あままこのブログ

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「一瞬のきらめき」を生み出し続ける先に―TV版少女☆歌劇レヴュースタァライトネタバレあり感想

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さて、前回
amamako.hateblo.jp
という記事を書きましたが、あれから「少女☆歌劇レヴュースタァライト」、見ましたか?

……見ましたね?

ということで今回は、「少女☆歌劇レヴュースタァライト」のテレビ版について、ネタバレ込みで感想を書いていきたいと思います。バンバンネタバレしていくんで、ご注意を。









「歌って、踊って、奪い合いましょう」だけではない

まず、アニメを見始めて最初に引っかかったのはキリンの以下の台詞でした。「歌って、踊って、奪い合いましょう」。正直この台詞を聞いたときの最初の印象は、「またこういうデスゲームものかぁ」でした。
00年代ぐらいからアニメやゲームでは大流行の、「閉鎖空間の中で仲間と戦いあう」デスゲームもの。でも正直この形式って、僕はそんなに面白いとは思えないんですね。だって、結局それってデスゲームを用意する側が居て、その用意する側に理があれば「戦って良かったね」となり、理がなければみんなでデスゲームを用意する側を倒して良かったとなる。先が見えきってしまっているからです。システムとして盛り上がりとかを生み出せるシステムではあるんだろうけど、正直物語としては予想の範疇をはみだすものがない、そんな風に認識していました。
しかし、実際の「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は、そんな僕の予想を裏切るように、思いもよらない展開を見せてくれました。実際にアニメを見ていた人なら分かると思うのですが、正直「デスゲームの中で誰が勝ち誰が負けるか」とか、そんなの物語を観ているときは全く気にしてませんでしたよね?ていうか、そんなの答えわかりきっていたし、そしてそこで分かりきった答えを敢えて覆すことで「ほら驚いたでしょ?」なんてしょーもないことを言う物語ではなかったわけです。
「歌って、踊って、奪い合いましょう」、それは、この舞台を表す重要な一面です。ポジションゼロという一番きらめく主役にみんななりたい。しかし、それだけで説明できるような単調な舞台ではないという点こそ、重要なのです。

大場ななの「繰り返す舞台」―舞台少女を守るために、同じことを繰り返す

そこで重要となってくるのが、大場ななと神楽ひかり、二人が作り上げた「繰り返す舞台」です。
まず大場なな、このキャラは、同じ1年間を何度も何度も繰り返すことにより、「奪い合い」を否定しようとします。ずっと成長もなく同じ舞台を再演し続けていれば、傷ついたり別れを経験することもない。そういう信念のこと、この優しい世界を守り続ける庇護者として君臨します。
しかしそのような庇護に対し、主人公の愛城華恋は「でも私たちはどんなに止めようと成長し続ける」と、繰り返す舞台を一旦否定するわけです。
そしてそれは確かに事実で、ずっと同じ舞台を繰り返し続ける大場ななも、実は再演の度に脚本や演出をよくしようと手を加え続けてた。例え同じことを繰り返し続けているとしても、そこには変化があり、そして成長があるんだ……「繰り返す舞台」は、そうして一旦は否定されます。
しかし、一方でそうやって「成長する」ことの果てにあるのは、結局「奪い合い」でしかないのではないか……そこで登場するのが、神楽ひかり、彼女の「繰り返す舞台」です。

神楽ひかりの「繰り返す舞台」―自分一人が犠牲となることで、舞台少女を守る

彼女は、舞台少女すべてのきらめきを守るために、自ら一人が犠牲となる悲劇を再演し続けることを選択します。自分がかつてきらめきを奪われた苦しみを知るからこそ、誰かのきらめきを奪ってスターになるぐらいなら、自分が犠牲になればいいと、そう決断するわけです。そして、神楽ひかりはそうやって自分が犠牲になることこそが、自分の「運命の舞台」なのだと言うわけです。
では、その「運命の舞台」を求め続けるのは一体誰か?そこでキリンは第四の壁の向こうから語りかけるわけです。「この悲劇を求めているのは、実はあなたなんですよ?」と。
そう、散々「QBを殴り隊」とか「誠氏ね」とか書き込む私たちですが、しかし結局そういう悲劇を求めているのは私たちの欲望なのです。あるいは物語の登場人物たちの成長を否定し「ずっと仲の良い学園生活を送っていれば良いのに」とかいう欲望も、結局行き着く先はこのようなグロテスクでしかない。ここにおいて私たちは、もはや傍観者ではなく、物語の参加者であることを否応もなく認識させられるのです。

