あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

33歳、結局僕は「大人」になれなかったのか

そんなことを考える、今日この頃。

「自分が33歳」という文章が未だに頭で受け入れられないんですよね。あまりに自分の中での「30代の大人」のイメージと、自分の実像が一致しなくて。

だって未だに少年少女が戦ったりアイドルやったりするアニメやらを見て感情移入しちゃうし、それに対して『半沢直樹』とか『島耕作』とか見ても、「すごい世界があるもんだなー」とは思うけれど、自分がそういう世界に居るとは全く思えないし。

なんかこう、大人になればもうちょっと「自分と社会・世界の関わり方」とか、そういう自意識の問題について、半ば諦めに近くても、答えを出したりできるのかなーと思ってたら、未だ悩んでる日々で。

で、そんな調子で自分のことに精一杯だから、未だに独り身で恋愛未経験。いっそ家族を持てばそういう自意識問題を考えることもなくなるのかなーとか考えるんだけど、いや自分の自意識のケツも拭けないような人間が家族を持てるわけないじゃんとか思ったり。

でも周りで僕と同じように思春期こじらせていた人間もいつのまにか結婚したり子ども育ててたりするんだよなー。せめてそこら辺以下に折り合いを付けたかとかブログに書いたりしてくれれば良いのにと思うが、そういうのに折り合い付けたら、まあわざわざそんなことを書く気も起きないか。

さらに言うと、なんか今時って、もうそういう「大人になる」とか「成熟」とか、そういうことについて考えること自体、流行らない時代になっている気もするんですよね。

僕が青年期を過ごした90年代~ゼロ年代は、それこそそういう「自意識の問題」について考えるのが無茶苦茶流行った時代だったわけですよ。サブカルチャーでもエヴァやらウテナやらなんてまさしくそういう問題について考えるお話だったし、学問でも心理学・社会学でそういう自意識問題について考えるのが大ブームだったわけで。

でも、今時はもうそんなのは流行らない。それよりとりあえず変化に対応して生き延びることが求められる。「成熟」?「大人」?そんなこり固まった状態でいたら時代について行けないぞ。そんなことより今はとにかく変化に対応して、年齢が何であろうと常に自分の内面・知識をアップデートしていくことが必要なんだよ。という感じで。

でも、それで良いのかなって、90年代~ゼロ年代にさんざんそういうことを悩んできた自分からすると、思ってしまうんですけど。そういうのも結局、時代について行けない負け犬の戯れ言なのか。

なんかこう、正直きつくないですか?常に時代の変化をウォッチして、それに合わせて自分の内面をアップデートしていく、そんなことを生涯に渡って続けていくというのは。
ぶっちゃけていうと、かつて「大人になる」とか「成熟」とかいうことが尊ばれていたのって、そういう時代の変化についていけなくてもある一定の年齢以上は許される、言い訳の一つだったんじゃないかと、思うのです。
10代とか20代の内は、散々自分の自意識とかに悩みなさい。でも30代ぐらいになったらもうそういうのは卒業して、社会の中でしっかりとした自分の居場所を手にすべき。だけどその代わりに、いちいち社会の変化についていかずに、自分の内面とか価値観を固定させても良いよと。

しかし今そんなことやったらそれこそ「価値観をアップデートできていない老害」として総叩きにあいます。例え何歳になろうとも、今の世の中での価値観の変化には注意を払い、自分のなかに差別的だったり因習的だったりする考え方がないか常に点検せよと。
それは、今までそういう差別的だったり因習的だったりする考え方によって抑圧されてきた人のことを考えれば、確かに圧倒的に正しい、正しいんですけど、やっぱ疲れるんですよ。そしてその「疲れ」を嫌がる人たちが、反ポリコレとかバックラッシュとかいう形で、反動に走る。「あのころの世界のままなら―他人は苦しいかもしれないが―少なくとも俺らは疲れない!」と。

で、今の世の中では、もうひたすら世の中の変化の先導者やそのフォロワーになるか、あるいはその反動になるかのどちらかになるしか、選択肢がなくなってしまっている。
でも本当にその二つしかないのか。そうではない選択肢はないのか。実は、90年代~ゼロ年代に僕らがさんざん「成熟」とか「大人になる」とかいうことを考えていたのは、そこに第三の選択肢を見つけようとする試みだったと思うんです。
ところが、結局その試みは実を結ばなかった。結ばなかったからこそ、今の現状があるわけで……

時代や社会の変化というものに対して、それに常に付き合うのではなく、一定の距離を保った、確固たる自我=私を持つこと。僕にとってはそれが「大人」の姿なんですよ。
でも、やっぱりそんな私は今でも持てていない。かといって、完全に社会の変化について行ったり、あるいはそれに対する反動であることもできておらず、ただ右往左往し、自分と世界の向き合い方に苦悩する。
結局、僕は未だ「大人」になれず。90年代から引きずった、提出期限のとっくに過ぎた宿題に、苦しめられているのです。



神聖かまってちゃん「33才の夏休み」MusicVideo