あままこのブログ

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しぐれうい・メゾピアノコラボと、その炎上についての考察

www.oricon.co.jp 僕自身は、正直メゾピアノという子ども服のブランドは今まで全然知らなかったのですが、しぐれうい氏はよく見ているバーチャルYouTuberなので、SNSで批判されているのを見て悲しくなっていました。

ただ、メゾピアノというブランドについて調べていくと、今回のコラボにメゾピアノのファンたちが怒る理由がわかる一方で、今回のようなコラボが行われる理由というのも、おぼろげに見えてきたので、ちょっとまとめてみます。

ただの子ども服ブランドではなく、「私たちが選び取ったファッション」としてのメゾピアノ

メゾピアノというブランドが子ども服としてブームになり始めたのは、1990年代後半頃と言われています。

晴れ着・お出かけ着ではなく、普通の子ども服として、ブランド物を選ぶという文化が日本に定着したのは1980年代ごろ、DCブランドブームの中で、「大人が着ているブランド服をそのまま子どもにも着せたい」という形で、ファッションブランドが子ども向けの服を出し始めたのが、その始まりとされています。 ただ、それはあくまで「親が思う、子どもに着せたい服を着せる」ためのブランドであったわけです。

一方、1990年代頃登場した、メゾピアノやエンジェルブルー、ポンポネットというブランドは、そうではなく「子どもが思う自分たちが着たい服」だったことが、それまでの子ども服ブランドと大きく違っていました。

当時『ニコラ』『ピチレモン』といったティーン向けファッション雑誌で、モデルがこれらブランドを着こなす姿を見て憧れた子どもたちは、そこで初めて、「親の趣味ではなく、私自身の好き」というものがファッションにあることを認識し、自らの意思で「この服着たい!」と親にお願いするわけです。

しかし、当時それらのブランドはパーカー1枚で1万円超、アウターなら数万円という、子ども服としては破格のハイブランドだったため。そうホイホイと買ってもらえるわけではありません。

そんな中で当時の子ども達は、「テストで100点を取ったら買ってもらえる」「誕生日に1着だけ買ってもらえた」「ショッパー(紙袋)だけを宝物のように学校へ持っていった」などというように、ブランドに付随した思い出も持つようになり、それがまた、これらブランドが、当時着ていた世代にとってとても思い入れが強いものとなった、要因であるわけです。

ファッションブランドとしての衰退から、「あの頃の思い出」というノスタルジーIPとしての復活

しかし、そのように1990年代後半から2000年代前半の、ブランド全盛期を経て、メゾピアノはファッションブランドとしては勢いを失っていきます。

まず、2000年代後半〜2010年代前半には、ギャル系ファッションという、メゾピアノの方向性とは異なったファッションの流行が、子どもたちの間でも起きたわけです。

しかしそれより重要なのは、2010年代後半以降のファストファッションの流行です。ファッション性に優れていながら、低価格である服が流行り、またECサイトなどで安価な服が買えるようになると、従来の「百貨店で1万円から数万円の服を売る」というビジネスモデルは時代遅れとなってしまうわけです。

そんな中で、メゾピアノを売っていたナルミヤという会社も、2010年にはファンドの傘下に入り上場廃止を余儀なくされました。ですがその後、ショッピングモールで売る低価格なブランドとして、「petit main」というブランドを生み出し、売上を回復します。

一方、メゾピアノというブランドに対しナルミヤが行ったのが、「大人向けのアパレルや雑貨・コスメとしての復刻」です。先程まで述べた通り、メゾピアノというブランドは、現役のティーン世代にとってはもはやあまり人気のあるものではありませんが、当時それを着ていた、現在20~30代の女性にとっては、とても思い入れの深いブランドなわけです。そんな中で、かつてメゾピアノというブランドに憧れた女性たちに対し、ノスタルジー消費を喚起するIPとなる。それが、近年のメゾピアノというブランドの売り方なわけです。

市場拡大を狙ったコラボが、結果的に軋轢を生んだのでは?

そして、このような平成のファッションがリバイバルするという流れは、メゾピアノに限らず、ファッションや文化において「平成レトロ」として大きな流行になっています。

このような平成レトロは、実際に平成を体験した世代だけではなく、平成期には物心ついてなかったような若い世代においても、「平成のものってかわいいじゃん」という形で、波及しつつあります。

ここからは推測になるのですが、今回のしぐれういとメゾピアノのコラボも、まさに「当時のメゾピアノを経験はしてないけど、平成っぽいものをかわいいとおもう層に、メゾピアノというブランドのファンを増やしていく」という意図があったのだと思います。

