ふと思い立ち、『ヨイコノミライ』を再読していました。
そしたら、かつてはとてもリアルで残酷な物語に見えたお話が、途端に、どこかとても遠い国で繰り広げられる、むしろ、なんか憧れてしまうようなお話に見えてしまって、仕方がないのです。
かつて僕らは『ヨイコノミライ』から、この社会に適応する処世術を学んだ
『ヨイコノミライ』、それは2003年から連載された、ある高校の漫画サークルのお話です。
話の筋は、一言で言ってしまえば、ダメなオタクばっかが集まる漫画サークルに、美人のサークルクラッシャーが入ってサークル内の人間関係をかき乱し、そしてサークルを崩壊に追い込む、そんなお話です。
当時この作品ははてな界隈で大きな話題を呼び、感想記事もたくさん書かれました。
なんでここまでこの漫画が当時の人々の心に突き刺さったかといえば、この漫画に出てくるダメなオタクたちの生態が、当時のオタクたちにはまさしく「あるある!」という感じだったからです。
例を挙げれば
- 相手の好みも理解しようとせず自分の好きな作品をひたすら押し付ける
- 周りの目を気にせず傍若無人に振る舞う
- 単なるあら捜しや好みの押しつけを「批評」と勘違いする
- 妄想と現実の区別を付けられない
といった内容で、それを端的に表現してるのが最終話のこの説教です。
「アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。他人を理解しようともしない、馬鹿だからよ。
気楽なもんね。
自称批評家さん。
批評っていうのは感想文でも、作者への意見書でもないわよ。人が作ったものを 安易にくさして 優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。
一読者よりも昇格してるって言うなら、作品にもっと真剣に取り組みなさい。」「失敬な! 拙者を侮辱する気でありますか!
誠意こそあればこそ
耳の痛い忠告も申してやるのでですわ。
甘受するのは作者の義務ですぞ!」
「誠意?
自己顕示欲でしょ?
アナタの!誠意があるんなら、セリフの向こうの作者探しや 他の作品とのくらべっこばかりしてないで、内容そのものに興味を持ったら? 貧弱な読解能力でも 少しは使って見せなさいよ!
誤解しないでね。私、本当の批評家は大好きよ。
作品への新しい読み方を提示して、
作品と
作家と
読者に、
新しい道を拓いてくれるから。」「…!」
「あら。
無責任な感想文に、無責任に感想を言わせてもらっただけよ。
悪く思わないでね。さようなら。」
今の人々には理解できないかもしれませんが、当時のオタク界隈には、まさにこの説教に描写されるような「自称批評家さん」が本当に多かったんです。というか、僕自身がまさにそういった「自称批評家」であり、それ故この文章には激昂しました。*1*2
ただ、実際は多くのオタクはそのように逆ギレすることなく、こういう説教を読んで真摯に「そうだ。こんな自称批評家になってはいけない」と反省していたわけです。多くのオタクにとって、『ヨイコノミライ』という漫画は、まさに自分たちの暗部を突く告発書であり、そしてこれを読んで「オタクだからってダメで居ていいわけではない。きちんと社会に適応しないと」と、襟を正していたわけです。
それが、『ヨイコノミライ』が発表された、ゼロ年代という時代の空気だったのです。
果たして今の若いオタクは、『ヨイコノミライ』をリアルに感じるか?
そしてこの10年代も終わりに差し掛かっている2019年、『ヨイコノミライ』は、どう映るか?
