www.huffingtonpost.jp
記事の内容について、
「『見たくない表現』というけど、広告全体が既にほとんどの人にとって見たくない表現だよな」
とか
「『広告のジェンダー平等』とかいかにも電博あたりが考えそうなお題目」
とか
「『こういう女の子はエッチだな』と『こういう女の子は痴漢して良い』の間には壁があって、その壁こそ重要なんじゃないの??」
とか色々考えながらスマートフォンで記事を読んでたんですが、記事の途中で以下の様な広告が挟まりまして
大爆笑して考えたこと全て吹っ飛びました。
何が広告として出稿されるか、全く気にしない人々
でも、ある意味このスクショこそが今回の騒動の本質を捉えてると思うんですね。
つまり、大手新聞やテレビ・ラジオ、またそれらに関係する人々が運営しているメディアにおいて、「一体自分たちのメディアにどんな広告が載せられているか」気にしている人なんて誰もいないんですよ。一応社会の木鐸たる姿勢は見せなきゃいけませんから、建前として「広告のジェンダー平等化」とか言いますが、それが実際に現場で守られているかなんてしったこっちゃないし、それを批判する側ですら、実際に載っている広告を見ればそんなこと気にしてないことが明白なわけです。
そしてその結果、広告は倫理もなにもない闘争の場になる。その闘争の場で何が争われるかと言えば、まさしく前回の記事で述べた「価値観同士の文化闘争」なわけです。
amamako.hateblo.jp
広告に携わる人々が、飯の種にこういう「闘争」を見て見ぬふりしてきた結果がこれだ
そして、更にその「文化闘争」をどうしようもないものにしているのが、広告に携わる人たち自身が、それを見て見ぬふりしているということです。
前回の記事に対し、広告肯定派・否定派双方から色々なコメントがありました。まあそれ自体はいいことです。ブルデューの『ディスタンクシオン』
に結びつけたコメントもあったりして、「コメント欄には聡明な人も居るんだなぁ」と膝を打ったりもしました。しかし中には、以下の様に「こいつら一体何言ってんだ?なんでそれで前回の記事を論破できたとか思えるんだ?」と思うコメントもありました。
「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログb.hatena.ne.jp「購買行動に(直接的に)繋がらない広告」は、わりとありふれていますよ。たとえば道頓堀のグリコを見て買いたくなる人が何人いるか?みたいな話。「PR」や「広報」についての書籍をいくつか読むといいと思います😊
2022/04/07 14:50
「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログb.hatena.ne.jpまずはAIDMA、AISASから勉強しようか。
2022/04/07 23:14
通常の理解力があれば言うまでも無いことですが、前回の記事は、そういう通常の広告の機能を理解した上で、しかしそれでは、今回の広告そのものや、それへのバッシングは説明できないから、通常のマーケティング理論では説明しない、「隠された機能(社会学で言う「逆機能」)」があるのではないかということを述べ、その隠された機能を「示威的広告」という概念で説明しているわけです。
しかし、なぜかid:Rootportやid:fujiday1975のような輩は、広告のマーケティング理論を知っているにもかかわらず、その程度の理解もできない。一体なぜなのか?