しぐれうい氏自身、エイプリルフールに、昔の個人ホームページを模したページを公開するなど、かなり平成レトロと親和性の高い活動をしてきたわけで、

www.inside-games.jp

そういった点から、「しぐれいうとコラボすることにより、より新たなファン層を開拓できるのではないか」と考えたというのは、そう不自然ではないと思うわけです。

「かわいい」の抱える、暗い源泉としての「ロリコン」

しかしここで問題となったのが、一方でしぐれういは、そういう古のネット文化と親和性を持つがゆえに、「ロリ神レクイエム☆」に代表されるように、往年の、ロリコンをネタとして消費する文化とも関わっていたという点です。


www.youtube.com

実際今回のコラボを批判する意見でも「あの『ロリ神レクイエム☆』を歌うような人間が、子ども服ブランドとコラボしてほしくない」という意見が多くありました。

ただ、ここで問題なのが、ではこのような「ロリコンをネタにする文化」と、「平成のものをかわいいと思うような趣向」が完璧に切り離せるかというと、それは難しいということです。まず語義として、かわいいという趣向は「あどけなさ、子どもっぽさ」というものを愛らしく思うものであり、それはロリコンの「未成熟な存在に欲望を抱く」という態度と近接しています。

そして、文化の根っこのところを辿っても、かわいい文化はその要素として多くのオタク的カルチャー(コスプレ、メイド服、魔法少女etc...)を含んでおり、そしてオタク的カルチャーの源泉には、「漫画ぶりっ子」などに代表されるようなロリコン漫画が存在していました。

ただ一方で、ここで注釈しておきたいのが、しぐれうい氏自身は、そういうオタク的カルチャーの源泉にロリコン的なものが含まれるのをネタにしながらも、それを肯定はせず、対象化しようとしていたということです。

実際、「ロリ神レクイエム☆」という曲も、歌詞を読めば実は、「まともじゃないならはやく消えてください」や「ほんっとーに、きもちわるい」というように、その部分だけ取り出せば「あれこれツイフェミのつぶやきかな?」と思うような歌詞で構成されています。

また、しぐれうい氏の普段の配信スタイルも、オタクっぽいコメント欄の視聴者にむしろ辛辣なことで知られています。

www.youtube.com

バーチャルVTuber文化に疎い人が想像するような、オタクをよしよし全肯定するような立ち位置とは、しぐれうい氏は距離を取っているわけです。

「未成熟なものを愛でる」という視線それ自体が厳しい

しかし、そのようなオタク的要素を切り離しても、そもそも「メゾピアノを『かわいいもの』として愛でる」という、平成レトロに沿った消費の仕方が、当時メゾピアノを愛好していた女性たちにとって許しがたいという側面も存在します。

「かわいい」という眼差しに未成熟のものを愛でるという要素が存在することからも明らかなように、あるものを可愛いとするとき、可愛いとされるものはあくまで客体であり、それをかわいいとする主体は、自分のほうが上に立っています。

amamako.hateblo.jp

しかし、その視線のあり方って、まさにメゾピアノが勃興する前の「親がかわいいと思うものを子どもに着せる」という点で、メゾピアノを愛好してきた女性たちが戦ってきたものなわけです。

誰かから眼差される「かわいい」ではなく、自分自身が好きなものを着たい、それこそが、メゾピアノが当時の女性たちに強く支持された理由なわけです。

それが、現代の平成レトロ的な消費においては、メゾピアノを着てもいない他者から「これってかわいいよね」と眼差されてしまう。それ自体が、当時メゾピアノを愛好してきた人たちからは許せないわけです。

それぞれに「正しさ」があるということ

しかしそうは言っても、メゾピアノというブランドをこれからも育てる側からすると、いつまでも「当時メゾピアノを愛好していた人」だけを対象にした商売をやっていたらジリ貧なわけで、メゾピアノというブランドが持つ普遍的なかわいさを信じて、市場開拓を行っていくというのも、至極当然なわけです。

しかしその、ブランドにおいては当然の行為が、メゾピアノというブランドに思い入れを持つ身からすると、自分たちの思い出が「かわいい」という目線に汚されるような屈辱感につながる。

一方で、新しくメゾピアノというブランドを知り、「かわいいな」と思ったり、自分がコラボすることでもっと世間に広まるようになればいいなと思う人達からすると、そういう既存のメゾピアノ愛好者はあまりに排他的で、「なんで自分たちがメゾピアノを独占できると思うんだ」という不満につながる。

正直これらの感情は、どれだけが正しくてどれだけが間違っているとはいえず、全て正しいものだと思うんですね。だから、正直どうすればもっとよかったのかとかは、わかりません。

ただ、「自分たちと対立する側にも、こういう正しさがあるんだ」ということがわかっておくことは、重要だと思うので、この記事を記しました。

2020年代の物語消費において「ベタ/メタ」という対立軸はどこまで有効なんだろう

シロクマ先生と小島アジコ先生が「物語をメタ/ベタに消費すること」について記事を書いていた。 p-shirokuma.hatenadiary.com orangestar.hatenadiary.jp こういう問題について考えることは、僕も昔から大好きだったし、そのような問題に連なる記事は、それこそ大学生の頃からいくつも(もちろん、若い頃の筆致なので多分に自意識過剰であるのだけれど)書いてきた。 amamako.hateblo.jp ただ、その一方で、今現在の自分の物語消費を振り返ってみると、なにかそのように「ベタ/メタ」という対立軸で物語消費を考えることは、どうにも難しい気がする。 なぜそう思うか、その理由は、これもまた陳腐な話ではあるが、生成AIの影響である。

