あままこのブログ

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「〇〇はいいぞ」で埋め尽くされる時代に、それでも批評を書く理由

 小山晃弘(わかり手)という方が、オタクコンテンツの批評についてtwitterでこんな発言をし、物議を醸しています。
オタクが軟弱化して辛めの批評を書かなくなったから、最近のオタクコンテンツはひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品ばっかりになってるんだろうが。定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化をやめろ。辛口批評を書きまくって仲間のオタクと本気の喧嘩をしろ。90年代に戻れ。— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
ガルパンはいいぞ」とかも心底キモかったですね。褒めるにしてもせめて自分の言葉で褒めろやと。これがSNS時代ということなのかもしれませんが。 https://t.co/1GERAN423j— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
 はてなブックマークでの反応b.hatena.ne.jpや、twitterで自分がフォローしている人たちの反応を見る限りでは、上記の意見に否定的な立場が割と多いようです。そしてそんな中には、こんな意見もありました。
はてなでよく見かけた若い書き手による「アニメ辛口批評」ってただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章という印象しかないな……https://t.co/Gzn16yzDc2加野瀬未友 (@kanose) 2020年5月6日
 ここで僕は「ギクッ」と思ってしまったんですね。なぜなら自分こそまさに、「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」が苦手で、かつてはてなダイアリーでさんざん、「アニメ辛口批評」を書いてきた人間だったからです。amamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpこれらの記事は、今から見ればそれこそ「ただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」です。上記の小山氏の発言に対し否定的な感想を持った人の多くは、これらの記事についても「こんな素っ頓狂なしょーもない長文書いてないで、素直に『〇〇はいいぞ』とか言ってりゃいいじゃん」と思うでしょう。その点で言えば、今小山氏になされている否定的な意見の多くは、自分にも突き刺さるものです。
 
ただ、一方で僕と小山氏には違う点もあります。それは、小山氏が「オタクコンテンツ」のためにそういう辛口批評が必要だと言ってるのに対し、僕は、まず「僕自身」のために、そういう批評を書いていたということです。それは、例えて言うなら。こういうことです。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである

マハトマ・ガンジー
 
オタクコンテンツは批評によって変わるか?……おそらく、無理
 
小山氏はオタクがきちんとコンテンツに対し辛めの批評をし、そしてそれを作り手が参考にしてより良い内容を目指すというのが本来オタクコンテンツのあるべき姿と考えています。
ですが、端的に言ってそれは無理です。なぜならオタクコンテンツはもはや現代においてはメインカルチャーであり、そしてメインカルチャーというものは単純に、審美的な観点ではなく、商業的観点から作られるものだからです。ぶっちゃけて言うなら、「批評家に褒められるもの」ではなく「より売れるもの」を目標として作られるのです。
そして、「より売れるもの」がひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品であるのなら、いくら批評によってそれを批判しようが、市場原理によってそういう作品が作られ続けるのです。なぜなら、その作品を売ることによって、その作品の制作に関わった多くの人を食わせなければならないからです。
ほとんどの場合、大衆に売れるということと、真に価値のある優れた作品であることは二律背反です。大衆というものは「より性的に扇状的であること(シコれる)」とか「爽快感がある暴力(メシウマ)」とかみたいな、単純に快楽になるものしか理解できません。ちょっとでも複雑であったり、二面性のあるメッセージを投げかけるだけですぐ「つまんねー」と投げ出します。そういうのを理解できるセンスのある人というのはごく僅かなのです。
そういうごく僅かのセンスある人達がいくら「この作品は駄目だ!」と叫んでも、大衆にはそういう作品こそが売れるわけで、批評には、コンテンツを変える力なんかまるでないのです。
 
それでも批評をするのは、そういう作品が受ける現実に、自分が変えられないようにするため
 
では、批評にコンテンツを変えることが不可能だとしたら、批評なんてせずに、それこそ「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」に浸るしかないのでしょうか?
僕は、それで満足できるのならそれでいいと思います。「〇〇いいよね」「いい……」とか、「シコれる」とか「メシウマ!」とかみたいな短文で毛づくろい的コミュニケーションをするだけで十分満足できるなら、別にわざわざそこから抜け出す必要なんかまったくないと思います。
ですが、これは僕がかつてそうだったからこそ言えるのですが、そういうコミュニケーションで満足できず、「自分の見た作品が、どういった点から優れているか/劣っているか」ということを考えて、言葉にしたい人というのも、世の中には一定数いるのです。
そういう人は大体の場合、世間の大多数に売れている、メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じています。そしてこう思っています。「なんで世の中の人はこういう作品が好きなのに、自分は好きになれないんだろう」と。そしてその事に対し何故か後ろめたさを感じ、その後ろめたさを何とかするために「いや、自分はこういう理由でこの作品が嫌いなんだ。だからこの作品を自分が嫌いなのは正しいんだ」と、理論武装をするのです。(別に誰にもそんなこと求められてないのに)
それこそが「辛口批評」の正体なのだと僕は思います*1。そして、そういう言葉を紡ぐこと自体は、ある時期には必要なことなのだと思うのです。
 
