あままこのブログ

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不健康でも、生きていく―『推し、燃ゆ』感想文

『推し、燃ゆ』書影

というわけで、本屋で文庫本が平積みになっていたので、やっと『推し、燃ゆ』読みました。いや本当は芥川賞を取った当時に電子書籍で買ってたんですが、そのまま積んでいまして……
まずは、読んでいて、一番気づきがあった文章を引用。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』p74-75

僕は、まさにこの文章中で言われている「常に平等で相互的な関係を目指している人」で、それ故、アイドルやVTuberといった推しを持つことを理解しながらも、その不健康さについつい危惧を覚えてしまい、このブログでも「推しを推すことの内にはらむ不健康さ」を指摘する記事を多く書いてきました。
amamako.hateblo.jp
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実際、この『推し、燃ゆ』の中においても、主人公は自分の推しであるアイドルを過剰に推すが故、高校を中退して引きこもりのような状態になってしまうわけで、それは端から見てるととても不健康で危ういものに見えるわけです。

しかしここで重要なのが、むしろ「バランスが崩れた一方的な関係」だからこそ、主人公にとって「推しを推すこと」が救いになっているということなんですね。というかむしろ「平等で相互的な関係」を求められる、現実社会に打ちのめされているからこそ、そうではない推しとの関係に逃避しているわけで。

小説内では、主人公が社会の中で「求められる役割」を果たすことが如何に困難であるかが、以下の様にリアリティをもって描かれます。

一度で済む作業を忘れて難度も戻ってくるたびに、「あかちゃんがべそかいてるなあ」と言う、すみません、と小さく言い、あちこちから、すいませえん、と声を掛けられて、あたしは「忙しくなったらすぐ呼ぶこと、それでミス連発すると失礼だから、落ち着いて」といつも言われているのを思い出し、外倉庫にいる幸代さんを呼ぼうとし、戻る途中でさっきの女性に、少しかたくなった声で「すみません、さっきも言ったんですけどこぼしちゃって」と言われた。「すみません、あのすぐ片付けますんで」「いや片付けなくってもいいんで、おしぼりだけもらえますか、すみませんけど」
店長が「いい、いい、おれがやっとくから、あかりちゃん生持ってって」と豚肉をいったん冷凍庫に入れる。店長が厨房を離れることがどういうことであるか、ということはあたしも理解しているのに、焦りばかりが思考に流れ込んで乳化するみたいに濁っていく。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』p58-59

まじめという言葉には縁がない。なまけものと言われるほうがしっくりくる。
さかのぼると、漢数字の四、に思い至る。一、二、三、ときて、なぜああいうふうなかたちになるのだろう、しかも一は一画、二は二画、三は三画で書けるのに、四は五角。逆に、五は四角だ。何度も書いて覚えるんだよという先生の言葉通りに、一から十まで何度も繰り返し書いても、どうしてかみんなのようにはいかなかったのを覚えている。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』p64-65

ここらへんの描写は、似たような困難を生活上で抱えている自分にとっても、身につまされる描写でした。

ですが、そんな風にやっとこさ日々を生き延びている主人公に対し、「立派に社会を生きている人間」の代表であるような、主人公の父親は、こう言うわけです。

父は理路整然と、解決に向かってしゃべる。明快に、冷静に、様々なことを難なくこなせる人特有のほほえみさえ浮かべて、しゃべる。父や、他の大人たちが言うことは、すべてわかり切っていることで、あたしがすでに何度も自分に問いかけたことだった。
「働かない人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌をとらなきゃ死ぬんだから」
「なら死ぬ」
「ううん、ううん、今そんな話はしていない」

宇佐見りん『推し、燃ゆ』p108

この父親の言うことは、僕の読解に合わせて解釈しなおすとこういうことです。

  • 社会の中で生きていくのなら、生きていく自分も社会に対しその分貢献をし、社会と自分との間で「平等で相互的な関係」を築かなければならない。

しかし、そもそも主人公にはそのように貢献する能力はない。「平等で相互的な関係を目指す」ことは、それが可能である場合は良いのかもしれないけれど、それが出来ない人にとっては、「お前は果たすべき役目を果たしていない」というように、自分自身を責め立てるスティグマとなってしまうわけです。

それに対し、アイドルとの関係にはそのような「平等性」「相互性」は求められない。非対称な関係であることが当たり前だからこそ、上記のような劣等感を感じなくて済むのですね。

「推しとの関係は健全なものでなくてはならない」という、一見ごもっともに見える倫理は、しかし実際は、このような「不健全さ」こそが救いになっているという事実を見落としているわけです。

不健康でも、生きていく

ただそうは言っても。やっぱりできれば推しであれ何であれ、特定の対象に依存したり、逆に依存されたりする関係は、一般的には避けた方がいいわけです。推しを推しすぎて高校を中退するよりは、高校はきちんと卒業した方が良い。

ですがここで問題なのが「できればそうしたほうがいい」という理想が、「絶対そうでなくてはいけない」という規範になったり、「そうならなかったものはダメな奴だ」というスティグマになってしまうということの危険なのではないかと、僕は思うわけですね。

結局、どんな風になっても、生きていくしかないのですから。

這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』p149