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まー、しょーもない記事ですな。
ただ、この記事で批判されている「無礼な奴がいると職場の生産性がおちる」という主張の本も、まーしょーもない本です。
無礼さは人を傷つけるからよくない、それだけで済むことであり、生産性云々など持ち出す必要は無い。
そして、それと同様に「無礼なパワハラ上司がいることにより生産性が上がる」という職場が仮にあったとしても、パワハラがいくら生産性を上げようが関係ない。パワハラは人を傷つけるいけないことであり、故に断罪されるべきなのです。
「現実問題」という言葉が言い訳以外に使われるの見たことない。
反対にこの対極に位置するのが地獄だ。地獄で何が起きているかというと定期的な締め上げである。
かつて某軍隊や運動系部活でもって朝礼の度にウルトラ理不尽な事が繰り返されているのをみて僕は頭を抱えてしまった事がある。昔はマジであれが何の意味があるのかサッパリわからなかった。
だが、『問題上司 「困った上司」の解決法』を読んだ今ならわかる。
あれは自尊心ドレインだ。上に立つものが下のものに残虐行為を働く事でもって自尊心を回復しつつ、下のものの反逆の意志が無くなるように〆あげているのだ。
この残虐行為をみて「なんて酷いんだ!」と嘆くのは簡単だ。
しかしそれにもかかわらずこの行いが太古の昔より連綿無く続いているのは、それが最適解だからに他ならない。
現実問題としてである。面倒な人間を従順に取り扱う為には締め上げ行為は必要不可欠だ。
なんかもう、上記の文書は、差別や抑圧といった本来この社会に存在してはいけないことを擁護しようとするクズ野郎どもの言い訳のテンプレートとして、陳腐ですらありますね。
「ひどく見えるかもしれないが、集団を管理するためにはそれが最適解なんだ」、「現実問題そういうひどいことが存在しないと社会がなりたたない」と。奴隷制やらアパルトヘイトやら性別役割分業やらは、まさしくこういう風に擁護されてきたわけです。
全くしょうもない。そんな非人道的なシステムでしか管理できないような社会・集団なら、そんなものは存在してはいけないというごく当たり前のことに、なぜこの人たちは気づかないんだろう?「黒人奴隷がいなければプランテーション農業がなりたたなくなる」といわれれば、そもそもそういう「奴隷に依存したプランテーション農業」というもの自体が存在してはいけないわけで、人を犠牲にすることでしか成り立たないシステムなら、そもそもしそのシステムを破壊する以外に選択肢はないのですよ。
残念ながら世の中には定期的に〆ないと管理できない集団というのは一定数存在する。
もしあなたがそういう集団に紛れ込んでしまったのなら、そこでどんなに声をあげようが絶対に制度が覆る事はない。
だって問題なのはあなた1人ではなく、集団にあるのだから。
そんな所で声をあげるのは囚人が刑務所で制度改革を声高に主張するのと同じぐらいに虚無である。
「囚人な何を偉そうな事を言ってるんだ!黙って規則に従え」と言われて即・終了である。
それ、監獄の中でアパルトヘイトに非を唱えた南アフリカの黒人活動家の前で言える?まあ、ここまで厚顔無恥なら、「あなたたちは従順に看守に従っていればよかった」とか言えるのかもしれませんがね(笑)
アーレントを「自分が何もしないこと」の言い訳に挙げるって、どこまで恥知らずなの?
皆さんも御存知のとおり、第二次大戦でドイツは負けた。
アイヒマンはその罪を問われ戦後裁判にかけられるのだが、彼はドイツ政府によるユダヤ人迫害について
「大変遺憾に思う」
と述べたものの、自身の行為については
「命令に従っただけ」
と主張し、一貫して無罪を主張し続けたという。
若かった頃の僕はこのエピソードを読んで
「スゲェ。こんな反省のカケラもない悪人が、この世にいるんだ」
と思ったが、サラリーマンとして働くようになったいま現在、僕は彼の事を全く笑えない。
「シキタリに従っただけ」
「自分の職業理念に基づいて合理的に判断した」
「社会のためには仕方がない」私達は大なり小なり、アイヒマンの二番煎じをやっているはずだ。
故にサラリーマンをやった事がある人間でアイヒマンの事を笑って切り捨てられる人間などいないのではないだろうか?
このアイヒマンの姿をみて、ユダヤ人の哲学者であるハンナ・アーレントは悪という概念を以下のように定義づけた
「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」
実に重い言葉である。
まさか「アイヒマンだって悪意がなくても悪に手を染めるんだから、自分が悪に手を染めても仕方ない」なんて解釈をする人がいるとはびっくりだわ。アーレントもあの世で目ん玉丸くするわ。
アイヒマンのエピソードから学ぶべきはただ一つ、「自分の属するシステム自体が巨悪であることがあるのだから、もしその場合にはシステムに反抗せよ」である。
というか、僕からすると、むしろアイヒマンよりこの記事の著者の方が害悪だとすら言える。アイヒマンは、自分の属するシステムがしていることに対し、「でもそのシステムに逆らえない」という小役人根性から、思考停止してシステムの悪に加担していたわけですね。
でもこの記事の著者は、システムが人を傷つける悪であることを気づきながら、「しかしその悪によって社会は成り立っているのだから、悪は守られるべきだ」と、積極的に悪を擁護しているわけです。思考停止しているのはなく、むしろ率先して人を傷つけることを肯定するように思考しているんですから。アイヒマンの罪はもしかしたら問われないかもしれませんが、この記事の著者の罪は絶対に断罪されますよ。
「世の中は難しい」じゃなくて、あなたが単純明快な答えから逃げてるだけ
あなたもシステムに飲み込まれたら…アイヒマンになっていたかもしれないし、貴方が大嫌いな問題パワハラクソ上司にこれからなるのかもしれない。
何が善で、何が悪か。
何が人として許されない行いで、何が仕方がない事なのか。
人としてあるべき姿とは何か。
いやはや、世の中は難しい。最後まで良く生きられればよいのだけど。
「システムに飲み込まれたから自分は悪になってしまうのだ。自分は悪くないー」じゃないんですよ。システムとは人が作り出したものであり、それを利用するのが人である以上、システムの中で悪に手を染めるか、システム自体を破壊するかは、あなたの選択なんです。
ていうか「何が善で、何が悪か。」なんて話は、そもそもこの記事では全然してないですよね?この記事の著者がしているのは、善悪の境界線にあるようなことについて悩むのでは無く、明白な悪に対して「悪だけど擁護されるべきだ」なんて屁理屈をこねてるだけなんですから。
そして結論が「いやはや、世の中は難しい」?笑わせてくれるわ。「システムは悪をなすことがある。だから人は時にシステムに反抗し、それを破壊しなければならない」という単純明快な答えから逃げてるだけじゃん。