あままこのブログ

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「正しさ」と「優しさ」って、やっぱり両方必要だと思う

davitrice.hatenadiary.jp
DavitRice氏はこの文章の出来に納得していないみたいだけど、僕はこの文章とても楽しく読みました。ぶっちゃけ、普段DavitRice氏がお仕事で書いている文章を読むより、こういう文章の方が好きだったり……

なんで僕がこういう文章を好きかというと、僕が倫理学や法学・政治学より社会学が好きからかなーと思ったりします。

社会学という学問は、まさしく、人々が持っている「ふわっとした印象」を、様々な統計や理論を用いて概念として整理し、そこから現代社会を分析する学問なんですね。

そして、今回の文章で問題になっている概念である、「正しさ」、「優しさ」というのも、社会学において結構議論の対象になってきた概念です。

特に「優しさ」については、これまでも

といった論考が発表されてきました。

今回の記事では、そういった論考の中でも、

という本を援用しながら、「正しさ」と「優しさ」について考えていきたいと思います。

「正しさ」と「優しさ」には、重なる部分もある

DavitRice氏は、世の中には「正しさ」こそを求めるべき価値とする「正しい議論」と、「優しさ」こそを求めるべき価値とする「優しい議論」があるとし、そして前者の議論は退屈ではあるが、しかし真に社会に安定をもたらしている議論はこちらである。それに対し「優しい議論」は、疲れている現代人にとって耳障りは良いが、実際に社会を運営する方法論にはなりえない無意味なものだと主張しています。そしてその上で、「正しい議論」こそが重要であり必要なんだと主張しているわけです。

しかし、ここで疑問となるのが、「正しさ」と「優しさ」って、そんなにどちらかを取ればどちらかを排除しなければならないような、排他的な概念なのか?ということです。

DavitRice氏は、記事の冒頭において「感情を制御すること」を「正しさ」の例に挙げ、その正しさによって社会の安全が保たれている例として、「大声で怒鳴る人が頻発しないこと」を挙げます。

 とはいえ、みんなが「正しさ」に従っているからこそ、社会は安全で豊かな場所になっている。

 自分が街を歩いているときのことを考えてみよう。街中でなにかムカついたことがあるときに大声を発せないのは、たしかに不自由であるかもしれない。けれども、街を歩いているときに大声を発する人と遭遇することは、たまにはあるかもしれないが、すれ違う人の数を考慮するときわめて稀である。みんなが些細なきっかけで生じる怒りやムカつきをその場で行動に表出するような街はおそろしく物騒で緊張に充ちた環境になり、誰も住みたいと思わないはずだ。それに比べると、自分を含めたみんなが怒りやムカつきを抑えることのほうが、多少不自由であってもずっとマシである。ほとんどの人はそう考えるはずだ。

しかし、「大声を発しない」という「正しさ」って、むしろ「優しさ」から来るものなのではないでしょうか?

『ほんとはこわい「やさしさ社会」』という本では、「優しさ」の例として、「混んでいる電車で携帯電話を注意しないこと」が挙げられます。

最近ではあまり言わなくなりましたが、昔は混んでいる電車や、シルバーシートの周りでは、携帯電話は電源オフにすることがルールでした。実際、電車内のアナウンスでも、「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが頻繁に流れたわけです。

しかし実際は、多くの人はそのルールを無視して、普通に電車内で携帯電話をいじっていました。そして、それを注意する人も殆どいなかったわけです。

もし「正しさ」だけを重要視するなら、この状況は明らかに間違いで、携帯電話をいじる人をみたらきちんと周りの人が注意することこそが正しいはずです。

しかしそういう風に多くの人が思えば、生じるのは「電車の中でいきなり大声の口論が頻発する」という、まさしくDavitRice氏が安全と思わないような状況な訳です。

そういう状況を多くの人は避けたいと思うから、人々は「電車の中で携帯いじっていても注意しない」という「優しさ」をもって、混んでいる電車の中の安定を維持しているわけですね。

更に言えば、そういう人はそうやって「他人の行為をむやみにじゃましない」という優しさこそが「正しさ」であり、「混んでいる電車で携帯電話をいじってはいけない」という正さだと考えているわけです。

なぜそうなるか?『ほんとはこわい「やさしさ社会」』の著者である森真一氏は、「人々の社会では、法や契約といった『公式ルール』よりも、優しさに代表されるような、明文化されていないけど誰もが守らないといけないと感じている『非公式ルール』のほうが強く人々の行動を縛っているから」と、考察しているわけです。

みんなが求めるのは「正しい」し「優しい」状況。だけどそれが難しい

このように考えると、「正しさ」と「優しさ」を排他的概念と捉えるのは、あまり社会の実態にそぐわなくて、実際は

  • 「正しくない」し「優しくない」状況
  • 「正しくない」けど「優しい」状況
  • 「正しい」けど「優しくない」状況
  • 「正しい」し「優しい」状況

の4つがあるわけです。

「正しくない」し「優しくない」状況は最悪ですが、しかし社会の状況としてはありえます。例えば今のウクライナの状況なんかはまさしくそういう感じで、最低限の戦時国際法も守られず、虐殺や性暴力が横行しする、 「正しくない」し「優しくない」状況です。これを避けなきゃいけないのは、『メタルギアライジング』の上院議員のような一部の人を除いて、万人が一致するでしょう。

