先日、ある社会学者の次のようなツイートが、Twitterの一部で話題になりました。
社会学の導入で、「常識を疑う学問です」とか「生きづらさについて考える分野です」といったことを言うのはもう禁止したほうがいいかも。「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」はずが、「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」人ばかりになってしまっているから。
— OKAMOTO (@Tomochika_wsd) 2020年7月13日
「社会調査を疑う」のも、本当にそれができる技術を身に付けてからならば大事なところだけれど、自分の思い込みと違った結果が示された際に、調査票の文言にケチをつけることにしかなっていないのが実情。そして「本当のことは誰にも分からない」と。いや、まずその結果が示すものをよく見てみようよ。
— OKAMOTO (@Tomochika_wsd) 2020年7月13日
多くの人は、これを読んで単純に「今の学生はそんなことになっているのか、けしからん」と思っているようです。
ただ僕としては、そういう社会学を人々が求めるようになっていること、それ自体が一つの大きな社会の変化を表しているのではないかと、思うのですね。
逆に言うと、こういう「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」を、社会学を学ぼうとする人々が志向し、一方でそれをよく思わない人たちがあり、そこで社会学観を巡って軋轢が生じている。この現象が一体何を意味しているのかを、良い・悪いはひとまず置いて、考えてみたいと思うのです。
そしてその上で、その軋轢を乗り越えるためには、一体どういうような方法論がありうるか、それを考えたいと思います。
肯定派・否定派それぞれの意見
まず、上記のツイートに対する反応で、重要だと僕が思ったツイートを抜粋していきます。
「常識を疑う」社会学への批判
ヤシャ・モンク著の「民主主義を救え」でも、大学における現代リベラル的な「反啓蒙」「価値相対主義」の教育が、(それ自体には意義があるとしても)結果として正義や道徳といった社会の共通善を信じず、すべてを主観的問題で片づけるような冷笑的態度を育てているのではないか、と指摘しています。 https://t.co/kEiEf4Zd0F
— 向川まさひで (@muka_jcptakada) 2020年7月13日
まずこの日本共産党市議会議員の向川まさひで氏のツイートでは、「他者の常識を疑う」ということの中に、正義や道徳といった社会の共通善を掘り崩してしまう効果があるからよくないということが言われています。
つまりここでは、「他者の常識」というものが、社会全体の共通善というものを維持しているということが前提とされているわけですね。そして現行の社会学教育を含めた大学教育の「常識を疑う」ことこそが、共通善を壊してしまっているというわけです。
「常識を疑うガクモンです」てなこといつ頃から言い始めたんだろ、本邦シャカイガク(´ω`)
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年7月13日
常識を疑うという、その疑うおまえの常識はどうなっとるん、というツッコミがまず入るやろ、常考。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年7月13日
エスノとかカルスタとか、あのへんが悪さし始めた頃、からかなぁ……ようわからんけど。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年7月13日
フェミだのジェンダーなんちゃらだのも、その「常識を疑うガクモンです」が下地になっとるからあそこまで(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャになっていったところ、ありそうだし。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年7月13日
一方民俗学者の大月隆寛氏は、「常識を疑う」学者自身の常識は一体どうなっているのかということを挙げ、そのような「常識を疑う」社会学の背景に、エスノメソドロジーやカルチュラル・スタディーズ、フェミニズムなどの影響を見ています。
ここで面白いのが、一方は日本共産党の議員さん、他方新しい歴史教科書をつくる会の元事務局長という、政治的には水と油のような二人が、ともに「常識を疑う」社会学を批判しているという点です。
また、「常識を疑う」ということへ批判的立場を持つツイートは、他には以下のようなものがあります。
「常識を疑う」のは結構だけど、それをするには、それなりの知性が要求される。知性がない人がファッションで常識を疑うと、結果として、常識を否定して、非常識に走るケースが少なからずある。科学を疑ったら、非科学に走っちゃうようなケース。
— 勝川 俊雄 (@katukawa) 2020年7月13日
「常識」がどんどん崩壊してしまう時代に「常識を疑う」はもう古いと思うラジね。
— PsycheRadio (@marxindo) 2020年7月13日
そこら辺常識の復興(まぁ、因習の復権とか過激な物は有ったにせよ)を唱えたゼロ年代ネトウヨって早すぎたんやな…などと思う次第。あの頃は自分たちを保護してくれそうな物は手当たり次第にほめてったけどほめられた側が喜んでくれなかったと言う裏切りの歴史 https://t.co/odR6Tk7soB
— もするさ§( •̀ᴗ•́) (@mosurusa_0806) 2020年7月14日
これらツイートをまとめると、「常識を疑う」社会学は、結果として科学的知や共通善といった、社会の成員全員が「これは正しい」と思っているものにまで疑いの目を向けることにより、人々を、社会に責任を持たない無秩序な個人に仕向けているのではないか。だからいまこそ「常識を疑う」ことをやめ、因習であったり共通善といった「常識」を叩き込むような教育を行わなければならないと、いうことになるようです。
「生きづらさ」は社会学の問題ではない?