はっきりと言いましょう。それを理解し、認めてしまうと、彼らの仕事に必須不可欠な嘘が明らかになってしまうからです。
例えばAIDMAやAISAS、これらの言葉は以下の様な意味です。
AIDMA
- Attention(注意)
- Interest(関心)
- Desire(欲求)
- Memory(記憶)
- Action(行動)
AISAS
- Attention(注意)
- Interest(関心)
- Search(検索)
- Action(購買)
- Share(情報共有)
今回の広告を上の図式に当てはめようとすると、AかIぐらいでしょう。しかしこれは明らかに無理があります。実際は、広告を見た時点で、あの広告を支持する価値観を持った人は一気にD、広告用語を行動や情報共有と考えればActionやShareまで行ってますし、また逆に広告に反対する人たちは、逆の気持ちでDや、A・Sまで行っているわけです。
あるいはもっと極端に例えて、「糞尿」についての広告を考えましょう。id:Rootportやid:fujibay1975みたいなことを言う、横文字大好きの広告マンが「今回の広告は、糞尿をほしがる欲求までもっていくものではなく、あくまで糞尿に対する認知を促すものです」とか行って糞尿の写真を新聞の一面広告に出稿したとします。そのときそれを見た人が認知の段階で止まりますか?スカトロ趣味以外のほとんどの人が嫌悪感を抱くところまでいくでしょう。
つまり、社会的にその存在に対する価値観が割れているものに対して認知広告をしたって、その効果が「認知」にとどまるわけがないんです。そして更に言えば、賢いマーケティング専門家が、そのことに気づかないわけもない。
にもかかわらずid:Rootportやid:fujiday1975のような輩は、この騒動に対し全く無力なマーケティング理論を、まるで銀の弾丸のように振りかざす。なぜそうなるかといえば、そのようなAIDMAやAISASというような言葉で語れる要素以外の要素が広告にはあると認めてしまうと、彼らのおまんまの食い上げになるからです。
その要素とは何か?それはイデオロギーです。
AIDMAやAISASは、基本的にある前提の元に成り立っています。それは、その広告を求めるひとがイデオロギー的に無色透明であり、また、紹介されるものもイデオロギー的に無色透明なものであるという前提です。だから、広告を見た人は、その広告されたものに対して素朴に「認知」の段階で留まるわけです。
ところが実際は、イデオロギー的に無色透明なヒト・モノなんてどこにもありません。つまり、上記のような環境は実際にはあり得ない、虚構の状況設定なわけです。
ところが、現代の広告システムというのは、その虚構の状況設定によってなりたっているわけです。
つまり、「どんなものを紹介する広告でも、それが認知の段階で留まっているのなら、それは中立性を持つものだから、自由にメディアに載せて良い」という嘘を正当化する道具として、AIDMAやAISASのような理論が金貨百条のように扱われているのです。
そして、そういう嘘にまみれているからこそ、広告屋は戦争や人道危機でさえ「広告」の対象にできるのです。
戦争を売り込む広告代理店の連中はこう言います。「私たちは、一方の民族が差別やジェノサイドを行ったかもしれないという情報を『認知』させただけ。それでどう思うかは人々次第」と。
これがいかに詭弁であるかは、もはや言うまでも無いでしょう。
そしてだれも「広告表現」に責任を負わない、そのことにこそ人々は失望している
そして、そのように「認知を促しただけ」という言い訳が、出稿する代理店と、出稿されるメディア双方に共有された結果、例え広告表現が、イデオロギー的な偏りによって誰かを傷つけても、誰も責任を取ろうとしない、そういう無責任の体系をつくり上げているのです。
ここでいう「責任を取る」とは、広告を取り下げたり修正するということだけではありません。もし、広告主やメディアが本気で広告に対し責任を持ち、しかもその広告表現のメッセージが正しいと思うなら、批判に屈せず断固として広告を表現し続けるというのも選択肢でしょう。以前LOFTの広告が炎上したとき、僕はそういう態度を望みました。
amamako.hateblo.jp
ところが実際は、何の責任感もないから、誰かを傷つけるかもしれない広告を安易に発表し、何の責任感もないから抗議を受けたら安易に取り下げる訳です。その結果、人々は広告と、更に言えば広告を載せているメディアに対し信頼を喪失するのです。彼らには「広告はあくまで認知を促すものなら政治的に中立」なんていう、id:Rootportやid:fujiday1975が示すような広告ムラの内輪の論理は通用しませんから。
言いたいことは一つ、「広告」も含めてメディアは自分の表現に責任を持て
「広告のジェンダー平等化」なんて、いかにも電博が思いつきそうな戯れ言ですが、しかし実際は、どのジェンダーにも平等な表現なんてものはあり得ません。何かを表現しようとすれば、かならずそれはどれかのジェンダーに味方し、逆にどれかのジェンダーに敵対するものなのです。
そうである以上、「広告の表現に責任を取る」とは、どのジェンダーにも平等なものを目指すなんてことではなく、自分たちの表現がどのジェンダーに味方するものかをきちんと自覚し、確信犯となることなはずです。今まで虐げられてきた女性に味方するか、敢えて今過剰に叩かれる男性に味方するか、あるいはどちらにも無視されるトランスジェンダーに味方するか……どれを選ぶにせよ、それは、その選択されたものに反発する人たちの嫌悪を真正面から受け止めるということでもあるわけです。
それができないメディアは、日経のような既存メディアだろうが、あるいはハフポストのような新興のWebメディアだろうが、人々から信頼されることはないでしょう。