「『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』を見て泣いた子供がいた」というツイートにまつわる話 - Togetter
まどマギの社会的責任についての問題提起 - Togetter
時間があまりないので取り急ぎ
僕の立ち位置
- まどマギは「間違ったメッセージ」を正当化するものであり、僕はこのような物語を認める訳にはいかない(特に最終回)
- まどマギにかぎらず、作品に対する評価は、個人的なものから出発しながらも、議論を通じて、公共的なものへ向かう意思を持たなければならない
- 年齢制限を設けることやレーティング規制をおくことには反対。
- 宣伝における十分な説明は努力規定としてされるべきだが、それも強制はできない
- また、親も、もし子どもが「まどマギを見たい!」と言うのなら、それを止めるべきではない
- しかし親が、別に見たいとも言っていない子どもにわざわざまどマギを見せるべきではない
- ただし、親が本当にまどマギを素晴らしい物語と認めているのなら、見せれば良い
- しかし親が、別に見たいとも言っていない子どもにわざわざまどマギを見せるべきではない
それぞれの立ち位置について、簡単に説明を。
まどマギは「間違ったメッセージ」を正当化するものであり、僕はこのような物語を認める訳にはいかない
なぜ僕がまどマギを批判しているか。
まず勘違いがあるようなのでひとこと言っておきますが、僕はまどマギの残酷描写について、残酷描写があること自体を非難してはいません。残酷描写によってしか伝えられないことがあり、そしてそれを伝えたいと思うのなら、それはむしろ描くべきことです。但し、その「伝えたいこと」が間違っている、あるいは存在しないのならば、それは「間違った残酷描写」として非難されるべきです。
(残酷描写によって伝えたいものがなく、ただ残酷描写を客寄せに使っているという非難もありますが、それは僕の見解とは少し違うので、ここでは触れません。しかし重要な非難です)
では、残酷描写をつかってまどマギが示したかったものは何か?それは結局「他人のために流す犠牲はすばらしいが、自分の欲望のために頑張ることは醜い」ではなかったかと、僕は考えるわけです。これの根拠は、さやかの戦いがことさら醜く描かれていることと、最終回において、まどかの自己犠牲によって極めて簡単に世界が救われてしまっていることです。
そして、なぜその様に「他人のために流す犠牲はすばらしいが、自分の欲望のために頑張ることは醜い」ということになってしまうかというと、それは最終回の最後に示された「−忘れないで。いつも、どこかで、誰かがあなたの為に闘っている。彼女を想い続けていれば、あなたはひとりじゃない−」というメッセージにあるように、常に誰かに見張られている、その誰かによって恩を受けている。だからその恩を返さなくてはならないと思うからです。
しかし僕は、このようなメッセージはとても気持ち悪い、否定されるべきものじゃないかと考えるわけです。自分の存在が他者のためにのみ存在すると考えるなら、人は結局自分の幸せのために動くことは許されず、それこそ最終回のほむらのように、自分の幸せなんか全く考えずに魔獣退治に専念する、ブラック企業の社畜のような存在を生み出してしまうわけです。僕は、そんな生き方はしたくないし、他人にもそんな生き方はしてほしくない。「誰かがあなたの為に闘っている」として、それをいつまでもぐじぐじ忘れないで生きているから、その誰かさんも何時まで経っても闘いから逃げられないのであって、そんなのさっさと忘れてしまえば良い。そして「ひとり」で生きていく、その覚悟を身に付けるべきだと、そう考えるのです。
なお、ここで書いたことはだいぶ簡略化した説明です。僕がまどマギをなぜ批判するかきちんと知りたい、あるいはその批判に異議があるということを伝えたい人は、きちんと
- 天原誠氏の『まどか☆マギカ』最終話までの感想Tweet - Togetter
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を読んで、その上で批判してください。読めないなら黙っててください。
まどマギにかぎらず、作品に対する評価は、個人的なものから出発しながらも、議論を通じて、公共的なものへ向かう意思を持たなければならない
さて、このような僕のまどマギの批判的評価は、言われるまでもなく「個人的評価」です。当然反対の人だっています。というか反対する人のほうが多いでしょう。多くの人は「他人のために流す犠牲はすばらしいが、自分の欲望のために頑張ることは醜い」というメッセージにむしろ賛同するでしょうから。あるいは、まどマギにはそんなメッセージはなく、むしろ自分本位に生きることを伝えるものだと言う人もいるかも知れません。様々な反論が考えられます。ならば、その反論を提示して、議論をしましょうよ。
「個人的評価は個人的評価だから、議論をしたって平行線に終わるだけ」と思っているかもしれません。つまり、個々人に独立した全く異なる価値観があり、その価値観にもとづいて人は個人的評価を下すのだから、その個人的評価は決して他人と共有されないと。だから、作品について議論を戦わせるならば、個人的な価値観と、それに基づく個人的評価はわきにおいて議論をしなければならないと、そう思っている人が、twitterなどでは多く見られます。
