あままこのブログ

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「批評」としての『ジブリと宮崎駿の2399日』

『プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリ宮崎駿の2399日』を見ました。
www.nhk-ondemand.jp
インターネット上では「宮崎駿高畑勲への激重感情が面白い」という肯定的評価もあれば、「ドキュメンタリーの作り手が解釈を押し付けている感じがして好きじゃない」という否定的な評価もさまざまありますが、僕はこの「作品」を、それが事実を切り取ったものであるかをおいておいて、「作品」として、面白く見ました。

そもそも「ドキュメンタリーは事実をありのままに描くものである」という思い込み自体がナンセンスなんであって、カメラを向けるという作為がある限り、どんなドキュメンタリーも、そのドキュメンタリーを作る監督の恣意性からは逃れ得ないわけです。「監督こそがどのように物語を構成するか最終的に決める」という点では、フィクションもノンフィクションも特に変わらない。ただ、ノンフィクションの場合は、そこで他者による介入や偶然によって、監督が影響を受けやすいという、程度の問題にすぎないわけです。

※そこらへんの問題についてより詳しく知りたい人は、森達也氏とかの著書を読むことをおすすめします。

だから、この『プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリ宮崎駿の2399日』というドキュメンタリーも、絶対に揺らがない事実ではなく、あくまでこの番組の監督が、宮崎駿という題材を追いかけていく中で、彼の行動に見出した物語として見ていくべきだと考えるわけです。そしてその点から言うと、「高畑勲の呪縛が重くのしかかる中で、その呪縛を振りほどくため『君たちはどう生きるか』が作られた」という物語は、物語としてなかなかおもしろいし、その物語をもっともらしく見せる造りも優れているし、その一方で、その監督の作為性からはみ出すような映像の力も随所で感じる、素晴らしいドキュメンタリー作品だったなと僕は評価しました。

ただ一方で、下記の記事にあるように、このドキュメンタリーを持って「『君たちはどう生きるか』にはこういう意味が込められていた」という考察の答え合わせがなされてしまうという危惧は、あるわけです。
note.com

「考察の時代」に合わせたドキュメンタリーとしての『ジブリ宮崎駿の2399日』

上記の記事において三宅香帆氏は、批評と考察の違いについて

批評と考察の違いは何か。
考察→作者が提示する謎を解くこと
批評→作者も把握してない謎を解くこと
と分けられる。

とし、そして今までは批評が求められる「批評の時代」だったのに対し、現代は考察が求められる「考察の時代」であると述べています。

その上で、ジブリ宮崎駿の2399日』は、作者が提示する謎に対し、製作者からの回答を示す、「考察の時代」にマッチしたドキュメンタリーとなっているのではないかと指摘しているわけです。

しかし三宅氏は、そのように「作者が提示する謎」だけに物語の意味を限定するのは、他の様々な物語の読み解きを捨象してしまうのではないのではないかと批判し、作者の意図に限定された考察ではない、批評を行う、批評家こそが必要なのではないかと主張するわけです。

この「作者の意図に限定された考察ではなく、より豊穣な批評を」という考えには、僕も基本的には賛成です*1

ただその上で思うのは「しかし多くの人々は、むしろ批評がそのように無限定であることに辟易して、考察を求めるようになったのではないか?」という問題です。

エビデンス絶対主義としての「考察」

批評というものは、それが作者の意図に限定されるものではないために、「正解」というものは存在しません*2。「ある見方からはこの物語はこう読み解ける」というものと、「別の見方からはこの物語はこう読み解ける」というのは、併存できるものです。

それに対し、「考察」は、それが作者の意図に限定されるものであるがゆえに、「正解」が存在し、その正解以外の見当違いな読み解きは「間違い」とされるわけです。

このような性質は、批評家からは「物語を読み解く際の豊かな可能性を切り捨てるものだ」と批判されるわけですが、しかしそこで単一の正解を提示するがゆえに、考察は批評より、読む分にも書く分にも楽です。読み手は、「より作者の意図を正確に汲んでいるか」で考察を評価し、その評価が一番優れている考察だけ支持すればいいし、書き手も「より著者の意図に近い解釈を示せるか」という単一の評価軸に則って文章を書けるからです。

批評では「何が優れた批評か」は明確ではありません。著者の意図に必ずしも依拠しないなら、ではなにを根拠に物語を読み解くのか。そして、その読み解きに対し「それってあなたの感想ですよね?なんかそういうデータあるんですか?」というエビデンス絶対主義的な批判がされたときに、どう反論すればいいのか。

ですが考察においては、それこそ今回のドキュメンタリーのような事実を、自らの考察の正しさを証明する明確なエビデンスとして示せる(ように思える)わけです*3。「それってあなたの感想ですよね?なんかそういうデータあるんですか?」という批判においては「NHKのドキュメンタリーにおいて、宮崎駿監督がこう言っていました」と反論できるわけです。