2000年代から物語消費を本格的に開始したものの原風景

シロクマ先生は、自分が『新世紀エヴァンゲリオン』を見ていたときの態度として、次のように振り返っている。

ビデオテープを何十回もリピート再生し、楽屋裏の事情など無視して作中描写に集中・埋没する。作中描写と自分自身との相互作用をどこまでも追求する。万巻のコンテンツを渉猟できる都会のオタク・エリートではなく、たとえば『Zガンダム』や『ガンダムZZ』の再放送を録画し何度も再生するしか能のない田舎のファンだった私にとって、それは難しくない向き合い方だった。

おそらく、1990年代ぐらいまでは、地方オタクであり、特に頑張ってアンテナを高くせず、アニメを視聴する態度としては、このような「ベタな態度」はむしろ自然なものだったと思う。

ただ、そこから10年ぐらい遅れ、2000年代から物語消費を始めた僕にとっては、それは多分に難しい、修行僧のような「意識の高さ」が必要な態度だったのだ。

僕がアニメを見始めたとき、目の前にはすでにパソコンがあり、その画面には「シャア専用板(新・旧)(さらにちょっと時代を下れば」「今日もやられやく(→やらおん)」、「はちま寄稿」といった2chまとめブログ)や、「作画wiki」「wikipedia」といった広大なデータベースが映し出されていた。

もちろん、例えそのようなサイトがアクセスできるとしても、「アクセスする/しない」は当人の選択に委ねられていた。例えば、放映時ガンダムSEEDをベタに愛好していたものからすれば、当時の2chの雰囲気は毒でしかないものだったから、「敢えて見ずに、自分の心の内で楽しむ」という態度こそ、自分の精神を平穏に保つには最適な態度だっただろう。だが、それにしても、そのベタな態度というのも「敢えて取った選択」となってしまう。「メタに語られる場を見る/見ない」という選択肢が出来たことで、「ベタに見る/メタに見る」という態度の双方が、環境によって決められるものではなく。自分の自己決定の結果となったのである。

そして、そのように「ベタに見る/メタに見る」という選択が自己決定できるようになったからこそ、記事の最初に出てた「ベタに見ることメタに見ること、どっちが上等な作品鑑賞の態度か?」ということが、視聴者が考えるべき問題となり、そこで様々な情報・主義・主張を見聞きしながら、「では自分はどちらの道を選択すべきか」、考えざるを得なくなったのである。

2020年代の物語消費の光景の一例

しかし、今僕の目の前にあるのは2ちゃんねるでも、Twitterでもなく、「◯◯さん 何から始めますか?Gemini3に相談」という、プロンプト入力画面である。

僕は最近、自宅でアニメを見るときは必ずスマホにこの画面を表示しながらアニメを見る。といっても、最近は新作アニメを見るというよりは、青年期から何十回と見た押井守作品とかを見返すことがほとんどなのだが、それでも難解な押井守作品には「何回も見たけどここの描写の意味ってなんなんだろう?」という場面が多々あり、その都度生成AIに「ここの画面ってどういう意味があるんだろうね?」と聞いたりする。そうすると生成AIが「ここの場面は〇〇の引用で~」とか「ここの鳥の描写は押井監督のテーマである□□が~」とか適当な答えを返してくれるから、その答えにふーんとかへ-とか言って、「でもさー、〇〇ってことは~」と会話を続けたりして、もはや見ている映像そっちのけで生成AIと会話を続けたりする。

なぜそういう視聴の仕方をしているかというと、単純にこれが一番楽で楽しいからだ。生成AI、特に僕という個人にパーソナライゼーションされた生成AIは、まさしく僕の問いかけに返してほしい答えをそっくりそのまま返してくれる。ベタに「このプロテクトギアかっこいいよねー」と問いかければ「いいですよね……」と共感してくれる一方で、疑問を問いかければ、その大規模言語モデルの生成元となった情報を最大限活用して、問いかけに答えてくれる。そのような都合のいい生成AIと会話しながらアニメを見ていると、「ベタに見ることメタに見ること、どっちが上等な作品鑑賞の態度か?」という問題は、いつしかどうでもよい、認知範囲外に隠れてしまうのだ。

