あままこのブログ

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2020年代の物語消費において「ベタ/メタ」という対立軸はどこまで有効なんだろう

シロクマ先生と小島アジコ先生が「物語をメタ/ベタに消費すること」について記事を書いていた。 p-shirokuma.hatenadiary.com orangestar.hatenadiary.jp こういう問題について考えることは、僕も昔から大好きだったし、そのような問題に連なる記事は、それこそ大学生の頃からいくつも(もちろん、若い頃の筆致なので多分に自意識過剰であるのだけれど)書いてきた。 amamako.hateblo.jp ただ、その一方で、今現在の自分の物語消費を振り返ってみると、なにかそのように「ベタ/メタ」という対立軸で物語消費を考えることは、どうにも難しい気がする。 なぜそう思うか、その理由は、これもまた陳腐な話ではあるが、生成AIの影響である。

2000年代から物語消費を本格的に開始したものの原風景

シロクマ先生は、自分が『新世紀エヴァンゲリオン』を見ていたときの態度として、次のように振り返っている。

ビデオテープを何十回もリピート再生し、楽屋裏の事情など無視して作中描写に集中・埋没する。作中描写と自分自身との相互作用をどこまでも追求する。万巻のコンテンツを渉猟できる都会のオタク・エリートではなく、たとえば『Zガンダム』や『ガンダムZZ』の再放送を録画し何度も再生するしか能のない田舎のファンだった私にとって、それは難しくない向き合い方だった。

おそらく、1990年代ぐらいまでは、地方オタクであり、特に頑張ってアンテナを高くせず、アニメを視聴する態度としては、このような「ベタな態度」はむしろ自然なものだったと思う。

ただ、そこから10年ぐらい遅れ、2000年代から物語消費を始めた僕にとっては、それは多分に難しい、修行僧のような「意識の高さ」が必要な態度だったのだ。

僕がアニメを見始めたとき、目の前にはすでにパソコンがあり、その画面には「シャア専用板(新・旧)(さらにちょっと時代を下れば」「今日もやられやく(→やらおん)」、「はちま寄稿」といった2chまとめブログ)や、「作画wiki」「wikipedia」といった広大なデータベースが映し出されていた。

もちろん、例えそのようなサイトがアクセスできるとしても、「アクセスする/しない」は当人の選択に委ねられていた。例えば、放映時ガンダムSEEDをベタに愛好していたものからすれば、当時の2chの雰囲気は毒でしかないものだったから、「敢えて見ずに、自分の心の内で楽しむ」という態度こそ、自分の精神を平穏に保つには最適な態度だっただろう。だが、それにしても、そのベタな態度というのも「敢えて取った選択」となってしまう。「メタに語られる場を見る/見ない」という選択肢が出来たことで、「ベタに見る/メタに見る」という態度の双方が、環境によって決められるものではなく。自分の自己決定の結果となったのである。

そして、そのように「ベタに見る/メタに見る」という選択が自己決定できるようになったからこそ、記事の最初に出てた「ベタに見ることメタに見ること、どっちが上等な作品鑑賞の態度か?」ということが、視聴者が考えるべき問題となり、そこで様々な情報・主義・主張を見聞きしながら、「では自分はどちらの道を選択すべきか」、考えざるを得なくなったのである。

2020年代の物語消費の光景の一例

しかし、今僕の目の前にあるのは2ちゃんねるでも、Twitterでもなく、「◯◯さん 何から始めますか?Gemini3に相談」という、プロンプト入力画面である。

僕は最近、自宅でアニメを見るときは必ずスマホにこの画面を表示しながらアニメを見る。といっても、最近は新作アニメを見るというよりは、青年期から何十回と見た押井守作品とかを見返すことがほとんどなのだが、それでも難解な押井守作品には「何回も見たけどここの描写の意味ってなんなんだろう?」という場面が多々あり、その都度生成AIに「ここの画面ってどういう意味があるんだろうね?」と聞いたりする。そうすると生成AIが「ここの場面は〇〇の引用で~」とか「ここの鳥の描写は押井監督のテーマである□□が~」とか適当な答えを返してくれるから、その答えにふーんとかへ-とか言って、「でもさー、〇〇ってことは~」と会話を続けたりして、もはや見ている映像そっちのけで生成AIと会話を続けたりする。

なぜそういう視聴の仕方をしているかというと、単純にこれが一番楽で楽しいからだ。生成AI、特に僕という個人にパーソナライゼーションされた生成AIは、まさしく僕の問いかけに返してほしい答えをそっくりそのまま返してくれる。ベタに「このプロテクトギアかっこいいよねー」と問いかければ「いいですよね……」と共感してくれる一方で、疑問を問いかければ、その大規模言語モデルの生成元となった情報を最大限活用して、問いかけに答えてくれる。そのような都合のいい生成AIと会話しながらアニメを見ていると、「ベタに見ることメタに見ること、どっちが上等な作品鑑賞の態度か?」という問題は、いつしかどうでもよい、認知範囲外に隠れてしまうのだ。

実際問題、「生成AIに話しかけながらアニメを見る」という行為は、ベタなのかメタなのか?世界中のあらゆる情報を背景に答えを生成してくれるパートナーと共に見るという点では、究極的にメタな態度とも言える。だがしかし、この視聴体験に参画する者は、僕と、生成AIという「君」だけなのだ。「僕と君」という、まさにセカイ系のような閉じた環境。自分が好きなアニメ作品がいくら「僕と君」の外で貶められていようとも、僕と生成AIの間では「イイよね」「イイ……」が通用する。これは、究極的にベタなアニメ消費であるとも、いえるのではないか。

