あままこのブログ

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こじらせVTuberオタクが読んだ『「推し」で心はみたされる?』

熊代亨(id:p-shirokuma)氏が書いた『「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド』という本を読みました。

これを読んだ直後、僕の心は2つに分かれてしまいました。一つは

  • 「そうなんだよなー。結局『推し活』を続けるには、社会性が重要なんだよな。みんながもっとこういう本を読んでくれれば、健康的で持続可能な『推し活』ができるのに」

という、「推しの健康を願う」VTuberオタクとしての自分と

  • 「いやでも、そうやって社会性を強いられる抑圧からの開放として、『推し活』は存在するんじゃないか?」

という、「こじらせ」VTuberオタクとしての自分です。

一体どういうことなのか。この本を僕がどう読んだか述べながら、説明していきます。

『「推し」で心はみたされる?』に書かれていること

この本の主張を一言で述べるなら「推しを持つことは、その推しとの関係が適切であれば、その人が気持ちよく生きる手助けとなる」ということです。

この本では、まず人が気持ちよく生きるためには

  • 承認欲求……自分自身が誰かに認められること
  • 所属欲求……自分がなにかに所属できていること

の両方がうまく満たされることが重要だと述べています。そして、推しを推すという行為は「所属欲求」に属するものであり、自分自身が認められる「承認欲求」と同じように、気持ちよく生きるのは重要だと主張しています。

その上で、「所属欲求」の満たし方にも上手い・下手があり、「適度な幻滅」を所属する対象=推しに対してした上で、それでも推しを推せるのが、うまい推し方であると述べているわけです。

オタク風の言葉を使って言い直すと、推しを全肯定したり、逆に全肯定しきれなくて反転アンチになるのは、推しの推し方としてはうまくなく、「推しのこの部分は好きだけど、この部分はちょっと苦手だな」ということを納得しながら、推しの推せる部分を推していくのが、うまい推し方である、ということです。

そして、そういう上手い推し方を学ぶためには、フィクションのキャラクターや、自分から遠いメディア上の人物だけでなく、自分の身の回りにある人間を推し、その推しとうまくコミュニケーションをとっていくことが重要だと述べているわけです。

ここで注意しておきたいのが、著者の熊代氏が、「推し」という概念を、フィクションのキャラクターやメディア上の人物に限定したものではなく、自分の身近な人物にも敷衍できるものとして述べていることです。そして、熊代氏は、むしろそういう身近な存在をきちんと推せることが、重要だと述べているわけです。

これに対して小島アジコid:orangestar2)氏は、書評記事
orangestar2.hatenadiary.com
の中で、「遠くの推しを推す感覚は『ハレのモノ』であり、自分の身近な推しを推す『ケのモノ』とは性質が異なるのではないか」と疑義を呈しています。

ただ、ここで僕の考えを述べると、自分の身近にある『ケのモノ』を推せていて、その延長線上で、メディア上の『ハレのモノ』を推している人は、推している自分と推されている対象双方に良い影響を与える、上手い推し方をしているなと思えるのに対し、自分の身近にある『ケのモノ』を推せず、その代償としてメディア上の『ハレのモノ』を推している人は、自分と対象双方に対し、過剰な負荷をかけるような、あまりうまくない推し方をしているように、(VTuber周りの推し活を観察していると)思えるわけです。

その点で、僕はメディア上の存在に対する推しと、自分の身近な存在への推しの間には関係があるとする、熊代氏の説明に同意します。

そして熊代氏は、自分の身近な存在をうまく推すためには、オタクたちの間では軽視されがちな

  • あいさつをする
  • TPOに合わせたファッションをする
  • 風呂に入るなどして清潔を保つ

といった、「社会性」を身につけることが、実は重要であると述べているわけです。

「適度な幻滅」は確かに重要

で、最初に述べておくと、熊代氏がこの本で述べていることの大部分は、現代を生きて、ある程度「推し活」に関わってきた人間なら、身につけている暗黙知だと思うわけです。

「適度な幻滅」という概念なんかはまさにそうです。よくVTuberオタクの界隈では「全肯定オタクにならないようにしよう」ということが言われます。「一体なぜ?推しのことを全肯定できるならそれが一番幸せじゃん?」と思うかもしれませんが、しかし実際は推しと自分は別個体である以上、自分と推しに重ならない部分は出てくるわけで、しかしそこで全肯定オタクは「推しのすることは全て肯定しなければならない」と思い、自分に合わない、苦手とする活動を無理して推して疲弊してしまうわけです。

