あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

2020年4月14日、憂鬱を抱きしめて

 

amamako.hateblo.jp前回の記事で、仕事を休むかどうか迷っていた僕ですが、結局収束するまで休むことにしました。家で「あつまれ どうぶつの森」をやったり、見たいけど暇がなくて見れなかったドラマやドキュメンタリーなんかを見て過ごしています。

一方世の中ではとうとう緊急事態宣言が出たそうで、でも結局休業補償がきちんとなされるわけでもなくただ通勤自粛を要請しているものだから、多くの人が出勤してしまっているみたいです。

僕は、それは明確に間違いだと思うし、一律の休業補償をすべきだと考えます。またその一方で、あの首相がなぜかリーダーである政府なんて、当てにならないことはわかってるのだから、人々もまず休んで、それからあの○○を引きずり下ろすなりしてきちんと政府にケツを吹かせるぐらいの思いを持たなきゃ駄目なんじゃないかと、考えたりもします。

ただ、そういう考えは個々人がどういう戦略を最適と考えるか、また、どういう政治信条を支持しているかによって変わることなので、あんまとやかくは言いません。

それより僕が心配なのが、こういう世の中で、不安であったり、憂鬱さをみんな持っているはずなのに、それをどうも隠してしまっている気がすることです。

不安や憂鬱は、表に出さなきゃ爆発する

例えば、今エンターテイメント業界の多くの人はとんでもない苦境にいます。ですがそういう苦境に対して、「政府は補償しろ」みたいな怒りや、「いや、国に何でも頼るのは良くない」みたいな自己責任論、あるいは「この危機をなんとか乗り越えましょう!乗り越えられます」みたいなポジティブなことを多くの人は言うけど、「もうだめだ、世界はおしまいだ」とかみたいなネガティブなことは、ほとんど聞かない気がするのです。普段はさんざんネガティブなことばっかり言っているアーティストでさえ、こんなときには―もちろんこんなときだからこそなのでしょうが―あんまりネガティブなことを口にしてない感があります。

僕はこのCOVID-19(新型コロナウイルス)が起きるはるか前、学生自体からメンタルのバランスがあんまり良くない人間でした。でも、だからこそ、「不安や憂鬱さを抱えること」に関しては、ちょっと普通の人より経験が多いのです。その経験から言うと、これは明らかに、メンタル的にはむしろ危険です。

もちろん、メンタルの問題っていうのは、通常の身体的問題より遥かに個人差が大きいものですから、一概に「これをすれば良くなる」ということは言えません。ていうか、そんな方法があるなら僕自身が知りたいわけで。

でも、「これをすると悪くする」というのははっきりしています。それは、「自分が不安や憂鬱さを抱えていることを否認すること」です。「自分はこんな状態へっちゃらだし!」とか、あるいは「こんな状況だからこそ、明るく前向きに!」なんてことをやって、内なる憂鬱さを押し殺していると、それはどんどん裏で肥大化していくんです。

もちろん、そうやってポジティブであることが、社会的に求められているのはわかります。この、常に他人や過去の自分を追い越し成長することが求められる資本主義社会においては、弱音を吐いたり「もうだめ」ということを認めたりすれば、即座に社会から淘汰され、「生きるに値しない命」とみなされるわけです。例え虚勢でも、「自分に成長の意思があり、経済成長に貢献できる人間です!」と言わなければ、信用を失ってしまう……そんな恐怖は、このパンデミックによって経済が確実に悪くなりそうな今、むしろ強くなっているのでしょう。

でも、そんな状況だからこそ、僕はあえて言いたいのです。みんなが一斉にこの「虚勢を張り合う」ゲームから降りなきゃならないのではないかと。

ひとまずみんなで、不安や憂鬱さを認めてみませんか?そして、一時的でいいから、競争と成長をやめて、立ち止まってみませんかと。

立ち止まった結果「やっぱりこういう異常な状態ならともかく、普通のときは競争や成長が必須だよね」と思うなら、それはそれでいいです。COVID-19が収束した後に、再び経済成長を目指し続ける社会を選択すればいい。

でも、今はとりあえず、立ち止まって、みんな不安や憂鬱さを認め、それを抱きしめたほうがいいんじゃないかと、僕は思うのです。

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