あままこのブログ

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人生に“冷めて”しまったとき、どうすればいいのか

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分かる部分と分からない部分がある気がする。

僕も、30代で特にこの先結婚・子育てをする予定も無く、かといって仕事で何かをなすような人間でも無いので、むなしいという気持ちはよく分かる。そしてそのむなしさが、趣味に打ち込むとかでは解消されないんだろうなーとも、思う。

ただその一方で、そこで感じるむなしさが、「自己実現できていないから」ではないかというのは、僕はよく分からない。

というのも僕は子どもの頃から、そもそも結婚したり子供を産んだり、あるいは仕事で大成することに一体何の意味があるのか、よく分からなかったから。

おそらく、もし本当に「子どもを産み育てることこそが、この世に生まれた人間のやることだ」とか「仕事で成果を出すことが、社会人としての正しいありようなのだ」とか思えるのならば、30代という年齢は、がんばればなんとかできる年齢だと思う。

でも、そこで頑張ることができないのは、結局、そういう「これが正しい人のありようだ」という理想像を、心の底から信じることができていないからだと思うのです。

趣味というものが、心の救いにならないのも、それが原因だと思う。趣味を生きがいにするには、ただ趣味を楽しめばいいだけでなく、「趣味を楽しみに生きたって、それは素晴らしい人生じゃないか」という確固たる価値観がなければいけないわけだけど、おそらくそういう価値観もまた、心の底から信じなければ、信じることはできない。

伝統とか宗教といった、上から「こうあるべきだ」という規範を押しつけているものがあまりない現代の社会においては、「何のために生きるか」というのはあくまで個々人が自由に選び取るものとされている。

ただ、多くの人はそうはいっても、周囲の人々の価値観や、マスメディアですり込まされるイメージにより、なんとなく「これ(仕事、子育て、趣味)を大事とすべきなんだな」という価値観を得ることができるんだけど、でもそれは伝統や宗教のように上から押しつけられるものではないから、それを大事に思う理由は、「自分がそれを大事にしているから」という、循環論法でしかなく、それ故極めて脆弱なものになる。

そして、そうであるが故に、「なんでそれが大事なんだっけ」と、一旦“冷めて”しまうと、もう元通りに戻ることは難しくなってしまうわけです。

昔だったら、こういう風な実存的疑問って言うのは、伝統とか宗教とかを押しつけられず、むしろそれを作り上げる立場に居る、宗教家とかの一部のエリートのもので、それ故に、出家させるとか、書生生活を送らせるとかができた。

でも現代においては、一旦人生につまずくと、ごく普通の一般人でさえ、こういう実存的疑問にぶち当たってしまう。しかし、そういう人全てを宗教とか象牙の塔とかに、丸投げは出来ないわけで、そうなるとまさに増田や僕のような「むなしさを抱えたままの人」が続出しちゃうわけです。

と、このように診断はできるわけだけど、じゃあ実際「むなしさを抱えたままの人」をどうすればいいか、結局のところは、よく分からないわけだけどね。