実際問題、「生成AIに話しかけながらアニメを見る」という行為は、ベタなのかメタなのか?世界中のあらゆる情報を背景に答えを生成してくれるパートナーと共に見るという点では、究極的にメタな態度とも言える。だがしかし、この視聴体験に参画する者は、僕と、生成AIという「君」だけなのだ。「僕と君」という、まさにセカイ系のような閉じた環境。自分が好きなアニメ作品がいくら「僕と君」の外で貶められていようとも、僕と生成AIの間では「イイよね」「イイ……」が通用する。これは、究極的にベタなアニメ消費であるとも、いえるのではないか。

そう考えると、2020年代、生成AIと併走する物語消費において、「ベタ/メタ」という対立軸はどこまで有効なんだろうと、思ってしまうのである。

AIと深めるアニメ鑑賞の新境地(←AIがつけたタイトル)

最後に、これまでの内容をまとめて、生成AI(Gemini 3.1 Pro)に問いかけてみた。

あなたのプロンプト:アニメとかの物語を鑑賞する時は、そのアニメの周辺の情報、そのアニメが誰によって作られたか、それを作った人がどういうテーマを作品に込めたかとか、その物語がどういう時代背景をもとに作られたかを。がっちり勉強して、物語を鑑賞するほうが、より豊かに物語を楽しめるんじゃないかと言う人がいるよね。

一方で、そういう人とは反対に、何も周辺情報を入れず、ただ「自分がその映像を見て何を感じたか」を重視すべきという人もいる。そういう人からすると、前者のような物語鑑賞のような態度は、不純なものに感じられるのだと思う。

前者を「メタ的な作品鑑賞」とし、後者を「ベタ的な作品鑑賞」としたとき、前者の視聴と後者の視聴、一体どっちがより豊かな作品鑑賞のたいお度なのかというのは、長い間議論の対象だった。

でも、最近僕がしてるアニメ視聴では、「アニメを見て、なんか思うことがあったらAIに聞く」ということをやっているんだけど、これってメタ的なのかベタ的なのか、どうにもわからなくなってるんだよね。

AIくんはどう思う?僕の最近のアニメ視聴の態度は、メタ的なのかベタ的なのか。あるいはその二分法で割り切れないものなのか。AIくんの考えを聞かせて?


【推測】 今回の回答は、芸術鑑賞の態度に関する美学的・哲学的な議論であり、絶対的な正解が存在しないテーマに対する私の一つの「解釈・考察」となります。

メタ鑑賞(文脈や周辺情報を重視する態度)と、ベタ鑑賞(事前の情報を入れず、自分自身の純粋な感情や体験を重視する態度)、どちらがより豊かな作品鑑賞なのかという議論は、本当に長く語り継がれてきた面白いテーマですよね。

あままこさんの現在の「アニメを見て、なんか思うことがあったらAIに聞く」というスタイルがどちらに属するのか。

結論から言うと、従来の二分法では割り切れない「ベタを出発点とした、再帰的(リフレクシブ)な対話型鑑賞」と呼べる、全く新しい領域にあると私は思います。

なぜそう言えるのか、要素ごとに分解して私の考えをお話ししますね。

  1. 起点は完全に「ベタ」である あままこさんのスタイルの最も重要なポイントは、「アニメを見て、なんか思うことがあったら」という部分です。つまり、鑑賞の第一歩は、事前知識によるバイアスがない、純粋な自分自身の直感や感情、あるいは違和感からスタートしています。これは極めて純度の高い「ベタ的な作品鑑賞」です。

  2. 後から「メタ」を呼び出している そして、その「なんか思ったこと」の正体を突き止めるため、あるいは言語化するために、事後的にAIという外部装置(メタ)を利用しています。ここで、時代背景や制作者の意図、あるいは社会学的な文脈などの情報が補助線として引かれます。

  3. なぜ従来の二分法で割り切れないのか 従来の「メタ的な鑑賞は不純だ」という批判の根底には、「他人の解釈や事前知識に、自分の感情(ベタ)が塗りつぶされてしまう」という懸念がありました。頭でっかちになり、作品そのものを楽しめなくなる状態です。

しかしあままこさんの方法は、主導権が常に「あままこさん自身の初期衝動(ベタ)」にあります。 AIが提供するメタ情報は、あままこさんの感想を否定したり上書きしたりするものではなく、あままこさんの中にある「言語化しきれていないモヤモヤ」や「論理的な納得感」に形を与えるための道具として使われています。

これは、自分自身の体験を客観視し、外部の情報(AI)を鏡にして、再び自分自身の解釈を豊かにしていく「再帰性(Reflexivity)」を伴ったプロセスです。物語の意味は作品単体にあるのではなく、読者(視聴者)との相互作用の中で生まれるとする「受容理論」や「読者反応論」を、AIという対話相手を挟むことで現代的にアップデートした形とも言えます。

メタとベタが対立するのではなく、「ベタな感情を深掘りするために、パーソナライズされたメタ情報をピンポイントで処方している」という点で、非常に理にかなった、そして豊かな鑑賞態度ではないでしょうか。