一方で「生きづらさ」については、それはそもそも社会学が問題とする分野ではないという指摘が目立ちます。
興味深い指摘。なにも禁止しなくとも、とは思うけど。
— shohoji (@hshohoji) 2020年7月13日
ずっと前から同じ問題を外に向かって研究するのが社会学で内に向かって研究するのが哲学だと思ってた。どちらも出発点は自分だと。
「常識を疑う学問です」「生きづらさについて考える分野です」って、今社会学は導入されているの? https://t.co/ELo8BVgazV
大体「生きづらさ」って心理学の本務分野じゃないの?社会心理学でしょ。社会心理学は心理学だよ。
— アキヤ (@K_akiya) 2020年7月13日
自分の生きづらさについて考えたいなら、無理に一般化する学問じゃなく、似たような理由でぴえんてなってる文学者探して文学研究した方がいい https://t.co/KkHVNPvwaK
— ほ ん へ@ピャッ⁉︎ウーン... (@WalkingHonghe) 2020年7月13日
それはもう宗教だもんな。 https://t.co/SdTiaTb6Gs
— はね (@jhavarax) 2020年7月13日
心理学・哲学・文学・宗教とさまざまな分野が出ていますが、いずれにも共通するのは、それが個人の内面を考える分野だということです。つまり、「生きづらさ」というのは、あくまで個人が自分の心の内に持つものなのだから、心理学や文学・哲学といった個人の内面について考える学問で扱うべきなのであって、人と人とが集まる「社会」について考える社会学という分野では対象にすべきものではないというわけです。
「自分の生きづらさ」と「他者の生きづらさ」の間に共通点を見つけるのが社会学?
他方、「生きづらさ」は十分社会学の研究対象になるという意見もあります。そのような意見では、「生きづらさ」とは、一人ひとりが独自に持っているように見えても、そこには必ず共通できる点があるのであって、そこで「自分のいきづらさ」から「他者の生きづらさ」に共感したり理解したりすることが、社会学が「生きづらさ」を研究対象にする大きな理由であると示されています。
自分の生きづらさについて考えるのは社会学を学ぶための大事な一歩だと思う。しかしそこから先に進まず他人の生きづらさについて考えられなくなってるのはまた別の要因が足りないからでは?自己を置き去りにしていきなり他者のことは考えられないよ。
— むいみ (@muimi) 2020年7月13日
自分の生きづらさに向き合わずして他者の生きづらさについて正しく考えが及ぶもんかと思うし、なんでも鵜呑みにする段階を終えて他者の常識をも疑う姿勢を持たずして自分の常識を疑えるもんかとも思う
— あひる囲い (@hinaG1750) 2020年7月13日
この人はただ単に発展途上の学生を見守る余裕を失っているだけでは?
自分の生きづらさ、他者の生きづらさというのは往々にして共通する部分があります。誰かの生きづらさを研究することは自身を研究することにもなり、精神的にかなり疲弊します。 https://t.co/uSUg043iD3
— 政治アカウント大学生 (@CSPA2001) 2020年7月13日
私の生きづらさについて考えることは、私たちが囚われている常識を疑うことでもあって、同じものに囚われている他者の生きづらさを想像するという回路につながっていると思う。 https://t.co/LpPkfVs2Nb
— 矢吹康夫『私がアルビノについて調べ考えて書いた本』発売中! (@yabukiya03) 2020年7月13日
これですよ!