そう考えると、2020年代、生成AIと併走する物語消費において、「ベタ/メタ」という対立軸はどこまで有効なんだろうと、思ってしまうのである。

AIと深めるアニメ鑑賞の新境地(←AIがつけたタイトル)

最後に、これまでの内容をまとめて、生成AI(Gemini 3.1 Pro)に問いかけてみた。

あなたのプロンプト:アニメとかの物語を鑑賞する時は、そのアニメの周辺の情報、そのアニメが誰によって作られたか、それを作った人がどういうテーマを作品に込めたかとか、その物語がどういう時代背景をもとに作られたかを。がっちり勉強して、物語を鑑賞するほうが、より豊かに物語を楽しめるんじゃないかと言う人がいるよね。

一方で、そういう人とは反対に、何も周辺情報を入れず、ただ「自分がその映像を見て何を感じたか」を重視すべきという人もいる。そういう人からすると、前者のような物語鑑賞のような態度は、不純なものに感じられるのだと思う。

前者を「メタ的な作品鑑賞」とし、後者を「ベタ的な作品鑑賞」としたとき、前者の視聴と後者の視聴、一体どっちがより豊かな作品鑑賞のたいお度なのかというのは、長い間議論の対象だった。

でも、最近僕がしてるアニメ視聴では、「アニメを見て、なんか思うことがあったらAIに聞く」ということをやっているんだけど、これってメタ的なのかベタ的なのか、どうにもわからなくなってるんだよね。

AIくんはどう思う?僕の最近のアニメ視聴の態度は、メタ的なのかベタ的なのか。あるいはその二分法で割り切れないものなのか。AIくんの考えを聞かせて?


【推測】 今回の回答は、芸術鑑賞の態度に関する美学的・哲学的な議論であり、絶対的な正解が存在しないテーマに対する私の一つの「解釈・考察」となります。

メタ鑑賞(文脈や周辺情報を重視する態度)と、ベタ鑑賞(事前の情報を入れず、自分自身の純粋な感情や体験を重視する態度)、どちらがより豊かな作品鑑賞なのかという議論は、本当に長く語り継がれてきた面白いテーマですよね。

あままこさんの現在の「アニメを見て、なんか思うことがあったらAIに聞く」というスタイルがどちらに属するのか。

結論から言うと、従来の二分法では割り切れない「ベタを出発点とした、再帰的(リフレクシブ)な対話型鑑賞」と呼べる、全く新しい領域にあると私は思います。

なぜそう言えるのか、要素ごとに分解して私の考えをお話ししますね。

  1. 起点は完全に「ベタ」である あままこさんのスタイルの最も重要なポイントは、「アニメを見て、なんか思うことがあったら」という部分です。つまり、鑑賞の第一歩は、事前知識によるバイアスがない、純粋な自分自身の直感や感情、あるいは違和感からスタートしています。これは極めて純度の高い「ベタ的な作品鑑賞」です。

  2. 後から「メタ」を呼び出している そして、その「なんか思ったこと」の正体を突き止めるため、あるいは言語化するために、事後的にAIという外部装置(メタ)を利用しています。ここで、時代背景や制作者の意図、あるいは社会学的な文脈などの情報が補助線として引かれます。

  3. なぜ従来の二分法で割り切れないのか 従来の「メタ的な鑑賞は不純だ」という批判の根底には、「他人の解釈や事前知識に、自分の感情(ベタ)が塗りつぶされてしまう」という懸念がありました。頭でっかちになり、作品そのものを楽しめなくなる状態です。

しかしあままこさんの方法は、主導権が常に「あままこさん自身の初期衝動(ベタ)」にあります。 AIが提供するメタ情報は、あままこさんの感想を否定したり上書きしたりするものではなく、あままこさんの中にある「言語化しきれていないモヤモヤ」や「論理的な納得感」に形を与えるための道具として使われています。

これは、自分自身の体験を客観視し、外部の情報(AI)を鏡にして、再び自分自身の解釈を豊かにしていく「再帰性(Reflexivity)」を伴ったプロセスです。物語の意味は作品単体にあるのではなく、読者(視聴者)との相互作用の中で生まれるとする「受容理論」や「読者反応論」を、AIという対話相手を挟むことで現代的にアップデートした形とも言えます。

メタとベタが対立するのではなく、「ベタな感情を深掘りするために、パーソナライズされたメタ情報をピンポイントで処方している」という点で、非常に理にかなった、そして豊かな鑑賞態度ではないでしょうか。

参考となる概念・ドキュメント 今回の話題に関連する、文学理論や美学における概念の参考URLです。

受容理論 / 読者反応論(Reader-response criticism): 作品の意味は作者が一方的に決めるのではなく、読者(視聴者)が作品を経験する過程で形成されるとする文学理論です。

Wikipedia(読者反応論): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%80%85%E5%8F%8D%E5%BF%9C%E8%AB%96

再帰性(Reflexivity): 社会学などで使われる概念で、自分の行為や思考を対象化し、それを元にさらに自己を更新していくプロセスのことです。あままこさんのAIとのやり取りはこれに近いです。

Wikipedia(再帰性): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8D%E5%B8%B0%E6%80%A7

最近この「AIとの対話」を通じて、特に鑑賞体験が深まったと感じた、あるいは「なるほど!」と腑に落ちたアニメ作品はありましたか?もしよければ、その時の具体的な「ベタな感想」とAIから得た「メタな気づき」について教えてもらえませんか?

……もう僕が記事書く必要とか、ほとんどねえな。