次に「正しくない」けど「優しい」状況、これは、まさしくDavitRice氏が批判するような「優しい議論」が求めるけど、実際に現れることはありえない状況です。

そして「正しい」けど「優しくない」状況。つまり「公式ルール」のみが人々を縛る状況で、DavitRice氏はこれこそ「退屈だけど、社会が選べる最善の状態」とするわけですね。しかし実際は、「混んでいる電車における携帯電話」の例を見れば分かるとおり、言うほど安定した豊かな状態では無いわけです。

だから、多くの人は「正しい」し「優しい」状況を求めるわけです。「正しい議論」と「優しい議論」というのは、そのどちらをより重要視するかという、配分の問題でしかないわけです。

問題は、現代においては「優しさ」が過剰になりすぎていること

ですが現実は、「正しい議論」が、社会の運営方法を示す方法論を示せているのにかかわらず、「優しい議論」は、ただ理想を口にするだけで袋小路にはまっているように見えます。DavitRice氏が「優しい議論」に反発するのも、まさにそれが原因なわけです。

一体なぜ現代において「優しい議論」は袋小路に陥りがちなのか?その背景には、現代社会が「優しさ」の中でも「何もしない優しさ」、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』で言う「予防的やさしさ」のみを過剰に重視しているからなのではないか。僕は、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』を読んで、そう考えました。

森氏は、やさしさというものには

  • 予防的やさしさ
  • 修復的やさしさ

という、二つの種類のやさしさがあるのではないかと主張します。

そして、その例として、他人に失礼なことをしたときに掛けられる、「謝るぐらいなら最初からするな!」という叱りの言葉を挙げます。失礼なことをそもそもしないこともやさしさですが、失礼なことをしたときに、謝るのもやさしさなわけです。しかし現代の日本社会においては、前者の「予防的やさしさ」こそが真のやさしさとされ、後者の「修復的やさしさ」はあまり重視されていないのではないかと、森氏は主張し、その理由として、「自己というのは一度傷つけられたら修復は出来ない」という、自己の修復可能性への過小評価があると述べるわけです。

そして、そのように「予防的やさしさ」だけがやさしさとされることによって起きる弊害として、「人々がどんどん消極的に何も出来なくなってしまう」という例を挙げます。

例えば、「電車やバスで老人が立っていても、席を譲らないことこそやさしさ」だと考える人がいます。つまり、自分が老人だと思う人に席をゆずっても、もしかしたらその人は自分を老人だと思っておらず、「老人扱いするなんて!」と怒るかもしれない。だったら、最初から何もしないことこそが「やさしさ」なのではないかと、そう考えるわけです。

つまり、「予防的やさしさ」というのはあくまで「しない」ことを目指す倫理であり、そのため具体的に社会を維持したり更新していく力になりにくいのです。

「予防的やさしさ」のみを重要視することこそが、表現の自由に関する議論を袋小路に追い込んでいる

ちなみに僕は上記の論考を読んで、昨今の「表現の自由」に関する議論を連想しました。

昨今の「表現の自由」に関する議論では、表現を批判する側は、表現の自由があるといえど、他人を傷つける表現はそもそも表現すべきではないと主張します。それに対して、表現を擁護する側は、表現はそんな表現でも自由であり、ある表現に対する批判によって、その表現者が謝罪に追い込まれたり、表現を改変することがあってはいけないと主張します。

これ、実はどっちも「予防的やさしさ」に基づく考え方なんですね。つまり、表現を批判する人は、一度表現によって傷つけられれば、どんなことをしてもその傷が癒えることはないと思っているから、最初から人を傷つける表現をするなと主張する。一方で、表現を擁護する側は、謝罪や修正というのは、表現者に癒えることのない傷を与えるから、絶対にすべきではないと主張する。そして、どっちも「しない」ことを主張するが故に、議論は袋小路に陥るわけです。

この袋小路を解きほぐすには、「予防的やさしさ」ではない「修復的やさしさ」を導入することが実は重要なんです。最初から完璧に適切な表現をすることを求めるのでは無く、表現をした後に、それを謝罪し修正しろと、表現を批判する側は要求する。そして表現を擁護する側も、その声を聞いて、その声が妥当と思うなら謝罪し修正する。このように「何をしてはいけないのか」ではなく「何をするべきなのか」という方向に議論をすれば、より建設的な議論が出来るようになると、思うわけです。

重要なのは「優しさ」を否定することではなく、優しさにも色々な種類があることに気づくこと

ここで誤解して欲しくないのは、「予防的やさしさ」を完全否定して、「修復的やさしさ」だけあればいいとは、森氏も僕も主張していないことです。

自己に関する傷は、多くの場合修復できますが、しかし修復できないほど深い傷もあります。差別に基づくヘイトスピーチや、明確に誰かを侮辱する表現というものは、そういう深い傷を残しますし、そのような表現は、そもそもしてはいけないでしょう。そこにおいては、まさしく「予防的やさしさ」こそが重要になるわけです。

僕がここで主張したいのは、「優しさ」という概念を、ただ肯定したり、その反対に一概に否定するのでは無く、その内実をしっかり見ていく必要性です。「優しさ」が実現する社会なんて夢物語だとDavitRice氏は言いますが、実際は「優しさ」によってて今ある社会が回っている部分も多々あるし、そうである以上、「正しさ」だけでなく「優しさ」によって世の中を変える場面だって多々あるはずだと、僕は思うのです。

そういう、より精緻になされた「優しい議論」なら、DavitRice氏もイライラしんばいんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?