批評ではなく考察が好まれる理由の裏には、このような現代のエビデンス絶対主義があるわけです。

「批評の時代」を支えていたのは、イデオロギーだった

さらに言えば、考察の時代以前の批評の時代に、批評が有効性を保っていたのも、別に人々が物語の豊穣さを尊んでいたからではなく、批評の背後に「どのような批評が正しいか」という、イデオロギーがあったからなわけです。

例えば社会主義が影響力を持っていた時代には「その作品が社会の窮状を告発し、革命に寄与するものであるか」という評価軸からの批評が、よりイデオロギー的に正しいものとされました。

しかし社会主義の影響力が小さくなってくると、今度は反社会主義の立場から「社会問題の告発なんて不純物がない、純粋な物語的面白さを突き詰めた作品こそがよい」という評価軸からの批評が、反社会主義イデオロギーにより正しいものとされるわけです。

他にもフェミニズム批評やポストコロニアリズム批評など、批評にはイデオロギーがつきものでした。そのような世界では、自分の批評が依拠するイデオロギーの正しさこそが、批評の正しさを担保するものだったわけですね。「批評の時代」とは、すなわち「イデオロギーの時代」だったわけです。

ところが、現代においてはイデオロギーのかわりにエビデンスこそが、人々の生活に正しさを示す神となっている。そんな中で、今までのイデオロギーに支えられていた批評は力を失い、かわりにエビデンスに基づく考察こそが「物語の正しい読み解き方」となっているわけです。

イデオロギーではなく「私」こそを根拠とすることからしか、批評は再興できないのではないか

そんなふうにエビデンス絶対主義と結託する考察に対し、どのように批評を再興できるのか。

僕は、イデオロギーからではない、「私」から始まる言葉で、批評を始めることしかないんじゃないかと考えるわけです。「イデオロギーに基づけば、この作品はこう読み解ける」と言うのではなく、「私が、私がこれまでしてきた人生経験や、その結果培われた自分の思想により、この物語をこう読み解く」というふうに。

エビデンス絶対主義に基づく考察には、「考察する私」という要素は絶対に入ってきません。そのような「私」が混入した考察は不純な考察とみなされます。

ですが、ある物語を読み解くとき、そこで「私」という主体を排することは、そもそもできないはずなんです。「考察」という形の読み解きによって排除されるものとは、まさしく「その作品は私にとってどんな意味を持つのか」という点なんですね。そして、それをすくい取るのは批評でしかありえないわけです。

さらにいえば、そのように「私」に基づく批評だからこそ、それを世間に開示することは、すなわち「私」というものを社会に開示するということなのです。そして、他者の批評を読むとは「他者を理解する」ということにほかならないわけです。

そのような批評においては、自らが批評を書き、他者の批評を読むとは、相互理解にほかなりません。そしてそれは、単一の正解に基づく考察には、絶対なし得ない機能なのです。

僕は、この「考察の時代」に、それでも批評を続けるとしたら、このような「私」から始まる批評こそが必要なのではないかと、考えずにはいられないのです。

実は『ジブリ宮崎駿の2399日』も批評として読み解けるのではないか

そして、その点から言うと、三宅氏が「考察の答え合わせ」として見たジブリ宮崎駿の2399日』も、このドキュメンタリーを作った監督が、宮崎駿という物語に対して行った「批評」として読めるのではないかと、思うのですね。

このドキュメンタリーの監督は、取材で宮崎駿に張り付く中で、様々な宮崎駿監督の行動を間近で見、そしてさらに資料として様々な宮崎駿の情報を知るわけです。

そして、それを自分がどう一つの物語として解釈するかと考えた上で、「高畑勲という呪縛」こそが、宮崎駿を突き動かしているという意味付けを行ったわけです。

この意味付けは、たしかにこのドキュメンタリーの批判者からすれば恣意的に見えるかもしれない。というか実際恣意的なのでしょう。人の行動というものは、そんなきれいな一直線の物語にはなりえないのですから。

しかしここで重要なのは、「ではなんで取材した監督は、そのような意味付けを宮崎駿に対して行ったか」ということです。それはまさしく、宮崎駿鈴木敏夫といった人物につきっきりでいるという、取材者の経験が、その物語を生み出したわけです。

これはまさしく「自分自身の経験に基づき、物語を解釈する」行為であり、批評そのものではないかと、僕は考えるわけです。

*1:似たようなことを以前書きましたamamako.hateblo.jp

*2:「間違い」が存在するかは諸説ありますがamamako.hateblo.jp

*3:もちろん実際は、上段で述べたように、ドキュメンタリーは事実をありのままに映すものではなく、エビデンスに値するようなものではないのだが