あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

鬱と人生のコスパと自己犠牲

コロナが流行り始めたとき、「これは確実にメンタルに来るなー」と思っていたら、案の定鬱が悪化し、折角去年の9月に就職した会社にも1月に行けなくなり、ほぼ引きこもり状態になっちゃいました。あままこです。

まあ、正直コロナはきっかけの一つに過ぎず、結局とことん自分が「労働」ということに向いてないんだなーということを思い知らされまして。しかしじゃあ労働もせずに生きていくこともできないわけで、結局自分は生きるということそのものが向いてないんじゃないかと、そんなことを夜な夜な思ったりします。

世の中の人が当たり前のようにできている、朝起きることや、その時やりたくもないことをやること、同僚やら上司やら部下やら取引先やらとコミュニケーションを取ること、そういったこと一々が苦痛になってしかたないんです。なんかこう、そういうことをやるたびに心の中に苦痛ゲージがどんどん溜まっていき、ある時それが爆発してしまい、全てから逃げ出してしまう。そんなことをここ十年、何度も繰り返してきました。

で、何が嫌かって、これが僕にとっては、子どもの頃からずっと想像していた「こうはなりたくないけど、大人になったらこうなるんだろうな」という予想像そのままなことなんです。つまり、人生における「快」と「不快」というものは、年を得るごとに「不快」が「快」を上回るようにできている。だから長生きすればするほど人生のコスパは悪化していくと、わかっていたはずなのに、結局33まで生きてしまった。

言うなれば、最近流行りの「反出生主義」みたいなものを、僕は10代のころから予期していたはずなんです。
imidas.jp

ある人が生まれてきてこの世に存在する場合には、必ず何らかの苦痛と快楽が存在します。逆に、その人が生まれてきていない場合には、その人自体が存在しないのだから、苦痛も快楽も存在し得ない。その二つの状況を比較したときに、前者のほうが「悪い」というのがベネターの主張です。「苦痛が存在する」ことは確実に悪いことだけれど、「快楽が存在しない」というのは、悪いこととまでは言い切れない。その「快苦の非対称性」ゆえに、生まれてきて「苦痛も快楽も存在する」よりも、そもそも生まれてこずに「苦痛も快楽も存在しない」ほうが絶対に善いんだ、というわけです。

なのに結局30代を迎えて、かといって死ぬ勇気も出ずに、どんどん人生のコスパを悪化させていく、そのことが、本当に耐え難い。

あるいは、いっそ「自分自身の幸福なんかどうでもいいのだ。社会や種の存続のために自分という個体は存在するのであり、社会や種の繁栄のために自分を犠牲にすることこそが善いことなのだ」という信仰を持てば楽になるのかもしれない。というか、世間の多くの人はきっと、自覚している/していないに関わらず、そういう信仰を持っているからこの社会を生き抜いていけるんだろうなと、思うことがある。

いうなればみんなカルトの信者なんですよ。お笑い芸人の映画に何千万円寄付したとか、落選した大統領が世界を救ったとか、そういうのをみんなバカにするけど、でもそういうあんたたちだって人生の大半を労働という苦行に捧げることになんの疑念も抱いていないじゃないか。それで社会から搾取されているのに、そこから逃げ出そうともしない。一体何が違うんだろう?

結局みんな、「自分というものより大切なものがある」と思えるからこの世界で生きるという苦行に耐えられる。自己犠牲の精神があるからこそ、生き残れるという逆説。ところが、その逆説に気づかないまま「自分を大事にしなさい」なんてお題目を人々は唱えて、で、それを真面目に信じちゃった子どもは大人になったとき、「自分のこと大切にするならさっさと死ぬべきじゃん」という事実に気づき愕然とする。

というわけで、カルトのみなさん、今ならここに心が弱まったカモがいるので、ぜひとも洗脳してあげてくださいな。良いコマになりますよ。