あままこのブログ

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経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか

経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか、れいわがブームな今だからこそ、改めて問いかけてみたい。

anmintei.net

やすとみ氏については毀誉褒貶色々あるけど、この記事自体は色々面白かった。れいわが何であれだけ左右問わず既存の政治関係者から嫌われているのか、にもかかわらず、それが、僕を含めたある種の人々(この記事では「無縁者」と呼ばれている)を惹きつけるのか、わかった気がする。

ただ、今回とりあげたいのはその話ではなく、この記事についた、以下のようなコメント。

b.hatena.ne.jp

rna 富国強兵と経済成長をごっちゃにしてるところで読むのやめた。 

 preciar 頭の悪い文学系らしいクソポエム社会認識。何が富国強兵より子供、だ。技術と経済の発展がなけりゃ人が死ぬんだよ。/れいわの評価点は経済だけなので、こんなパープリンを混ぜるのは勘弁してほしい 

 「経済成長こそが大事だ」っていうのは、確かにれいわのブレーンの一人である松尾匡氏なんかも散々言ってることなので、まあこういう意見も出てくることは当然予想できます。

ですが、一方でれいわのもう一つの側面、特に今回当選した二人の障害者に対して散々言ってる下記の言葉からすれば、そりゃ当然こういう成長否定論になるだろうと思うわけです。

www.nhk.or.jp

生産性で人間をはからせない世の中を目指すことと、経済成長こそが一番大事だとすること、この二つは両立するのか、僕は大いに疑問なんですよね。

だって、「生産」することなしに経済成長なんてありえないでしょう?こう書くと、ちょっと経済学をかじった左派経済学者は「いやいや生産という供給ではなく需要が問題なんだ」ということを言います。ですが、需要ばっかり高めても生産が一切増えなかったら、経済がうまく回らなくなることは、流石に僕だってわかりますよ。今の経済状況がどうかはひとまずおいておいて、原理の話だけするなら、供給と需要、つまり生産と消費、その二つが共に増えていくことが、経済成長の必要条件なわけです。ということは、「経済成長を維持することを第一に考える社会」というのは、「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」なわけです。

となれば、そういう社会は、「どれだけ何かを生産しているか」「どれだけ何かを消費しているか」でもって人間をはかるようになるわけで、やはり生産性で人間をはからせない世の中とは両立しないんじゃ、ないんですかね?

もちろん、僕は経済学が、大学時代様々な社会科学をかじった中で一番苦手だった学問だったので、経済学に詳しい人からすればツッコミどころだらけでしょう。

ですが、じゃあそういう人は、経済成長ってなんなのか、それが人々に何を強いるのか、マクロな政策の次元ではなく、ミクロな行為の次元で語れるのでしょうか?

amamako.hateblo.jp

なぜ経済成長論争がこんな風にレッテル貼り対決にしかならないか。それは、結局経済成長肯定派も否定派も、経済成長それ自体や、その経済成長を人々に強いる、または脱成長を人々に強いるということが、人々のミクロな生活(労働だったり余暇だったり)をどう方向づけるのか、価値表明の前の事実認定の段階での合意形成が取れていないし、取る気もないからではないでしょうか。
いや、マクロな面で言えばそりゃ経済成長の定義っていうのは明白なんでしょう。国内総生産が前年と比べて増加すれば経済成長?とかそんな感じなんでしょう。
しかし、そうやってマクロな現象である経済成長が、人々の一体どういうミクロな営みによって形成されているのか、経済成長が人々を幸福にするか不幸にするか問うなら、まさにそういうミクロな視点から見た経済成長論こそが重要なはずなのに、経済成長肯定派も否定派も、そういうミクロの営みについてはほとんど語らないわけです。

……

なぜこういう風にミクロな観点から経済成長というものが生活に占める位置を確定させることが重要なのかと言えば、こうやってミクロな意味をはっきりすることで初めて、「では人々は経済成長を選択すべきか否か」がわかるからです。
例えば上記の定義に従って言うならば、経済成長を肯定し、経済成長を推し進める政策とはつまり「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことを奨励し、人々にこのように振る舞うよう条件付ける政策ということになります。そして逆に言えば、経済成長を批判し、脱成長を推し進める政策とはつまり、「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことをむしろ悪いことだと考え、人々にこのようにしないよう条件付ける政策ということになります。
このように具体的に、人々の生活をどう条件付けるかが分かって初めて、そのどちらを選ぶか判断ができるわけです。

僕がこの記事を書いたのは今から2年前ですが、 しかしこの記事に対して経済成長肯定派が返答することはありませんでした。もしかして答えられるものがないのでしょうか?だとしたら、実際に経済成長を推進することが、人々のマインドをどう規定するかわからず、ただ「経済成長」という概念を神様のように崇めてるだけなんじゃないの、それって経済成長真理教と何が違うの?と批判されても、仕方ないでしょう。

だから、れいわ支持者を含め、「経済成長こそが一番大事だ」と考える人は、経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか、両立するとしたらそれはどんな社会で、そこで人々はどんなマインドで生きることになるのか、是非答えてほしいとおもいます。

が、まあおそらく、前回の記事と同じように、この記事も黙殺されるんでしょうね。