しかしそれは違います。個人的価値観から発生しない議論なんてありません。全ての議論は、その始まりにおいては個人的なもの、「私はこう思う」から始まるんです。その上で、他人の「私はこう思う」を聞き、議論をしていくことにより、意見の共通点・相違点を見出していくんです。そしてそこで共通する意見を見出したり、あるいは「自分はこう思っていたけれど、他人の見方のほうが正しいかも知れない)と思うところがあることにより、個人的なものではない、公共的な見解が生まれてくるのです。個人の価値観に基づいた個人的評価を議論させるなんて無駄?実際は全く逆です。個人的評価からしか、実のある議論は生まれないのです。
そして、そういう個人的評価から公共的見解へ至る議論をしていくことが、実は民主主義社会にとっても、非常に重要なことなのです。なぜなら、民主主義を維持するためには、「人々は個々に差異があるが、しかし差異ばかりではなく、共通な価値観もある」と信じられることが重要で、あり、そして共通の価値観を人々が信じるということは、まさしく、まどマギのようなアニメ作品も含めた、文化の役割なのです。もし、人々が個人的価値観の中に閉じこもり、「他人と共有する価値観なんて無い。だから文化について議論を戦わせるのは無駄だ」と思うようになるならば、それはやがて、社会全体から共通の価値観を失わせ、民主主義社会自体の崩壊にもつながっていくのです。
もちろん、文化の役割は「民主主義社会を守ること」だけではありません。「人々を楽しませること」だって立派な役割です。ですから、両方やればいいんです。別に僕の文章を読んだからって、まどマギを楽しんで見ている人の多くは別にまどマギがつまらなくなったりしないでしょう?*1まどマギを一つのエンターテイメントとして楽しむことと、まどマギについて(個人的評価に基づく)議論を戦わせることは両立できるはずです。*2
年齢制限・レーティング規制をおくことには反対。
前節の話をきちんと読んだ人なら、なんで僕がこういう立ち位置を取るか分かるでしょう。僕はまどマギを批判し、そしてその意見に納得してもらいたいと思っていますが、それはあくまで議論を通じて達成したいことなのです。独裁者のように権力を使って自分の意見に無理やり賛同させたくはない。
ですから、まどマギを見たいと思っている人については、その見ることを無理やり規制を使って止めたりしたくはないんです。それは例え未成年であっても。もし、未成年がまどマギを見たいと言うのを、何かの法的規制といったものが妨げようとするのならば、僕はその規制に断固として反対の声を上げますし、多少非合法な手段を使ってでもまどマギを未成年が見られるような方策を講じたいとさえ思います。
宣伝における十分な説明は努力規定としてされるべきだが、それも強制はできない
ただ一方で、「見たくない人を騙してみせる」ということは、やはり当然ながら間違っているでしょう。この問題については、id:thir氏がきちんと論じており、僕もほぼ同意するので参照してください。
表現規制の問題ではなく、「宣伝手法」の妥当性が問われている−−『まどか☆マギカ』劇場版について - Thirのノート
しかしこれもあくまで「宣伝側が努力すべき」という話であって、法的にそうしなければならないという強制はできないでしょう。
また、親も、もし子どもが「まどマギを見たい!」と言うのなら、それを止めるべきではない
それでは、法的な規制はおいておくとして、個々人の親子はまどマギについてどう接するべきか。
まず、子どもがはっきりと「まどマギ見たい!」と言った場合、これは絶対に「見ていいよ」と言うべきです。出来ればチケット代も払ってやるべきです。例え親がまどマギについてあまり良い印象を持っておらず、僕みたいに批判的だったとしてもです。子どもはひとつの独立した人格なのですから。
そしてその上で、見てきた後に自分の見解を伝えれば良い。子どもはそれを聞いて納得するところもあれば違うと思うところもあるでしょう。そしたらそこから議論をしていけば良い。それが、民主主義社会における、理想的な親子というものだと、僕は考えます。
しかし親が、別に見たいとも言っていない子どもにわざわざまどマギを見せるべきではない
しかし今回問題になっているのは、そういうふうに子どもがはっきりと「これ見たい!」と言っているケースではありません。そうでなく別に子どもが「まどマギ見たい」とはっきり言っていないにもかかわらず、親が、親の選択によってまどマギを選んでいる場合です。
なぜかここがtwitterなどでの議論では混濁されていますが、「見せる」と「見ても良い」は全く異なります。twitterでは、「まどマギを見たいと言っている子どもにまどマギを見せるなとamamakoは言っている」という風なことを言っている人達がいますが、そんなこと言っていません。
親がわざわざ子どもに対し、映画を見せるということは、映画館で上映されているすべての作品を見せるということがない限り、「ある作品を見せる代わりに、ある作品を見せなくなる」という取捨選択なわけです。とするならば、当然そこでは内容に基づいて、ではどの映画を親が子どもに見せようと思うか、内容に基づいた議論が行われて当然なわけです。そして僕は最初に述べた理由により、まどマギは子どもに見せたい作品ではなく、まどマギを見せるぐらいだったら、別の映画を見せた方がいい*3と、主張しているのです。
最後に
まどマギの社会的責任についての問題提起 - Togetterのコメント欄において「子どもをダシにした非難」というような誹謗中傷がなされていますが、この記事を真摯に読んでいただければそうでないことがはっきりと分かるはずです。この記事をよんでもまだ「子どもをダシに~」云々言う人がいるのならば、その人は誠実に議論をする気がないんだなと思い、そのように対応します。