そして、かつてのオタクコミュニティは、社会から迫害され隔絶した場所であるがゆえに、そういう理論武装のやり方を教えてくれるコミュニティでした。一体どういう教養がそういった辛口批評には使えるのか教えたり、辛口批評であっても本当にシャレにならないぐらい人を怒らせることは避けるような方法論を伝授したりと、そういうオタクコミュニティが、例えば大学のサークルであったりに、存在したのです。
ところがオタクというものがサブカルチャーからメインカルチャーになる中で、そういう批評の技術も失伝してしまったのです。そしてその穴を埋め合わせるように、「〇〇はいいぞ」という定型文のみでやりとりするような、毛づくろい的コミュニケーションが、オタクのコミュニケーションの殆どを占めるようになりました。そして、そこについていけない、僕のような人は、徒手空拳で「辛口批評」を書くしかなくなってしまったのです。
加野瀬氏が言うように、僕を含めたはてなの若い書き手が書いた「アニメ辛口批評」の多くは、「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でした。ですがそれは―もちろん若い書き手の不勉強・不誠実が第一の理由なのでしょうが―このようなオタクコミュニケーションの構造変化も大きな原因なのだと、僕は考えます。
 
ですが、そんな「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でも、僕はそういう文章こそ書いてほしいのです。
例えば、僕は記事の最初にいくつか過去に書いたアニメ批評を載せました。これらの記事は、たしかに素っ頓狂かもしれません。ですが、今読んでもそこには、自分のアイデンティティーをいかに形成しようか、その苦闘の痕跡が見えるのです*2
例えばとらドラ批評の記事のこの文。

そして、そのようなことは、この第五章においても可能です。とらドラという物語は、構造として、主人公達に「オトナになる」ことを強要します。それは、個々人の精神のよりメタレベルにある、物語の枠組みがそうさせているわけですが、しかしそれはあまりにも時代錯誤的すぎるでしょう。なるほど確かに「自己肯定感」や「親からの自立」は必要でしょう。ですが、それがとらドラという物語がしたように「本当の自分」や「結果主義」や「純愛」といった単一的なものに寄り掛かっていたのでは、結局作品内の「現実」に依存し、それが存在しなくなればまた不安感に陥る、そういう脆弱なものでしかありません。重要なのは「何が大きい者に寄り掛かる」ことではなく、「複数の支えを確保しておく」ことなのです。

 この批評が的を得ているかどうかは、人によって意見が異なるでしょう。というか、多くの人は「フィクションが都合いいからって何文句言ってんだ。当たり前じゃねぇか」と馬鹿にするでしょう。ですが、僕はこの文章を再読すると、当時の自分がいかに「オトナになる」ということを真剣に考え、考えるているからこそそこでとらドラが出した答えに納得行かなかったかが伝わってきて、「当時の自分!一生懸命考えてたんだね!」と拍手したくなるのです。

多くの人は、そんなこと一生懸命考えなくても、自然に大人になり、メインカルチャーを楽しみ、毛づくろい的コミュニケーションに適応できるのでしょう。でも世の中には、いちいち「それって一体なんなんだ」と悩み、世間の決まりごとに「そんなのおかしいじゃないか」といちいち憤ってしまう、そういう人間がいるのです。

そういう人が、自分を抑圧せずに、解放できる場、それがぼくは批評だと思うのです。そういう場は、毛づくろい的コミュニケーションが社会の全面に広がる今こそ、社会からの避難場所(アジール)として必要なのでは、ないでしょうか。

 

批評を学び、そしてそこからメインカルチャーと和解する道筋こそが、作られなければならない

 

ただそこで、そのような批評がずっと徒手空拳で、素っ頓狂なままでいいとも思わないんですね。なぜなら、これも僕が体験したからこそ言えることなのですが、きちんと技を伝授されないまま、いたずらにネットで野試合ばっかりを繰り返していると、より過激で、人を傷つけるばっかりの方向に走ってしまうからです。本来自分を解放するためにあったはずの批評が、やがて「ネットで受けるためには、たとえ叩かれて傷ついても、こういう過激なことを書かなきゃならない」というように、自分を抑圧するものとなってしまうのです。

「自分の嫌いなものをはっきり嫌いという」ことと「嫌いなものを(必要以上に)攻撃する」こと、この2つの距離は存外近いもので、見極めるには、やはりどうしても技術が必要なのです。

例えば、かつてのオタクには「大衆には褒めてるように見えるけど、実際読む人が読めば貶していることがわかる批評」というものを書く技術がありました。こういう技術は、過激さが受けるネット上では廃れていきますが、しかしこういう技術があれば避けられた炎上というのも、多々あったはずなのです。

また、さらに言えば、かつてのオタクには、「メインカルチャーなんてだせーよな」的な自意識を保持しながら、しかしうまく「でもこういう穿った見方すればメインカルチャーも楽しめるじゃん」という風にうまく軟着陸させる技術もありました。「素人は単純にしかこの作品を読み解けないんだろうけど、玄人はこういう見方するんだぜ」的に、自意識を保持しながらメインカルチャー消費に軟着陸させるのです。

しかし現在のすべてがオープンなネット環境では、そういう穿った見方をすることは、即座に「素直に作品を楽しんでいる人」との望まざる対立を招きます。それこそ鉄血のオルフェンズのオルガネタについて昨日twitterで起きた対立なんかは、まさにその類の対立でした。

そのようなオタク・サブカル的消費の作法・環境を、いかに現代のコミュニケーション環境に合わせて受け継ぐか。かつてのような、迫害されたコミュニティ内での徒弟制により、それを受け継ぐことが不可能になった中で、方策を考えることこともまた、必要であると、僕は考えるのです。

 

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amamako.hateblo.jp

 

*1:まあ、職業批評家の方々は大いに異論があるんでしょうが、ここではそれに至る前の話をしています

*2:びっくりするほど恥ずかしい自画自賛だけど、実際そう思うから仕方ない