持たなければならない」と批判します。
しかしこの批判は、僕にはどうにもピントがずれているように感じるんですね。というのも、文化左翼の基本的なスタンスって、そもそも「議会政治には期待しないで、自分たちで自分たちの理想を達成できるコミュニティ(コミューン)をDIYする」というものじゃないですか。政治とか経済とかっていうのは、悪くなるのが所与の前提であって、自分たちが
どうにかできるものではない。自分たちにできるのは、そういう体制の政治・経済からいかに逃避しつつ、自分たちの理想を、コミューンの共助などを駆使して、どうすれば実現できるかを考えることに尽きる。少なくとも僕にとって「文化左翼」の生存戦略って、そういうものです。
そもそも「文化左翼」の発想では、議会政治ってのは多数派の独裁にすぎないわけで、それは必ずマイノリティに不都合になるものに過ぎないわけです。だって政治っていうのは利益分配なわけですから。北田氏らは「いやそうじゃない、経済成長すれば全員に利益を分配させられる」というかもしれませんが、例え成長によって利益が増えたとしても、多数派が多数派の利益のみを考えるなら、多数派のみに増えた利益を分配させるに決まっているわけで、マイノリティに利益がいくわけがない。そこでマイノリティができるのは、議会政治の埒外で、多数派の利益を掠め取り、少数派内のコミュニティでそれを分配し、共助を行う、それしかないのです。
いうなれば、「政策より対策」を考えるのが文化左翼なのです。だとしたら、政策なんてものを考えるために、経済の展望を持つなんてことに無駄なリソースを費やすなら、現存の経済状況を所与のものとした上で、マイノリティ内や、対多数派の政治を考えるのは、決して間違ってないでしょう。あくまで、この世界が多数派とマイノリティの闘争であるという世界観を前提のものとした上でですが。
もしこれを否定するなら、世界を闘争の空間であるとみなす世界観そのものを否定しなければならないわけですが、そのような論はなく、ただ北田氏らは「経済展望がない文化左翼は駄目だ」と主張するわけです。これは、議論が噛み合ってないと言わざるを得ません。

経済成長のミクロな意味

この鼎談では、一貫して「経済成長の重要性」というのが強調され、現代の貧困は、経済成長が実現されれば簡単に解決され、経済成長により人々全体に利益が分配される。逆に、経済成長が実現されなければ、貧困はひどくなる一方であり、人々は利益の奪い合いを始め、社会は悪くなる一方だろう。といったことが主張されます。そしてその考えに基づけば、脱成長論は人々を苦しめる悪魔の思想、ということになります。
もちろん僕も、脱成長論の脳天気さにはうんざりします。特にブータンとかを理想社会とか言ってる奴らは大嫌いです(あんな「市民、あなたは幸せですか」なんてパラノイア的問いかけをして、それに「はい幸福です」なんて答えさせる国がまともなわけがない)。ですがその一方で、リフレ派が主張する「経済成長すれば全てがバラ色」などという未来像にも、疑問を抱かざるをえないのです。
なぜならそこでは、「経済成長を求められる状態」というものが、ミクロな人々にどんな意味を持ち、どんな心性を植え付けるものなのかが、明らかにされないからです。
それこそ、釈迦に説法になってしまって恥ずかしいのですが、社会学の古典である、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描かれるように

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

経済体制というものは、それを支える人々の心性抜きには成立しないし、また、経済体制が、人々の心性に重大な影響を与えもするわけです。
とするなら、「経済成長を目指す経済体制」、「経済成長を目指さない経済体制」、それぞれにも、それに適合し、人々に植え付けられる心性というものがあるはず。
事実、「デフレが人々の心性に影響を与えた」ということは、リフレ派でも「デフレカルチャー」という論で主張されることなわけです*3
ところがではその反対である「インフレカルチャー」がどういったものかは、リフレ派はほとんど語られないし、この鼎談でも語られません。ですがデフレカルチャーがあるなら当然インフレカルチャーだってあるはずですし、そしてさらに言うなら、文化相対主義の立場に経てば、デフレカルチャーにも利点はあり、インフレカルチャーにも欠点はあるはずなのに、それが語られることはないのです。
経済成長というものが人々に持つミクロな意味を指し示しているものとして、唯一といって良い記事は、以前の僕の記事
amamako.hateblo.jp
で示した、山形浩生の「ピーマンのヘタ」があります。
cruel.hatenablog.com