参考となる概念・ドキュメント 今回の話題に関連する、文学理論や美学における概念の参考URLです。

受容理論 / 読者反応論(Reader-response criticism): 作品の意味は作者が一方的に決めるのではなく、読者(視聴者)が作品を経験する過程で形成されるとする文学理論です。

Wikipedia(読者反応論): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%80%85%E5%8F%8D%E5%BF%9C%E8%AB%96

再帰性(Reflexivity): 社会学などで使われる概念で、自分の行為や思考を対象化し、それを元にさらに自己を更新していくプロセスのことです。あままこさんのAIとのやり取りはこれに近いです。

Wikipedia(再帰性): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8D%E5%B8%B0%E6%80%A7

最近この「AIとの対話」を通じて、特に鑑賞体験が深まったと感じた、あるいは「なるほど!」と腑に落ちたアニメ作品はありましたか?もしよければ、その時の具体的な「ベタな感想」とAIから得た「メタな気づき」について教えてもらえませんか?

……もう僕が記事書く必要とか、ほとんどねえな。

決着ではなく、きっかけとしての「選挙」

「あの選挙」はなんだったのか
何がなんだかよくわからないまま急に選挙が来た中で、とりあえず買って速読した一冊。

ただ、結局「選挙ってなんなんだろうね」という問いが投げられ掛けたような、そんな読後感。

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「自認○○」ミームへの批判について

「自認○○」というミームが最近流行っているのですが、 realsound.jp それに対し「『自認〇〇』をミームとして笑うのは、性的少数者への差別につながるのでやめるべき」という意見が、SNSでのつぶやきや下記記事のような形で表明されることが目につくようになりました。 note.com ただ、それら「自認○○」ミームへの批判が、どうもピンとこなかったため下記のように呟いたところ。

けどやっぱりよく分からない。「性自認」が嘲笑の対象にされているからといって、それに対抗するために「自認」全体を笑うべきではないというのは、流石に戦線を拡大させすぎなのでは。

「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という姿勢は、まあ個人の心持ちとしてはありかもしれないけど、社会的に共有されるべき倫理とするには無理があるでしょ。 @darakeru.com on Bluesky

次のような反論をいただきました。

その文章で「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という旨の主張はされていませんし、ミーム的用法そのものの批判をしていますよね。

文章でも説明されていましたが、トランスジェンダーを揶揄する目的で『⚪︎⚪︎自認』という言葉がSNS上で使われるようになり、その流れで『⚪︎⚪︎自認』が本来の意味とは違うニュアンスを含みミーム化したという背景があります。自認という言葉にそのニュアンスが付与されることによって、トランスジェンダー当事者が自分達を説明するための『性自認』という言葉にもそのニュアンスを読み取られるようになるという問題が起きています。

以下のスレッドでも書いていますが、思考実験や倫理の話でなく困っている人が実際に存在している問題だということをご理解いただければ幸いです。

@yoshi-miura.bsky.social on Bluesky @yoshi-miura.bsky.social on Bluesky

私もそう思いますよ、この数年のネット上でトランスジェンダーがここまでデマにまみれたバッシングをされ人格や人権を否定されていなければね。

こういうくだらないミームによって人々のトランスジェンダーに対する認識が歪んでいっても現状それを是正することは難しく、また容易にトランス差別の流れに棹さすことになる状況なので。

(この方の他のポストも読んだ上で)ネット上での『自認』の用法について「興味深い思考実験の題材」くらいの感覚で言及している人も多いようだけど、我々は思考実験の材料でなくあなたと同じ人間なんですよね。

「そのミームによって『性自認』という言葉とそれを必要とする人々の生活に悪影響が出るのでやめてください」という実害に基づく当事者からの要請である、という視点が欠けていませんか。

『自認』の元の意味をどうこう言うのは「『ホモ』は元々『同じ』という意味でそれ自体に差別的なニュアンスはない」と言うくらいズレてるんですよ。「害があるからやめましょう」というシンプルな話。

そして、“その程度の害”かどうかを害を受けることのない非当事者が判断しようとするのは全くもってナンセンス。

@yoshi-miura.bsky.social on Bluesky

しかし、これら反論に僕は次の2点から同意できません。

  1. 性自認と自認は異なる概念であり、性自認は確かに尊重しないといけないけれど、「自認〇〇」、特になんらかのキャラクターを自認するような自認は、そこまで尊重するようなものではないのではないか。
  2. ある単語をある人が不快に感じたからといって、即その単語を使うべきではないと結論を出すことはできない

