あままこのブログ

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「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について

natalie.mu
arrow1953.hatenablog.com
色々と論争が繰り広げられていますが、そこからは割と離れて。

上記の広告を見たときにまず疑問に思うのが、「これでこのマンガ買おうと思う人が居るのだろうか?」ということです。

普通、広告というのは消費者に何か消費行動を起こしてもらうためにあるもので、例えばTwitterの広告なんかは、続きが気になるコマだけ敢えて見せることにより「この続きどうなるんだろう」という興味を惹き、それによって閲覧者に、マンガを買わせるなり、マンガが読めるアプリをインストールさせるなりしている。

しかし、この新聞広告を見て「『月曜日のたわわ』読んでみたくなったなー」と思う人が居るのでしょうか?というか、本を買わせるという目的のために広告を出稿するなら、もっと閲覧者のアテンションを惹く広告を制作すると思うんですね。

では、閲覧者に消費行動を促すためにあるんじゃないとしたら、この新聞広告は、一体何のために出されたのか?

答えは「一般社会に自分たちの存在を示威するため」です。このような広告のタイプを、ひとまず「示威的広告」と名付けることにします。

最近オタクコンテンツに流行る「示威的広告」について

実は、こういう「一般社会に自分たちの存在を示威するため」の広告は、昨今割と多く出されています。

なんか大型企画のアニメを放映するときは、必ずといっていいほど全国紙に一面広告が出ます
dengekionline.com
mantan-web.jp
www.oricon.co.jp
し、アニメ以外にも、ゲームやVTuberなど様々なコンテンツでも
xtrend.nikkei.com
www.inside-games.jp
一面広告はブームと言えます。

また、一面広告以外にも、最近はやっているのは、ある地方を舞台にしたアニメやマンガが、その地域のポスターに顔を出すというモノです。以前このブログで取り上げた『ラブライブ!サンシャイン!!』のポスター
amamako.hateblo.jp
も、本気でみかんの消費向上を狙ったりしているというよりは、「『ラブライブ!サンシャイン!!』は地域に認められている」ということを示威する目的があったりするわけです。

ではなんでこういう広告が最近はやっているのか?その背景には、「文化におけるヒエラルキーの崩壊」という現象があるのではないかと、僕は考えます。

文化におけるヒエラルキーが崩壊する中で、「社会に認められている」ことを示せる場所として、広告が注目されているのではないか

1980年代~90年代にオタクとして生きた人が口を揃えて言うのは、「昔は今ほどオタクっぽいアニメやマンガ・ゲームは認められていなかった」ということです。

ごくごく単純化していうならば、昔は文学が文化の最高峰で、マンガ・アニメ・ゲームといったものは、活字を理解できない子供向けのモノとされました。更に言えば、それぞれのメディアの内部にも、上下関係があり、人間の内面に迫るような私小説や純文学が最高峰、そうでなくエンターテイメントのための推理小説とか犯罪小説は2流とされ、SFやファンタジーはその更に下の、バカでも楽しめるものとして扱われていたのです。

いうまでもないですが、これらは全くの根拠無き偏見です。ただ、こういう偏見というのは、年長者の間では未だに持たれているたりするわけで、
animeanime.jp
こういう年長者が社会の大半を占めていた昔に、アニメのようなオタク文化がどう扱われていたかは、想像に難くないわけです。

ところが、そういった文化のヒエラルキーが、どんどん崩れていったのが、まさしく2000年代以降の日本だったわけです。

それ自体はとてもいいことであることは、言うまでもありません。

しかしここで問題となるのが、そのような文化のヒエラルキーがなくなったとき、ある文化は何を尺度に、社会から認められていると言えるのか、ということなのです。

かつてのように「多くを語らない活字が上等」「内面描写が上位」とされた時代には、そういった要素がアニメとかにもあると主張すれば良かったわけです。例えば、アニメは一見絵で全てを主張しているように見えるけど、実は描かれている以上のことを想像しなきゃ理解できない作品だってあるんだとか、アニメでも人間の複雑な心理描写ができるんだとか……『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは、まさにそういう類いのアニメでしたね。

ところが、文化のヒエラルキーが消滅した現代においては、活字っぽい省略や内面描写をしたって、喜ぶのはそれこそ、過去の文化ヒエラルキーに縛られた老害ばっかなわけです。もはや内容において「世の中から認められている」ということはできなくなったわけです。

そんな時代において、「世の中から認められている」ことを証明する数少ないツールこそが、「示威的広告」なのです。新聞や公共機関のポスターといった、世間で広く認められているものに広告として乗っかれば、「世の中から認められている」感が出る。ですから、かつて「世の中から認められなかった」というトラウマを持つオタク文化が、とかく「示威的広告」を出稿するわけです。

そして、「示威的広告」だからこそ、それはオタク文化が嫌いな人から反発を受ける

ただ、その一方で、そのような「示威的広告」として、アニメやマンガの広告が出稿されることこそが、それが嫌いな人の逆鱗により触れやすくなる理由だったりも、するわけですね。

広告の本来の機能は、「広告を見る人の中から、その広告の商品が必要な人に、商品のことを気づかせる」というものです。そしてそこでは「広告の商品が必要ではない人は、その広告を無視して良い」ことが、暗黙の前提としてあるわけです。
ところが、このような示威的広告は、そのメタメッセージとして「買わなくても良いから自分たちの文化を認めて欲しい」と、広告を見た全ての人に主張してくるわけです。そうなると、その文化を認められない人からは、「あなたたち文化なんて絶対認めてやるもんか」という反発が来る。

今回の広告について、オタクたちは表現の自由とか言い、一方でツイフェミたちは性的搾取とか言いますが、真の対立点は「僕たちの文化を認めてよ」v.s.「あんたたちの文化なんか認めない」という、まあしょーもないところなんじゃないかだと、思うのです。

もう「世の中から認められなかった」というトラウマから卒業すべきでは?

まあ、議論を戦わせること自体は自由ですから、戦いたい人はずっと戦っていればいいとおもうわけですが。

しかしここで思うのが、「そろそろ『世の中から認められなかった』というトラウマを、オタクは卒業してもいいんじゃないの?」という気持ちです。

1980年代~90年代にどんなトラウマをうけたかは、それ以降の世代である僕には想像できませんが、とてもキツかったのでしょう。しかしもう今は、オタク趣味を公言するジャニーズまで居る時代な訳で、少なくとも過去のようなオタク差別は過去のものとなったわけです。

もちろん今でも、ツイフェミのようにオタク文化が嫌いな人たちはいますが、別にそれらが社会を支配しているわけではない。とするなら、別にそういう人たちを含めた社会全体からわざわざ承認を求めなくても、別に自分たちの内輪でやってれば良いんじゃないですかね?

新聞に一面広告とか出して広告代理店に貢いだって、せいぜい国に「クールジャパン」とか言ってもらえるぐらいですよ?そうじゃなくて、お金も労力も、もっとマシな使い方があるんじゃないのと、僕は思ったりするのです。