 人はGDPとか経済成長とかいうことばだけ覚えて、なんかわかったつもりでいるけれど、それを実感として理解している人はおどろくほど少ない。でも、それは抽象的な数字なんかじゃない。明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。そうした各種の無数の努力が積み重なっていく様子を想像してみなきゃいけない。

つまり、ピーマンのヘタを見た時、それについて活用法を考えることを強いられるのが経済成長の心性であり、むしろ何も考えないことを強いられるのが、脱成長の心性であるわけと、この説明からは捉えることができます。
あるいは自分の経験から考えましょうか。一般に、経済成長肯定派は、経済成長することによって失業率が下がり、結果的に豊かな社会になると言います。ですが、失業率の減少は、言い換えれば「働くことがより当たり前なものとして、人々に強いられるものになる」ということでもあります。例えば、失業率が高いなら、「失業率が高いんだから別に働いてなくてもいいよ」となっていたのが、失業率が下がることにより「失業率が下がったんだから、あなたも働きなさいよ」というふうに、就労規範がより強くなるということも考えられます。というか実際、現在絶賛ニート中の僕には、そういう圧力がかかっていたりします。
このように双方がどのようなミクロな意味を持ち、どのような心性に人々を誘導していくか明らかになってこそ、「経済成長、是か非か」という議論はできるのではないでしょうか。

経済成長が人々を幸せにする?でもじゃあ高度経済成長期の日本や、現在の中国の人々はみんな幸せなの?

さらに、僕が経済成長万能論に不審を抱く理由として、過去や現在において、経済成長を達成していた時代・場所が本当に幸せだったのか?という疑問があるわけです。それこそ、この鼎談でも重要なこととされている、比較分析です。
例えばリフレ派の経済学者の本を読むと、高度経済成長期の日本は経済成長をしていたから万人に利益が分配されていたと主張されます。ですが、それこそ過去の日本は、現代と比べて人権意識もジェンダー意識も劣っていて、マイノリティの権利も今よりずっと抑圧されていたわけです。そんな時代がなんで現代より幸せと言えるのか。経済成長は人々の幸せと負の相関があるとまでは言いませんが、すくなくとも正の相関はなさそうです。
時代が違うという声もあるでしょう。だったら現代で比較してみたらどうか?今一番経済成長しているところといえば中国でしょう。じゃあ中国の人々は幸せでしょうか?拡大する格差、強権体制、環境破壊、これらは経済成長が進んでも解決するどころかむしろ深刻化しているじゃありませんか。
だからと言って、僕は脱成長論が正しいというわけではありません。ただ言いたいのは、経済成長は人々の幸せに対して、必要条件ではあるかもしれないけど十分条件ではないということなのです。経済以外にも、しなきゃならないことは多分いっぱいあるはずなわけで、だとしたら「経済は経済学に任せる、社会学や論壇は別の領域で人々が幸せになるための条件を探る」というふうに、専門分化しても別にいい。むしろ、みんながみんな経済のことばっかり考えて他の問題がおろそかになるより、よっぽど良いのではないかと、そう考えるのです。
さらに言えば、「そもそも人々にとって何が幸せか?」ということは、どこで議論されればいいのでしょうか?

論壇のやるべきこととは

北田氏らの鼎談では、「論壇はエビデンスに基づいて、経済について議論をし、経済についてに展望を指し示さなければならない」と主張されます。いうなれば、彼らにとっては、経済学の学会でされるような議論が論壇のモデルケースなのでしょう。ですが、僕はこれに対して2つの点から反対です。

1,仮説提示

1つには、むしろエビデンスに基づかなくても言えるような自由な議論がなされるからこそ、論壇の議論は価値があるのではないかという点です。
人文科学・社会科学・自然科学にかかわらず、科学の研究というのは、多くが次のような手順を踏んで行われると僕は理解しています。