この2点について説明した上で、自認〇〇ミームについての僕の考えを述べたいと思います。

1. 「性自認」と「自認〇〇」は分けて考えるべき

miura氏は

「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という旨の主張はされていません

という風に述べていますが、元々の記事を書いたDr.ギャップ氏は次のように述べ、「性自認だろうが自認だろうが、それは尊重されるべき」と主張しています。

「自認」という言葉には「自分で認める」や「自分でそう認識する」という意味があります。そこには「実際には○○ではない」という含みはなく、その含みを「自認」という言葉に乗せたのは悪意や攻撃の意図でした。そうした背景がある以上、あくまで自虐としてのつもりであれ「自認」という言葉に「実際には○○ではない」という含みや、「本当」と「自認」の間にあるギャップへの皮肉・冷笑的なニュアンスを乗せることは、そのルーツにある悪意や攻撃を強化することにつながると感じます。

(略)

「自認」というものは、性自認に限らず客観的に証明できるものではなく、あくまで主観的なものです。その「性自認」が他の性の位相と──特に「身体の性的特徴」という客観的なそれと区別されること、そうして一つの位相とされることが、「客観的に証明できなくても、しなくても良いものとして、本人の認識を尊重しよう」という身振りに見えるのです。

つまり、「自認」というものが性に関することであろうとなかろうと、客観的に証明できなくても、しなくても良いものとして尊重しようと言っているわけです。

上記のような倫理基準に従えば、それこそ「自認レゼ」というような自認に対して、たとえそれを言う当人が、自分がレゼであることを証明できなくても、嘲笑の対象にせず、自認を尊重しなければならないことになります。

「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という旨の主張が元記事に直接書かれているわけではありませんが、「自認は性自認に関わらずどんな自認でも尊重すべきだ」という元記事の一般的な原則を個別の事象に援用すれば、「自認レゼ」という自認もまた、認められるべきという結論になるはずです。

そして、それは難しいだろうと、僕は思うわけです。

僕はそもそもチェーンソーマンという物語をアニメ・漫画ともに履修していないので、レゼというキャラクターを自認することのおかしみはよくわかりません。

ただ、僕がわかる例としていうなら、「俺は令和の坂本龍馬」とかいってるようなおじさんは大抵、口先だけはでかいこと言うけど、そのために自分が実際に汗を流したりはせず、周りに迷惑をかけるような迷惑おじさんなので、あまり関わり合いになりたくないし、某令和の新撰組を名乗っているような人たちは、(そのひとたちの主張にはある程度同意できるにも関わらず)新撰組って身分制を強制している体制側について白色テロ繰り返していたような奴らじゃん、そういう奴らみたいなことしたいんだ?と、信用できなくなったりします。

ではそういった痛い自認と、性自認みたいな尊重されるべき自認は何が違うと言えば、「個別の具体名に対する辞任か、カテゴリーに対する自認か」ということだと思うんですね。

レゼにしろ坂本龍馬にしろ新撰組にしろ、実際にそういう個別具体的な存在がいた場合、それを自認するということは、その個別具体的な存在を乗っ取り、その功績・イメージを借りているわけです。坂本龍馬を自認しているようような痛いおじさんは、実際に薩長同盟や船中八策によって明治維新に貢献した(?)功績を、自分にも重ねて欲しいという欲求が透けて見えるし、新撰組を辞任している連中は、新撰組のイメージだけ借りようとしてるわけです。

一方で、性自認のようなカテゴリーに対する自認はそうではない。「自分は男/女/ノンバイナリーetc...だ」とか言っても、別に「男/女だから〇〇」とか思われるわけではない(むしろ、そのようなジェンダーバイアスを批判するのが、性自認を認める立場)。そもそも、カテゴリーというものが実際は実在せず、社会的に構築されたものである以上、誰かが「自分は〇〇というカテゴリーだ」と主張するときに、それに対し「あなたは〇〇というカテゴリーではない」という批判をするのは、実際は単なる事実の主張ではなく「あなたという存在は〇〇というカテゴリーに入れるべきではない」という、規範的主張になるわけです。

そして、そのような規範が、多数派から少数派への押し付けられるということが、差別であるから、性自認をみとめないことは、性的少数者への差別であり、許されることではない。

一方で、自認レゼとか自認坂本龍馬とか言っている人は、多数派から少数派への規範の押し付けとか関係なく、実際にレゼでも坂本龍馬でもないわけです。である以上、別にそれを他者が尊重すべきとはならないし、「坂本龍馬とか自認するのは実際に何か成し遂げてからにしなよ(笑)」とか笑っちゃうことも、していいんじゃないかと思うわけです。

しかし、このように「個別の具体名に対する辞任か、カテゴリーに対する自認か」を分けず、「あらゆる自認は尊重すべきだ」という基準を採用すると、自認坂本龍馬とか、自認ジャンヌダルクみたいな痛い連中も認めなければならなくなる。それは流石に無理があるのでは、ないでしょうか。

2. 不快かではなく、差別かどうかこそが重要

元記事では「自認○○」というミームについて

  1. トランスジェンダー差別に「自認」という言葉が使われていて、今の「自認〇〇」ブームはその差別的な使われ方にルーツがある
  2. その気がなくても誰かを軽んじることにつながる