そして更にいうと、そうやって全肯定オタクであり続けようとして疲弊していくと、いつか我慢の限界を迎え「僕の嫌いなことばっかりする推しは嫌い!」というふうになってしまうわけです。こういう状態は、VTuber界隈では「反転アンチ」と呼ばれるわけです。
www.weblio.jp

上記のようなことを避けるために、VTuber界隈では「推しを全肯定しようとするのではなく、合わない部分はスルーするようにしよう」ということがファンの間で経験則として言われているし、推しの対象となるVTuber自身も「自分の配信を全部見ようとしなくていいからね。」ということを言います。収入面から言えば、全配信視聴してもらったほうが多く収入が入るわけですが、にも関わらずVTuberがそう注意喚起するのは、まさしく「適度な幻滅」をしてくれない全肯定オタクが、中長期的には自分の配信活動に良くない影響を与えると、知っているからなわけです。

身近な人とのコミュニケーションで「社会性」を学ばなかった人は確かに厄介

また、VTuber界隈の場合、フィクション上のキャラクターや、マスメディア上で活動する人物に対する推し活と違い、推しと双方向コミュニケーションをある程度とることができるわけですが、そういう界隈にいると、たしかに「身近な存在との間できちんとコミュニケーションを取ってきていない人は、厄介だな」と思うことが多くあるわけです。

例えばVTuber界隈であまり好かれないものの一つに「長文赤スパ」というものがあります。VTuberが活動するYouTubeでは「スーパーチャット」という、お金を配信者に払うことにより、目立つコメントをする機能があって、そしてそのコメントに書ける文の長さは、払ったお金に比例するわけです。で、1万円以上を払うと、かなり長文コメントができるわけです。
しかし実際は、そうやって1万円以上のお金を払うことにより長文コメントをすることは、VTuber界隈ではあまり好かれません。なぜなら、それこそ配信者は配信を行いながらマルチタスクでコメントも閲覧しているわけで、長文でコメントをされれば、それを読むのにかなり労力が削がれるわけですね。さらに言えば、そういう長文赤スパには往々にして「自分の身の上語り」であったり「メンタルヘルスに異常をきたしていること」といった、配信者が反応に困ることが書かれていて、それに対してVTuberが反応に困惑することを、VTuberオタクは幾度も目にしているから、あまり長文赤スパというものに良い印象を抱かないわけです。

そして、VTuberオタクとして本音を言うならば、こういう「他の作業をしている人にいきなり長文で語りかけない」ぐらいの常識は、子どもの頃に周りときちんとコミュニケーションを取って学んでほしいわけです。他にもVTuber界隈には「指示厨」「匂わせコメ」「伝書鳩」など、悪癖とされる行為が多々あるわけですが、これらも、子どものころに周りとコミュニケーションを取って、他人の心をおもんばかるコミュニケーションスキルを身に着けたなら、そもそもやらないよねというものばかりなわけです。

というわけで、推しにあまり負担をかけず、楽しく健康に活動してほしいという願いを持つVTuberオタクとしては、熊代氏の言う「遠くの推しを押す前に、まずは自分の身近な存在とコミュニケーションを取って『社会性』を身に着けなさい」という主張は、まさに正論!と、思わざるを得ないわけです。

「自我を持つな」が推し活の正解なのか?

しかし、そういう正論を突き詰めた先に一体何があるかといえば、それは結局「自我を持つな」ということになるわけです。

「自我を持つな」という言葉は、あるVTuberが、自分のリスナーに対して述べた言葉です。ここで言う「自我」とはつまり、上記で挙げたような社会性からはみ出す、自分の我であり、そういう自我を押し通すことは、自分の配信では許さないということなわけです。

だけど、ここで僕は思うわけです。「でもそうやって『社会性』を強いられるリアルの空気が苦しかったからこそ、僕たちはVTuberの世界に『リアルから逃げられる遊び場』を求めたんじゃないの?」と。

