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「表現の不自由展・その後」展示中止について、僕の考え

先日見てきたあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」

「表現の不自由展・その後」を見てきました - あままこのブログ

ですが、残念なことに、展示を中止するという方向なようです。

「表現の不自由展」中止に 少女像作品めぐり抗議が殺到 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

「撤去しなければガソリンの脅迫も」企画展中止に知事 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

津田大介氏が謝罪「想定を超えた。僕の責任であります」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

これに対し、「表現の不自由展・その後」の展示内容を実際に考えた実行委員会の人たちは、展示中止の決定に抗議し、撤回を求めています。

表現の不自由展、中止に実行委が抗議「戦後最大の検閲」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

この展示中止について、実際にこの展示を立場から、意見を述べます。

僕の意見は、要約すると次のとおりです。

  1. 脅迫や嫌がらせが相次ぎ、テロの恐怖さえある現状では、一時的に展示を中止することはやむを得ない。
  2. そのような脅迫や嫌がらせに対する備えをし、安全に展示を行える万全な対策をした上で、展示は絶対に復活させるべき

まず、脅迫が相次ぎ、安全が確保できないために、一時的に展示を中止すること、これについては、僕は賛成です。というのも、実際に見てきた感じから言うと、明らかに展示会場はこの種の脅迫や嫌がらせ、また実際に起こるかもしれないテロに対して準備ができてなかったからです。前回の記事でも述べましたが、普通に怪しいペットボトルを持った右翼らしき人が展示場所をうろうろ出来る状況だったわけで、ブコメでも「京都アニメーションの放火事件を思い出して怖い」という意見がありましたが、あとから考えると僕もよくあの現場に入れたなと、背筋が寒くなります。

そしてこの種の危険は放置しておけばどんどん大きくなっていきます。事実、最終日の展示会場をルポしている朝日新聞の記事によれば、僕が行った日よりも嫌がらせ等が頻発し、かなり危険な状況になっているように思えます。

少女像頭に紙袋、怒鳴り声…「表現の不自由展」最後の日 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

これに対し、「こういう展示をするんならこんな危険があることは予め想定できたわけで、準備不足は運営側の責任」という声もあります。

しかし前回の記事で述べたように、今回の展示はそんな危険を予期させるほど過激なものではありませんでした。展示を見た僕からしても、あの程度の展示でここまで脅迫・嫌がらせが相次ぐということは、ちょっと想像しずらいんじゃないかとおもうわけです。

なので、安全を確保するまで一時的に展示を中断すること、これはしてもいいし、むしろするべきであると考えます。

ただ、それはあくまで一時的な措置であるべきで、安全対策を万全に整え、テロの危険をできる限り抑えた上で、今回の展示は、絶対再開すべきであると、僕は考えます。

その理由は、前回の記事で述べたように、この程度の展示すらできないんであれば、他の現代の芸術作品も展示できなくなるわけで、芸術に限らず、今後の表現活動全般に対し、悪しき前例を作ることになってしまうからです。

残念ながら、社会がとことん分断され、レイシズムがはびこる日本の現状を考えると、今後もあらゆる表現に対し、脅迫や嫌がらせによってその表現を封じようとする動きは生まれるでしょう。そういう動きに対し、何も対策をとらずただ表現を自粛してしまったら、まさしく表現の自由の死であり、そんな中で芸術祭などできるわけがありません。脅迫や嫌がらせがあっても、それに屈せず、安全に表現を行う方法を稽え、実行に移すこと。これは、今後も芸術祭を行っていくつもりならば、絶対にやらなきゃいけないことなはずです。

そして、私達市民も、脅迫や嫌がらせに屈せず、表現の自由を守ろうとする動きには、連帯を表明すべきです。その点から言えば、今回の騒動について、twitterで「#あいちトリエンナーレを支持します」という連帯を示すハッシュタグが広まったことは素晴らしいことだと思うし、僕も大いに賛同します。

「#あいちトリエンナーレを支持します」支援の声、SNSで広がる|MAGAZINE | 美術手帖

ただその一方で、忘れてはならないのは、脅迫や嫌がらせによって表現を封じようとする動きは、決して今回の展示でいきなり生まれたものではないということです平和の少女像にしろ、元慰安婦の写真展にしろ、展示しようとする動きに対し、日本の右派・保守派といわれる人々は、さんざんこの種の脅迫や嫌がらせを繰り返してきました。

それに対し、展示をしようとする側は今回のような支持表明なんかほとんど得られないまま、孤軍奮闘で戦ってきたわけです。

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そういう点から言うと、ことさら、今回の芸術祭に限り、津田大介氏のような運営側の人間を、英雄視して祭り上げるということには、違和感を覚えます。もっとずっと以前から、この種の表現の自由への弾圧に対し、戦い、正義を貫いてきた人がいるということを、今回の騒動を考えるにあたっては忘れてはならないと思います。

誤解を恐れずに言えば、今回の展示を継続するということは、「当たり前にするべきこと」なのです。自分たちの加害の歴史に真摯に向き合うこと、これはごく当たり前のことで、それをやったからといってことさら褒められるようなことではありません。

もちろん、今の日本の現状は、そんな「当たり前のこと」をすることすら大きな危険を伴うように、なってしまっています。自分たちの加害の歴史を示す表現をしようとするだけで、テロの恐怖に怯えなきゃならないなんて、明らかにおかしい、異常なことです。ですが、そんな狂ってしまった社会を直すためには、勇気をもち、万全の準備をした上で、異常な社会の中で「当たり前にするべきこと」をするしかないのです。

最後に、先頭で旗を降って今回の脅迫・嫌がらせを扇動し、あまつさえ転じ側が謝罪しろとのたまう河村たかし名古屋市長に対して一言。

名古屋市長、関係者に謝罪要求 少女像展示で | 共同通信

地獄へ落ちろ。クソ野郎。