  • 仮説の提示
  • 仮説の検証
  • 仮説の肯定・否定

ここで重要なのが、仮説は検証されるまでは、エビデンスに基づかない、あくまで「思いつき」レベルであるということです。仮説が正しいか間違っているか証明するが研究なのですから、研究の始まりにおいては、仮説は未証明なのです。
そして、このような未証明な仮説は、それこそ突拍子もない議論、ブレイン・ストーミングの中からしか生まれません。もしブレイン・ストーミング中にいちいち「その発言、エビデンスあるの?」と問うような人間が居るなら、ブレイン・ストーミングの議長はむしろそのような突っ込みをする人間を追い出すべきです。
そして、僕にとって論壇とは、まず第一にそのような仮説を提示する、ブレイン・ストーミングの場じゃないかと、そう思うのです。
社会学と論壇の結びつきが強かった理由について、この本の鼎談では人脈からの説明が図られるわけですが、むしろ僕は、社会学が「学問」としてきちんとしたもの、エビデンスに基づいたものになるために、自分たちで仮説を提示することができず、その仮説の供給先として、論壇というものを必要としたという、理由の方が大きいのではないかと考えます。実際、論壇誌に載った文章を論文の一番最初に引用し、「~~という議論があるが、それが本当であるかこの論文では調査する。」という社会学の論文は、それこそ腐るほどありました。*4
この鼎談では、今の職業社会学者は論壇誌なんか全然読まないという指摘が、論壇の権威の失墜を示すものとして語られますが、僕からすると、それは結局、社会学が既存の研究の追試ばっかりしているということで、むしろ社会学の面白さの失墜に思えてなりません。

2.「なにが社会のあるべき姿か」を提示する

論壇の2つめの役割、それは、そもそも「なにが社会のあるべき姿か」、どういう社会が「人々にとって幸せな社会」なのかということを論じるということです。
これは、『責任と自由―リベラリズムの居場所』

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

なんて本を出した北田氏からすれば、あまりに初心者的発想で失笑されるような理解かもしれませんが、少なくとも僕は、社会科学というのは「価値自由」の学問であり、ある特定の価値観を推奨・強制するような議論は科学ではないと、認識しています。
しかし実際は、そもそも「どのような社会が理想か」ということについて議論がなければ、例え社会科学によって「このような政策をとればこのような社会になる」ということが選択肢として提示されても、その選択肢のどれを選ぶべきか判断できないでしょう。
いや、実際はそのような議論がなくても、個々の「判断」はなされるでしょう。極めて素朴な功利主義的判断や、あるいは「自然な」ナショナリズムエスノセントリズムにもとづいて。そしてマルクス主義はそのような議論が絶対成立しないという立場で、階級によって自らの利益を最大化する社会像は異なる、だから社会は必ず分断し、階級闘争が始まると主張するわけです。
ですが、この鼎談ではそのようなマルクス主義は否定され、社会の統合が重視されています。ならば一層のこと、それぞれの階級内利益や、裸の個人による弱肉強食の生存競争とは違う、統合された社会像が求められるはずです。
では、そのような統合された社会像はいかなるものであるべきかは、どこで議論されるのでしょう?僕には、これこそが論壇の役割であるように思えてなりません。
そしてそうである以上、「経済成長によって成り立つ社会」、「経済成長抜きで成り立つ社会」、この2つのどちらが良い社会なのか議論するのも、論壇の役割なはずであり、最初から「経済成長によって成り立つ社会」であるべきだという結論を先取りすることはできないはずです。何より、先に述べたとおり、「経済成長することのミクロな意味」が明らかになっていませんから、そもそもその2つのどちらが良いか、議論すらできてないのが現状なのです。