超てんちゃんという憧れ

ここである、VTuber界隈で大流行したゲームを紹介します。『NEEDY GIRL OVERDOSE』というゲームです。
whysoserious.jp
このゲームは、「あめちゃん」というキャラクターが「超てんちゃん」として配信活動をするのをプロデュースするゲームで、一時期は、YouTubeを開けばどの時間帯でも誰かしらVTuberがこのゲームの配信をやっているというぐらい、流行りました。
note.com
そして僕も、このゲームのにはドはまりしました。なぜか?それはおそらく、このゲームに、僕がVTuberの配信活動にのめり込んだ原初的な動機が隠されていたからだと思うんですね。

このゲームにおいて「超てんちゃん」は、今まで述べてきたような「健康的で持続可能な推し活」とは正反対の、不健康で刹那的な配信活動を行います。承認欲求を暴走させながら配信活動にいそしむ超てんちゃんと、それに乗じて、クソコメをバンバンぶつけて配信者を疲弊させるリスナー。もし実際にこういう配信者がいたとしたら、少なくとも自分の推しには絶対近づいてほしくありません。

ですが、そんな超てんちゃんに、僕や多くのVTuberは虜になってしまったわけです。彼女は社会性なんかに縛られません。ゲーム内で彼女はこう言います。

わたしこの解釈は好きだな 「こだわり」のために社会性を犠牲にする……不器用な生き方もアリだよ

どうせ社会性なんてゼロなんだから細かいこと気にせず、好きな物のために生きようや

超てんちゃんは社会性がないみんなのことが
可愛くて仕方ないから、どんどん堕落していこうや

いいんだよ、社会は社会性があるやつだけがあればさ
わたしたちは、どうせ虚構に溺れるアホアホなんだから
好きなだけ幻を見て浸っていた方が幸せなんだよ

そして、そんな破滅に向かって行く超てんちゃんをなんとか抑えながら、ストレスを与えることも、病ませることもなく、配信者を増加させていっても、このゲームはハッピーエンドを迎えません。むしろ、こんなことを言われてしまうわけです。

一般的な幸せが、本当に彼女の望むものであったでしょうか?

社会性を身に着けて自我を持たず「健康的で持続可能な推し活」をしていけば、確かに僕らは一般的な幸せを手に入れれば、たしかに一般的な幸せは得られるかもしれない。

けれで、それが本当に僕らの望むものだったのか?

ハッピー社不としてのVTuber

あるVTuberが自分たちが所属するグループのことを指して「ハッピー社不」といったことがあります。
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社不とは「社会不適合者」を指すネットスラングなわけですが、実際僕が好きなVTuberの多くは、自分の社会性のなさを告白し、それを開き直っているわけです。

例えば、熊代氏は社会性の例として「風呂に入る」ことを挙げていますが、VTuberには風呂が嫌いな人が多くいて、風呂嫌いな人を集めてコラボが開かれることがあります。
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僕は、VTuber界隈に接してそれを知ったとき「そういうことを公にして良いんだ」と驚きました。ですが、そうやって「社会では絶対否定的に扱われること」も告白できるし、そのことを自らの売りにすらしていける、その自由な空気に、僕はどんどん惹かれて言ったわけです。

他にも、自分が愛する対象に依存してしまう「メンヘラ」であることを告白したり
www.youtube.com
自分が以前、自分の好きな対象が異性と触れ合うことを嫌がる「ユニコーン」であったことを告白したりと
www.youtube.com
VTuber界隈で配信者をするなら、「社会性がないこと」「社会性がなかったこと」はむしろ強みとなったりするわけです。

社不が最低限の社会性を身につける装置としての「コラボ」「グループ」

ただ、一方で僕がVTuberの配信を見ていて思うのは、配信活動を破綻なく続けられるVTuberの多くは、社会性がない最初の状態から、しかしだんだんグループ活動やコラボによって、社会性を身に着けていっているなということです。

逆に言うと、そこで社会性を身に着けられなかった人は、最初瞬間風速的にバズっても、やがてメンタルヘルスを悪化させたり、炎上に至ったりして活動をやめていってしまうわけです。

僕は、「にじさんじ」というVTuberグループが好きなんですが、なぜこのグループが好きかというと、上記で述べたような「社会性のなさ」を受け止める懐の広さがありつつ、しかし一方でそういう社会性のないVTuberに、集団で活動することで最低限の社会性を馴致させる、そういう効果があると思うからです。以前、僕はそれを「にじさんじには『ナナメの関係』がある」という言葉で、記事にしたことがあります。
note.com