という2点から、使うべきではないと主張しています。

しかし、現在の「自認〇〇」という言葉にそのようなルーツがあるかどうかは、かなり論証が難しいと思います。例えば、僕はトランスジェンダー差別で「自認〇〇」という言葉が使われているのを知りませんでしたが、それでも「自認レゼ」という言葉をみて、「ああ、自分の好きなキャラクターの真似しちゃう中二病みたいなやつね」と思いましたし、実際知らずにそのような光景を見たら、自分も「自認〇〇」という言葉で表現するかもしれないなと思います。

そしてさらに言うと、差別的なルーツがあることだけである言葉を使わないようにするのは、結構難しいです。漢字の成り立ちというのは、実際はほとんど立証されているものはありませんが、それでも「『童』という漢字は刺青を入れられた奴隷から来ている」みたいに、差別的なルーツを持つとされているものがいくつもあります。だからといって、そのような漢字を使うのはやめようということにはならないわけです。

一方で、過去のルーツがどうであれ、その言葉は使わないようにしようとすることもあります。例えば「障害者」の害の字、最近は「がい」とひらがな表記したり、「碍」という字に置き換えたるすることがありますが、これに対して日本語の研究者が「障害者の害という字に差別的な意図はない」と主張することがあります。

ただ、そうであっても現在障害者という言葉は、障害者に対して「害」というネガティブなイメージを与え、健常者より劣ったものであるというイメージを定着させると認識する人が多いため、あまり使われなくなってきたりもしています。

つまり、ある言葉を使って良いとするか使わないとするべきかは、「過去そのような言葉にどのようなルーツがあるか」より、「現在どのように使われているか」が重要なわけです。

では、「現在どのように使われているか」の何を持って、使っていいか使わないべきかを決めるのか。元記事では「自認○○」というミームについて

自分が「自認」という言葉にジェンダーの文脈で触れるとき、そこには「その人の認識を尊重する」という前提のようなものがあると感じます。

(略)

そこに「本当は○○ではない」や「本人がそう思っているだけ」というニュアンスを乗せることは、それを聞く人の「自認」の捉え方を変え、他の誰かが使う「自認」を軽くすることにつながるでしょう。

と書いています。つまり、「自認○○」というミームを、自分はジェンダーの文脈で捉えるため、そこに違うニュアンスを乗せられるのが嫌だというわけです。

そして、miura氏はそこから、「自認○○」というミームにより、性自認が軽んじられるため、そのようなミームは使うべきではないと主張します。

自認という言葉にそのニュアンスが付与されることによって、トランスジェンダー当事者が自分達を説明するための『性自認』という言葉にもそのニュアンスを読み取られるようになるという問題が起きています。

こういうくだらないミームによって人々のトランスジェンダーに対する認識が歪んでいっても現状それを是正することは難しく、また容易にトランス差別の流れに棹さすことになる状況なので。

「そのミームによって『性自認』という言葉とそれを必要とする人々の生活に悪影響が出るのでやめてください」という実害に基づく当事者からの要請である、という視点が欠けていませんか。

「害があるからやめましょう」というシンプルな話。

そして、“その程度の害”かどうかを害を受けることのない非当事者が判断しようとするのは全くもってナンセンス。

自分の理解で上記の文章を要約すると

  • 「自認○○」というミームの実際の意味はどうあれ、その流行によって性的少数者の性自認が軽んじられるという害が生じている
  • 性自認が軽んじられるという害があるかどうかは、当事者の性的少数者がそう判断したらそう見なされる。非当事者がそれに反論することはできない。
  • 害があるのならやめるべき

ということになるでしょう。

しかしそれに対して僕はこう思うわけです。

  • 「自認○○」というミームの流行によって性的少数者の性自認が軽んじられているのというのは、実際にどういう場面でどういう風に行われているのかわからない
  • 「当事者が害を感じている」こと自体は当事者が判断することだが、その害が不当なものなのかそうでないのかを考えるのは、当事者・非当事者関係ない
  • 害があるからそれを即やめるべきになるのではなく、その害が不当なものかそうでないかも重要

miura氏は

「害があるからやめましょう」というシンプルな話。

といいますが、誰かに害があるからといって、それが即「その行為をやめるべき」という話にならないわけです。例えば、政治家に対する風刺表現は、その政治家の害になるかもしれませんが、これをやめるべきというのは、当該政治家とその支持者でしか合意が取れないでしょう。

一方で、性的少数者に対して「ホモ」というような言葉は、すべきではないとされています。これは、実際に「ホモ」という言葉が流行し、それによって性的少数者への差別がなされていたと、当事者・非当事者ともに認識したからによるものです。

「自認○○」というミームのを使うべきかどうかもまた、それが差別を助長しているかこそが重要なわけです。当事者が不快感を感じていることは、それ自体で言葉を禁止する十分条件にはならないと、僕は考えます。