僕の感想を言いましょう。「こんなコテコテのオタク、もう今はいないよなぁ……」です。
誤解を避けるために注釈しておくと、『ヨイコノミライ』の一つの要素であるサークルクラッシャー、こういう存在は今も相変わらずリアルです。というか、惚れただの腫れただの、挿れただの挿れられただのの話が、そう十年でコロコロ変わるわけはないわけで、きっと十年経っても百年経っても、人は恋愛とやらで右往左往するのでしょう。僕には全く関係ありませんがね!*3
でも、そういうあいのりとかテラスハウスとかバチェラー的な話なら、別にわざわざ『ヨイコノミライ』じゃなくたって味わえるわけで、そうでない『ヨイコノミライ』独自の色である、「オタクのダメさ」という描写は、正直、古びてしまったのかなと、そう感じてならないのです。
例えば、今のオタクは、自分のオタ話をするにあたっても、ほんと器用に相手の好みに合わせて話をします。いきなり初手でBLの話をする腐女子や、ロリコン漫画の話を男ヲタなんてものはもうほぼおらず、「カードキャプターってどうだった?」的な無難な話題から、BL的なものやロリコン的なものが受け入れられるか慎重に見極めて来ますし、またそこで相手を傷つけずに「いや、そういう話題は地雷です」みたいなサインを出すのも本当にうまいです。
また、今のオタクは、その場の空気がそういう空気でない限り、めったに作品の批評的な事は言いません。今の若いオタクたちは「語彙がない」なんて自嘲しますが、批評的なことを敢えて言わないだけで、「当たり障りのないボキャブラリー」の豊富さは、昔のオタクなんかより断然豊富です。
そこには、かつて『ヨイコノミライ』の平松ちゃんや天原くんのような、肥大化した自意識や、幼児的万能感を振り回す幼稚なオタクはほぼいません。「私は霊が見えるんです」とか「バッサバッサ批評してやりますよ」みたいなキャラを通すオタクはいます。しかしそういうオタクも、あくまでその場の空気を読み、その空気に順応するためにそういうキャラをやっているだけで、そういうキャラが受け入れられない空気になったら、途端にキャラ変するでしょう。だって、彼らにとって最も恐ろしいのは、空気を読まず、コミュニティからハブられることなのですから。自意識なんてゴミ箱に捨てちゃえ♪というわけです。
つまり、今の若いオタクたちにとっては、『ヨイコノミライ』に見られるような幼稚なオタクは、どこか遠い国の、おとぎ話のキャラクター程度のもので、何もリアリティなんかないのではと、思ってしまうのですね。かくしてオタクたちはみんな改心し、自称批評家は僕が死ねばこの世から消滅する。
でも、これは絶滅しつつあるダメなオタクの、引かれ者の小唄なのかもしれませんが、そんな今のオタクたちを見て、僕はこう思ってしまうのです。
「そうやって空気読んで自分押し殺して、苦しくない?」と。
肥大化した自意識・幼児的万能感を持たないよう成熟することは、本当にいいことなのだろうか?
今、こうやって過去のものとなった『ヨイコノミライ』を読むと、そこに僕は、ある種の郷愁を感じざるを得ないのです。それは、たしかに今の優しいオタクのコミュニケーションとは違い、苛烈かつ残酷に、むき身のナイフで自分と相手を傷つけ合う、そんなコミュニケーションでした。「あんなのもう二度とごめんだ」と、思う人がいるのも理解はできます。
しかし、そうやってでしか得られない、どうしようもない、けどかけがえのない「私」というものが、そこにはあった気がして、僕にはならないのです。
それは、社会的に見れば本当にダメダメな甘えたもので、そんなもの抱えていたら一生おとなになれない、呪いのようなものなのかもしれません。
でも僕は、それを捨て去ることで大人になることが、万人にとって幸せであるとは、どうしても思えないのです。そういう「私」を、たとえ他人を傷つけても抱えなければ、ほんとうの意味で「生きて」いけない人も、いるのではないかと。
もっと言えば、僕たちオタクは、万人に優しく成熟したオタクになる過程で、そういう人たちを「殺して」しまったんじゃないかとすら、思うのです。
ではどうすればいいか?正直わかりません。これだけ「空気」による支配が進んだ中で、それに逆らえと、もはや若者でない人間が安易に主張することほど欺瞞はないでしょう。
ただ、もしこういうみんなが「優しく」なった世界で、それでも優しくなれない「私」を、もし抱えている人がいたなら、僕はこう言いたいのです。「それは、殺してはいけない」と。
吹き続けてね花ちゃん
その花垂れたメロディーが
例え教室のやつらなんかに
馬鹿にされてしまおうが
吹き続けてやれ花ちゃん
きっと君だからまた泣いて
しまう事も多分あるかもしれんが
笛吹きの名に恥じぬように
追記(2019/11/07 2:51)
記事中である人の名前出してて、別に今はそんなに気にはしてないんだけど当時は本気で怒ってたから、それをネタにする感じで、自分的には軽い感じで名前出してたんですけど、なんかその人は本気で嫌がってるみたいなので削除しました。本当にごめんなさい。
こういう人が本気で嫌がってることがわからずついついやってしまうのも、まさしく『ヨイコノミライ』で描かれてたダメなコミュ障オタクの典型例だなぁ。
*1:http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2008-04-22.html
*2:ついでにいうなら、僕自身は今も変わらず「自称批評家」を貫き通している。だからこんな文章書いてるんだよ。
*3:突然の逆ギレ。ああ、右往左往してみたいもんだ。