あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「マイノリティに寄り添う」ということの曖昧さに潜む罠

女性向け下着ブランドの代表が炎上した件について、周囲の騒動をひとまず置いておいて、直接代表が書いた文章から考えてみる。

togetter.com

どんな性でも性的な魅力で異性を応援したってよくない?
そしてわたしにはそもそもあの広告が性的とは感じられませんでした。
胸が大きい女子高生は実在するし、制服をミニスカートで履きたい!って方も多くいると思います。実際、わたしもそうでした。


月曜日のたわわ4巻まで読了しました!
感想は、胸が大きい女性のことが好きな男性のロマンを詰め込んだファンタジーギャグ漫画なんですね。
確かに未成年の肉体に性を感じている描写がありましたが、それを決して読者に勧めている内容ではありませんでした。


男性も相手に嫌われないよう、理性を踏み越えないように葛藤する空回りがギャグポイントというあたり。
そもそも漫画世界なので、現実とは別ですよね。と捉えました。


これを読み、女性機関が言っている、「明らかに未成年の女性を男性の性的な対象として描いた漫画の広告を掲載することで、女性にこうした役割を押し付けるステレオタイプの助長につながる危険があります」は、善悪を判断できる男性、嫌だといえる女性に対して失礼だなと感じたところです。

代表の私自身、またHEART CLOSETは大前提として、未成年を性的な対象とする風潮を奨励しません。未成年を性暴力や犯罪から守るのは当然のことであり、私自身とても大切に考えています。


そして、他者が誰かを性的であると勝手に判断し、押し付けることはあってはならないことだと考えております。


にもかかわらず、なぜこういった事態を招いてしまったのか説明いたしますと、自身が常にマイノリティで生きてきた中で、自分自身を肯定したり、マイノリティの他者をまず肯定し、思いやるというスタンスを持ってきたことが背景にございます。
今回の件についても、一律に否定するとそこから漏れてしまった方たちを萎縮させてしまう状況を作り出してしまうと思ったからです。


しかし、今回は単純には肯定していけなかった事象について、単一的な面だけを切り取り肯定してしまったこと、深く反省しております。

問題になったツイートと、それに対するお詫びの文章を読んだとき、まず思ったことは、「ツイートに対する釈明やお詫びになっていないような気がする」という感想でした。

そもそも別にツイートでは「マイノリティの他者を肯定」とかいう話は全然出ていないわけで、そのような気持ちがツイートした理由になっていると説明されても、その二つにどういう関連があるかいまいちよく分からないですし、事実Twitterでも下記のツイートのように、文章の解釈を巡って混乱が生じています。


今回の騒動に登場するアクターを整理すると

  • 『月曜日のたわわ』のファン
    • 『月曜日のたわわ』に登場する女性キャラクターを性的な対象として消費する人
    • 『月曜日のたわわ』に登場する女性キャラクターのように自らの性的魅力を利用したい人
  • 『月曜日のたわわ』の広告を掲載した側
  • 『月曜日のたわわ』の広告を批判する側
  • 胸の大きな人
    • 胸が大きいことを自己アピールとして利用している人
    • 胸が大きいことに注目されるのを嫌がる人

というように、様々なアクターが存在し、また更に言えばそのどれもがマイノリティである、または自分がマイノリティであることを主張している人だったりするわけですね。

その中で、では代表はどのマイノリティを肯定し、思いやろうとしたために上記のツイートを投稿したのか。それが不明確なのが、上記の「お詫び」の解釈が分かれてしまう一番の原因なのだと思います。

「マイノリティ」というラベリングそのものの曖昧さ

ただ、このように解釈が分かれてしまうのは、単純に文章が推敲されていないということ以外にも、そもそも「マイノリティ」という概念そのものに問題があるのだと思うのです。

マイノリティとは、直訳すれば少数派ということです。ただ、一般にその言葉が社会問題や社会運動の場面で使われるとき、その言葉には「社会によって抑圧されている」とか「弱者である」といった含意が含まれます。例えば、身分制があった過去の王国などでは、少数の貴族や特権階級が多数の人々を支配していることがありますが、そういう貴族や特権階級のことは普通「マイノリティ」とは呼ばないわけです。

具体的に名前を挙げるならば、「女性」「有色人種」「障がい者」などなどが挙げられます。ここで「女性」もマイノリティに挙げられるということが結構重要で、あるグループが「マイノリティ」であることは、数の多少よりも、そのグループが抑圧を受ける社会的弱者であるかが問題なわけです。

そして、そういう定義である以上、あるグループがマイノリティであるかというのは、そのグループ自体が決めるというよりは、そのグループを社会的にどう扱うか決める、外部の社会が決めることなのです。「女性」も「有色人種」も「障害者」も、自ら望んでマイノリティになっているのではなく、社会によってマイノリティとラベリングされているわけです。

マイノリティ同士だからって、仲良くなれるわけではない

このことが何を意味するかといえば、「マイノリティ同士だからって、好き好んで共通している要素なんて実はあまりない」ということです。もちろん、実際は多数派の社会に対抗するために、異なるグループが「マイノリティ同士の連帯」を主張することはあります。しかしそれも結局、多数派の数に対抗するための戦略的な連携な訳で、心情的に「マイノリティ同士だから理解し合える」という要素って、実はほとんどないのです。

事実、マイノリティのグループ同士が対立しあうという問題は、社会運動の歴史で多々ありました。有色人種の運動のマッチョイズムが女性運動から批判されたり、あるいは女性運動の異性愛中心主義が同性愛者から批判されたりと。こういうのを見ると、「マイノリティに寄り添う」側はついつい「同じマイノリティなのになんで仲良く出来ないの」と思ってしまうわけですが、しかしそれこそまさに、マイノリティを「マイノリティ」とラベリングする、多数派の視線を内面化した傲慢なわけです。

重要なのは、「マイノリティ」というラベリングではなく、個別の人たちにどう向き合う実践をするか

お詫び文章では「マイノリティの他者をまず肯定し、思いやる」ということが書かれています。それは、行動の原理原則としてはとても大事でしょう。しかし、他者が好き好んで「マイノリティ」になったわけではない以上、実際に他者と相対するときには、「マイノリティ」というラベリングは抜きにして、個別の人たちにまずは向き合う必要があるはずなのです。

そうすれば、代表が肯定したいと考えている「胸の大きな人」の中にも、『月曜日のたわわ』のような表現を批判的に見る人がいるということが理解できるはずだったのではないかと、僕は考えます。

そして、更に言えば、『月曜日のたわわ』を肯定する人と批判する人の両方がいて、そのどちらもある意味マイノリティと言える以上、全てのマイノリティを無条件に肯定するのは不可能なわけです。

しかしそのことは「だから一方に荷担して他方の敵となるしかない」ということではありません(ネットでは往々にしてそのような極論に走ってしまいがちですが)。対立する双方の主張を聞き、それぞれの理を理解した上で、「でもここはやっぱり肯定できない」と言うことは、ただ全肯定するよりよっぽど誠実な、マイノリティに対する態度だと、僕は思います。

ただそれは、そもそもTwitterのような「全肯定/全否定」しか書けないようなSNSではできないわけで、そう考えると、やっぱり今回の件について安易にTwitterでつぶやいたことが、間違いの発端なんじゃないかなぁと、思ったりもします。