論壇は、学問に「先立つ」ものであり、学問の「後ろに立つ」

言うなれば、論壇は、学問に「先立つ」ものであり、学問の「後ろに立つ」ものなのでは、ないでしょうか。
まず論壇が、そのブレイン・ストーミング的な機能により、「このような施策が、このような社会を生み出すのでは」という仮説を提示します。
そして次に、学問が、その仮説の妥当性を検証し、仮説を証明、または棄却します。
最後に再び論壇が出てきて、証明された仮説に基づき、ではそこでどんな社会を目指すべきか、目指すべき社会像を議論する。
このような役割分担が、論壇と学問にはあるのであって、一概に論壇の学問化・エビデンス化を目指すことは、このような議論のサイクルを崩壊させるものに思えてなりません。
そして現在の論壇・学問の問題は、学問が論壇から離れてしまったことにより、論壇が自律して仮説を立て、その仮説を(検証ないまま)直接信じ、短絡した議論で「目指すべき社会像」を論じてしまう。一方学問は論壇と離れたために、新たな発想が生まれなくなり、既存の研究の追試ばっかりになってしまっている。そんな状況なのではないでしょうか。
重要なのは、論壇を学問化するのではなく、論壇と学問の役割分担をはっきりさせ、それぞれが「できること/できないこと」をしっかり認識する、そのうえで、両者の連携を図ることだと、僕は考えます。

政策提言のあるべき姿について

そして、そのような論壇と学問の共同作業によってこそ、北田氏らが重視する政策提言も実現できるはずなのです。
この鼎談では宮台氏が「エビデンスなしに議論をすすめる」として批判されていますが、エビデンスにこだわらず、論壇と学問の両がかりで言論活動を進めたからこそ、実効性のある政策提言ができていたわけです。
そして現在においても、社会において影響力を持つ議論は、論壇的なものと学問的なものの両がかりで進められています。
例えば、先日経産省のある若手官僚たちが示した「不安な個人 立ちすくむ国家」というプレゼン資料が大きな注目を集めました。
www.buzzfeed.com
blog.szk.cc
多分この資料は、鼎談に参加したお三方からすれば、大澤氏など鼎談で批判されている人が参加していることも相まって、まさしく「現在の日本の論壇の負の象徴」といえるようなものでしょう。
一応言っておくと、僕もこのプレゼン資料の中身には批判的です。僕が批判する理由は、主に藤田孝典氏と同じです。
経産省若手の提言「不安な個人」があおる世代間対立 | 下流化ニッポンの処方箋 | 藤田孝典 | 毎日新聞「経済プレミア」
しかし重要なのは、中身ではなく、このプレゼン資料の形式です。このプレゼン資料は、現代ニッポンの論壇的なものの領域内に踏み込むことによって、影響力を手にしています。
つまり、自分たちが目指す社会像が、人々の心性とどう相互作用を起こすか、仮説を提示し、そしてさらに、そういった社会が理想か、社会の理想像をも、提示しているという点です。
繰り返しになりますが、もし学問・科学的手法のみにこだわるならば、このようなプレゼン資料は作れないでしょう。科学は存在する仮説の検証はできても、仮説の提示はできませんし、さらに言えば社会の理想像という「価値観」を主張することもできません。
もっと言えば、このプレゼン資料は、まさしく「自分だけが本質を見ている系」です。ですが、そうやって「自分が社会全体の本質を見ることができている」と主張しているからこそ、「いや、社会全体はもっと違う機制で動いている」というような批判が可能になるわけです。これが「自分は社会の一部しかわからない」という、検挙で科学的な態度で書かれていたら、そもそも議論すること自体不可能になります。
鼎談では、「自分だけが本質を見ている系」であること自体が否定されますが、僕は、「自分だけが本質を見ている系」であること自体は、否定されるべきことではなく、むしろ論壇で主張をする前提ではないかと考えます。重要なのは、そこで他の「自分だけが本質を見ている系」との間で論争をすることを恐れず、どちらが信じる「本質」がより正しいか、オープンな議論で決着を付けることではないでしょうか。
そして、そのような営みを僕は「論壇プロレス」と呼びます。だからむしろお三方には、俺達こそ本物の「自分だけが本質を見ている系」だ!と主張し、今回の鼎談で示したような、シュートな批判を他の論客たちにもして、論壇の活性化に貢献してほしいのです。

*1:chiruda.cocolog-nifty.com

*2:この二者のうち、前者はこの鼎談での主な批判対象である一方で、後者はこの本を絶賛している(https://twitter.com/warakoichi/status/874807079009107969)というのもまた面白い

*3:デフレカルチャーと心の消費―『AKB48の経済学』 - 事務屋稼業

*4:そして、実際そういう論文は、その仮説が肯定されるにしろ否定されるにしろ、既存の研究の追試ばっかりやっているような論文よりずっと面白いです。まあそれは、それこそ僕の主観なので、押し付ける気は全くありませんが