「うるさいひとがいるからやめる」ではなく

ただ、僕がこのように長文を書いても、実際に「自認○○」ミームがどうネットで扱われていくかは、結局論理ではなく空気で決まっていくでしょう。「『自認○○』というミームを使うとうるさい人がいるからやめるか」となれば、「自認○○」ミームは使われなくなっていくだろうし、そうならなければ使われ続けるわけです。実際にそのミームがどんな意味を持ち、それによって何を表現したかったか顧みられることなく。

しかし、あるミームがあって、それが流行したということは、そのミームによって表現したかった思いが人々の中であったから、流行したわけです。もちろん、その思いがいい思いであるとは限らないわけで、それこそ本当に差別に根付く思想が根元にあるのかもしれない。その場合は、きちんと「そのミームはこういう理由で差別だからやめるべき」と理解し、使用をやめるべきです。

今回の「自認〇〇」というミームに対しても、本当にそれをやめるべきか考えるには、当事者・非当事者交えた議論こそが重要で、「どちらの声が大きいか」というのは本質的な問題ではないと、思うわけです。

障害者はみんな地獄行き

地獄というものがあるらしい。現世で悪いことをした人間、例えば嘘をついた人間とかは、エンマさまとやらに舌を引っこ抜かれて、そこに連れていかれるそうだ。

 

それを聞いてぼくは思う。

 

だとしたら、ぼくを含めた障害者なんかはみんな、そこで舌を引っこ抜かれて、地獄に行くんだろうなと。

 

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おじさんの困難とは「望んでないのに偉くなる」ことなのかも

あままこです。去年の11月に、37歳になりました。……37歳!?と、自分でも信じられませんが、37歳です。

20代後半から30代前半だと、まだ「お兄さんか、おじさんか、微妙なところだよなー」とか思う余地がありましたが、37歳だと、流石に、その二分法で言うならおじさんでしょう。少なくとも、完璧におじさんになる40代も、あと数年です。

そしてそんな折、インターネットでは「mixi2では知らないおじさんが乱入しないSNSを目指します」発言に、まさに知らないおじさんたちが(図星を突かれて)怒っていたり

www.itmedia.co.jp

はたまた、「『嫌なおじさん』にならないようにするにはどうすればいいか、藤井隆氏に聞いてみた」みたいな記事が注目を集めているわけで、

ashita.biglobe.co.jp

「おじさんとはなんだろう」ということを考えさせられるわけです。

……でも、そもそも何で考え"させられる"のかなー?

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どこまでも俗情と結託してー『推しの子』感想(ネタバレあり)

というわけで、『推しの子』完結して、遅ればせながら全巻読みました。

ちなみに、『推しの子』については、11巻まで読んで、恋愛リアリティーショー編を中心に、記事を書いたことがありますね。

amamako.hateblo.jp

で、読み終わったあと、思った感想なんですが、「大衆に配慮するエンターテイメントであることを貫いたんだな」というものでした。

どういうことか、これから書いていきます。あ、当たり前ですがラストのネタバレ含みますので、そこはご了承を。

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インターネットで自死について書くときに、書くべきこと・書かざるべきこと

とりあえずまずガイドラインを載せておく。メディア関係者向けのガイドラインではあるけど、ブログを書いたりSNSでコメントする人も、気をつける指針にはなると思います。

jscp.or.jp

するべきこと

  • 自殺を考えたり自殺の危機が高まったりしたときに、どこに、どのようにして助けを求めればよいか、正しい情報を提供する
  • 自殺や自殺予防に関して、正確な情報に基づいた事実を周知する
  • 生活の中でストレスを抱えたり、自殺を考えたりしたときの対処法や助けを求めることの大切さについて報道する
  • 有名人の自殺を報じる際には、特に注意を払う
  • 家族や友人などを自殺で亡くした方、自殺を考えたことがある方や自殺未遂をしたことがある方に取材をする際には、慎重に行う
  • 自殺について報道するときに、メディア関係者自身がその影響を受けてしまう可能性があると認識する

してはいけないこと

  • 自殺に関する内容をトップニュースとして扱ったり、報道を漫然と繰り返したりしない
  • 自殺の手段を描写しない
  • 場所に関する名称や詳細な情報を伝えない
  • 自殺をセンセーショナルに扱ったり、美化したり、よくある普通のこととして扱ったり、あるいは問題を解決する有効な方法のように紹介したりする言葉やコンテンツは使用しない
  • 自殺の原因を単純化したり、一つの要因に決めつけたりしない
  • 見出しにセンセーショナルな言葉を使わない
  • 自殺関連の写真、ビデオ映像、録音した音声、デジタルメディアやソーシャルメディアへのリンクを使用しない
  • 遺書の詳細を報じない

相談窓口として、僕はまず最寄りの医療機関や精神保健福祉センターなどををおすすめします。

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