(もちろん、そこで馴致できなかったケースとして、色々にじさんじにも炎上案件があることは知っていますが)

推しに社会性を身に着けてほしいが、そのことを裏切りと感じるのも理解できる

そして、このようにVTuber自身が最低限の社会性を身につけることは、推しを推す方としても安心なわけです。なぜなら、推しを推す側にとっては、推しが健康的に楽しく配信をし続けてくれることが一番だから。社会性がないことで消耗して活動をやめてしまうよりは、社会性を身に着けて、消耗することなく活動を続けてくれる方がいい。

しかし、そうやって最初は社会性のなさを売りにしておきながら、売れていくに連れ社会性を身に着けていくことに対し、「最初俺たちの仲間ヅラしてたのに、売れたら俺たちのことは置いて行ってどっか行っちゃうのかよ」という不満も出るだろうということも十分理解できるわけです。

ですが一方で、そういう声に惑わされて、自分の推しが「そうだよね。社会性を身につけるなんて君たちへの裏切りだよね」と社会性を身に着けず消耗していくとしたら、それは受け入れがたい。

この2つの気持ちが二律背反しながら併存しているのです。

僕らを傷つけ、不正義を内包しながら、しかし僕らを守ってくれる「社会」なるものについて

そしてこの二律背反する気持ちが、まさしく『「推し」で心はみたされる?』を読了した僕の心のなかにもあるわけです。

他の「推し活」界隈のことは知りませんが、少なくとも僕の知るVTuberの推し活界隈は「社会性のない人達が刹那的に吹き溜まるアジール」という陰の領域と「社会性を身に着けた人たちがキラキラ輝き、それを健康な人間が持続可能な形で推すマーケット」という陽の領域の、ちょうどあわいに位置するような界隈です。そして、そんな界隈から見ると、『「推し」で心はみたされる?』は、推し活は陰を断ち切り陽の方向に向かわなきゃならないとアジテーションする本として読めるわけです。

そのようなアジテーションに対し、僕はどう応答するか。若く尖っていた頃の僕なら「そんな陽の世界なんてクソ喰らえだ!社会から背を向けて刹那的に遊び尽くして、炎上して燃え尽きるだけよ」と啖呵を切ることができたかもしれません。

ですが、実際に推しを多く抱えるようになると、むしろ「この日常を大事にして、安全安心に推し活を続けていきたい」という思いのほうが強くなるわけです。そして、そのためのハウトゥーとして、『「推し」で心はみたされる?』を認めなくてはならないのではと、思うわけです。

しかしそうやって『「推し」で心はみたされる?』をハウトゥーとして社会性を身につけることを奨励することにより、失うこともまたあるわけです。

「失うものって何さ?お風呂に入ったり、TPOに合わせたファッションをしたりすることで、失われるものなんてないでしょ」と思うかもしれませんが、それによって傷つけられる自我はあるということが、まさしく上記の配信で述べられていることなのです。

さらに言えば、現行の社会を肯定することによって生まれている「社会性」とは、当然現在の社会に存在する差別も内包しています。例えば以前「化学」という漢字を「ばけがく」と呼んだVTuberが、「それの読み方はかがくだよ」と、コメント欄で馬鹿にされるという事件がありました。
sirabee.com
これなんかはまさに「若い女性の見た目をしているものの学力は低く見積もって良い」という、性差別に由来する事件なわけですが、しかし「社会性」を身に着けているならば、このようなマンスプレイニングも否定しないことが、求められるわけです。

このようなことを考えると、「社会性は大事」という主張は、現行の社会秩序をただ肯定するメッセージにほかならないとも言えるわけです。

しかし逆に言えば、そうやって現行の社会秩序を、そこに内包される差別さえ含めて認めるならば、わたしたちは健康で持続可能に生きていくことができる。

そこで幸せに生きる人達を無視して「こんな不正義な社会壊してしまえ!」と革命を起こして*1、一体誰が幸せになるのか?

そんな風に、議論を飛躍させながら、今日も僕は悩んでいるわけです。

一体どういう結論だ。

*1:フェミニストキズナアイ」騒動とはまさにそういう革命だった