あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

素朴なフクシマ・ナショナリズムについて

最初に、僕の処理水についての考えは「特に気にしない」ではあるということを明記しておく。放射能汚染についても、別に子どもを作る予定もないし、自分の健康にそんな注意をはらってもいないので、気にはしていない。
しかし逆に、別に特段「福島を応援しよう!」とか「日本の水産業を応援しよう!」という気も無い。農産物・水産物を買うかどうかは、これまで通り「安くておいしいものを買う」であり、そこに「震災復興のため」とか「愛国のため」とかいう気持ちはほぼない。福島産や日本産の需要が減って価格が安くなるなら、その分消費者は安く買えてお得であり、神の見えざる手で需給調整ができるなら結構なことじゃんとすら、思ったりする。

ただ、世の中はそう冷酷にものを考えられない人も多いみたいで、そういう人はどうやら怒っているらしい。「福島の人や日本の漁師さんたちはあんなに困難にも負けず頑張ってるのに、中国とかはひどい!」と。

まあ、そういう義憤を持つこと自体も、僕は否定しない。要するにそういう人たちにとっては福島や日本の水産業が「推し」であり、推しを困らせる敵は許せないということなのだろう。

しかし、そういう素朴な推しを思う感情、「素朴なフクシマ・ナショナリズム」も、処理水を忌避する人たちからしたら、「母なる海」や「我が身や、子どもの健康」という、自らの推しを害する敵として見られることは、自覚しておいた方が良いだろうなと思う。

向こう側の言い分からしたら、勝手に海の近くの原発で事故を起こし、放射能を垂れ流し始めたのはそっちではないかと。別にこっちに何の非もないのになんで被爆を受忍しなきゃならないのという気持ちだろう。

そして更に言えば、いろいろな場所で取れる水産物の内、どこで取れるものを買うかも、完全に消費者であるこちら側に決める権利があることで、日本に文句を言われる筋合いはないと、そういう話になる。

もちろん、そういった批判に対してこちらから反論するのも可能だ。放射能云々言うのなら、そっちが核実験やらで垂れ流した放射能はどうなんだとか。

ただ、おそらくそういった言い争いをやっても議論は平行線だろう。

要するに、双方自分の「推し」を愛するという、プリミティブな感情に基づいて自らの主張をしているのであって、それ故に妥協は出来ないし、相手への憎しみも抑えられなくなる。それはきっと、止めようとしても止まらないのだろう。

ただせめて、自分が、自分の愛するものを守るため、相手を否定するのと同じように、相手も、相手にとっての愛する者を守るために、否定しようとしてきていることは、自覚しておいた方が、良いと思う。