例えどんなに止めようとしても、「一瞬のきらめき」を目指す限り、私たちは止められない

このように演者と観客の強固な共犯関係によって支えられる「繰り返す舞台」、しかしそこに飛び込む闖入者がいます。そう、愛城華恋です。
なぜ彼女が舞台に闖入することができたのか。それは、決して「スタァライト」という舞台を否定したからではありません。そうではなく、原作を丹念に読み込んだ上で、さらにそこに今までの自分の経験を組み合わせ、むしろ舞台の解釈をより深めることにより、今演じられる舞台を、さらに「成長」させた舞台を作り上げることができたからなのです。
ここで思い起こすのが、大場ななの「繰り返す舞台」がなぜ崩壊したかです。大場ななの「繰り返す舞台」は、愛城華恋という闖入者によって崩壊したわけですが、しかしそれは、大場なな自身が、少しずつ脚本や演出を「もっとこうしたら良いんじゃないか」と手を加え続けたことによるものなのです。つまり、あれだけ「繰り返す舞台」を望み続けた大場ななでさえ、「もっときらめきたい」という欲望にはあらがえないのです。そして、そのような欲望が舞台少女にあり続ける以上、同じ舞台がずっと続くなんてことはありえず、舞台は変化し、成長し続けるのです。
さらに言えば、「もっときらめくものをみたい」というのは、私たち自身の欲望でもあるわけです。例えどんなにハッピーエンドに終わった物語でさえ、私たちはその続きを求め続ける。あるキャラクターの物語が終われば、別のキャラクターのスピンオフを求める。私たちの絶えざる「もっとすごいきらめきをみたい」という欲望と、舞台少女の「もっときらめきたい」という欲望が、まるで鏡像のように互いを照らし、例えその先にどんなつらい別れがあっても、物語の続きを生み出し続けるのです。
そして、TV版は愛城華恋と神楽ひかり、二人の「スタァライト」を上演して終わるわけです。

物語を否定するのではなく、物語を突き詰めるところに新たな可能性を見いだす

僕がこの話をすごいなと思うのは、単純に「奪い合うなんて悲しいよ。みんな仲良くしなさい」とか「未来はきっといいことになるから、繰り返しなんてやめようよ」みたいなポリコレ的お説教によって、私たちが陥る悲劇を否定するのではなく、かといって「結局世界は悲劇だ」と露悪的に開き直るのでもない。むしろその悲劇を突き詰めることにより、そこに別様の解釈、物語の続きを見いだしているということなんです。
言い方を変えれば、ただ理性や善性によって世界を変えようとするのではなく「もっと他人より輝きたい」「自分が一番になりたいという」、むしろ人間の業と言えるような側面を肯定しすることにより、この世界の袋小路は抜き出せるのではないか、そのような可能性を、この物語は示しているような気がするんですね。
このような自由な発想というのは、まさしく「虚構によって真実を映し出す」、演劇という表現からしか生まれ得なかったと、そう、思うのです。
次回は、劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトについて、ネタバレあり感想を書きます。

最後にその他気になった小ネタ

  • 舞台構造が、日常シーンの舞台は額縁舞台で、それに対し地下シーンは円形舞台であること、演劇史とかに詳しければもっといろいろな意味づけが見いだせるんだろうなー
    • とりあえず、日常シーンや、それに連なる通常の演劇では観客/演者の境界がはっきりしてるけど、それからはみ出す領域ではその境界が曖昧になるというのは言えるかもしれない
    • インターネットを一つの舞台として捉えるなら、多分そこは額縁舞台ではなく円形舞台なんだろうな
  • まひるちゃんのレヴュー、並の演出なら重い演出にするんだろうけど、あそこで敢えて軽くするのは、ほんと良い異化作用の使い方だと思う。
  • 東京タワーが架け橋になるシーンがほんと好き。高みをめざすタワーも、見方を変えれば人と人をつなぐ架け橋になるんだよというね。
  • エヴァとかウテナとかまどマギとかから様々なシーンをオマージュしながら、しかしそれら作品とは全く違う境地を見せるというのは、まさしく「過去の物語への理解を高めることによって、まったく違う物語を作れる」という、物語のメッセージそのものなんだよね
    • 「結局コピーのコピーしかできない」と絶望した誰かは、それでいいやと同じものを再演し続けているけど、そうじゃないんだよ!