— 谷津沙緒里 (@SaoriMurakami1) 2020年7月14日
「自分の常識を疑い」→「他者の常識を疑い」
「他者の生きづらさについて考える→自分の生きづらさについて考える」
1つ目は危険ですけど、2つ目は重要だと思いますよ。自分の感覚から離れて共感は出来ないし、共感できるところだけが何とか寄り添えるポイントでもあると思うので。 https://t.co/kY7MnUcIDi
自分の生きづらさを知って、それから他者の生きづらさに気づいていく。
— 谷津沙緒里 (@SaoriMurakami1) 2020年7月14日
「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」社会学と「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学のポジショニングマップ
以上の意見を自分なりにまとめ、またそこに自分の解釈を付け加えた上で、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」社会学と「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学がそれぞれどんな位置にあり、一体どんな分野・要素と近い位置にあるのか、ポジショニングマップを作成してみました。
www.positioning-map.com
「自分の常識について疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、やはり哲学や心理学でしょう。それに対し、「他者の常識について疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、自分は人類学であると考えます。そこではあくまで自分たちの社会ではなく、他者の文化や社会といったものが民族誌として研究対象となるわけです。
ところが、社会学というのはある意味哲学・心理学的な側面もあるし、一方で人類学的な側面もあるのですね。それぞれの学問分野の残余領域を扱うのが社会学だ、と言う人もいるくらいです。ですから、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野と、「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、隣接分野との関連で言うならば、どっちも一応社会学だよなと、言うしかなかったりするのです。
「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそがなぜ正統とされたのか
ではそんな中で、一体なぜ社会学は右上の「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそが正統とされてきたのでしょうか。自分が思うに、そこでは
- 他人の生きづらさ=社会的弱者の問題に関心を寄せる
- 自分の常識を疑う=科学的知・共通善に基づき、個人的実感・思い込みを正す
というのが、社会学を含め、人文社会科学における規範となってきたからと考えます。
つまり、科学でもって個人が持ってる偏見や思い込みを正し、貧困であったり差別を受けている社会的弱者を助けるもの、これこそが大学まで行けるような裕福な人間の、責任ある態度だというわけです。
ところが、現在はその反対、本来社会的弱者を助けるエリートであるべき学生が、その弱者ではなく裕福な自分の生きづらさなるものに関心を寄せており、更に言うと科学的知や共通善というものを軽んじて自分の実感ばっかりを重視している、これはよくないというわけです。
エリート/大衆という区分けが崩れる中で、人文社会科学の規範もまた変容を迫られている
ところが、このような規範は、あくまで「エリート/大衆」という区分けがあり、そしてその中でエリートだけが社会学を学ぶということを前提としているものですが、しかし現状はそうなっていないわけです(こんなこと、まさしく教育社会学が専門である方には、釈迦に説法でしょうが)。
実際は、社会学を学ぶ学生といったって、実際は裕福な暮らしとは程遠く、貧困ギリギリである人も多々いますし、差別を受けたマイノリティの方も多々いるわけです。さらに言えば、日本全体が低成長に苦しむ中で、例え今そんなに苦しい状況ではなくても、将来に渡って自身の生存が安泰だと思える人は殆どいないわけです。こんな状況で、「君たちはエリートなんだから、自分のことではなく他人のことこそを気にかけなさい」と言われても、「そんなことより自分の将来が不安だ!」と答えるしかないでしょう。
さらに、エリートが科学的知や共通善を決めることを独占してきたこと、それ自体が科学的知や共通善といったものを脅かしています。水俣病から福島第一原発まで、科学的知というものは往々にしてそれこそ大衆を黙らせる方便として扱われてきました。「道徳」と呼ばれる共通善もまた然りです。人々が科学的知や共通善を信じられなかったのは、大学の学問がそうしたものを価値相対主義によって批判してきたからということが言われていましたが、僕からするとそれは因果が反対で、人々が科学的知や共通善を信じられなくなったからこそ、大学の学問においてもそういう価値相対主義が主流になってきたのだと考えます(そもそも、社会を相対化する価値相対主義は、60年代のカウンターカルチャーがなければ生まれ得なかったわけですから)。
つまり、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそを正統とする規範は、その前提条件となる「エリート/大衆」という区分けがなくなってしまった時点で、維持するのがかなり難しい規範となっているのです。
トップダウンで「社会」を押し付けるのか、ボトムアップで「社会」を発見するのか
では一体どうすればいいのか。
一つの方策としてありうるのは、エリートの学問から大衆の教導へと、社会学教育のやり方を変える方法です。具体的には、とにかく「道徳」や「正義」といった「他者の常識」の正しさを叩き込み、そしてその中で自分を滅し他者を助けるという規範こそが正しいとすることです。多分、「新しい歴史教科書をつくる会」とか、あるいは政府の教育再生なんとかとかが理想とするのは、まさしくそういった方向でしょう。
しかし、そのようなトップダウン方式の教育は、まず非民主的にも程がありますし、そもそもその教育を行うエリートが正しい教育を行っているか、判断できません。少なくとも僕は、正しさを上から押し付ける教育なんか糞食らえです。
ではどうするか、僕は、まず個々人の「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」ことそれ自体を否定するのではなく、むしろそこを出発点として認め、そこから思考を進めていく中で、「自己」と「他者」の垣根を壊し、「自分と他者の常識を疑い、自分と他者の生きづらさについて考える」ことへつなげていくこと、そしてそこから、「自己と他者」が含まれるものとして社会というものを見つけ、「社会の常識を疑い、社会の生きづらさについて考える」ことへとつなげていくことこそが、重要だと考えています。そしてそこから、一部のエリートが独占するものではなく万人に開かれたものとして、共通善や科学的知の信頼を回復していくべきだと、考えています。
いうなれば、トップダウン方式は、上から「社会とはこういうものだ」と押し付けるものです、それに対しボトムアップ方式は、まず個々人から出発し、そこから個々人の単なる集合ではない、「社会」というものを発見する、そういった方法論といえるでしょう。
「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」ことは、まさしくそういったボトムアップな、まず一旦そういった状態を認め、そこから発展していくという形でしか、克服できないのではないでしょうか、