要約
- ある表現に対する抗議(キャンセル)を評価するには、その表現の内容だけでなく、それが私的な場で行われているものか公共の場で行われるものかが重要になる
- 公共における表現は、それが「万人に開かれた場」で行われる表現である以上、排除していいかどうかは丁寧に考えられなければならない
- だが一方で、「万人に開かれた場」での表現である以上、そこで表現を行う者には、より高い応答責任が課されることも、忘れてはならない
この記事の問題意識
キャンセル・カルチャーについての議論が盛んに行われています。
mainichi.jp
davitrice.hatenadiary.jp
hokke-ookami.hatenablog.com
なぜこの様な議論が盛んになるかといえば、それこそ僕も行ったあいちトリエンナーレの件
「表現の不自由展・その後」を見てきました - あままこのブログ
「表現の不自由展・その後」展示中止について、僕の考え - あままこのブログ
やら、あるいは各種のアニメ・漫画的表現が性差別的だと批判を受けたりする事件
宇崎ちゃん献血ポスターに「間違った解釈」なんてあるのだろうか - あままこのブログ
ラブライブ!サンシャインのパネル騒動について―その輪の外へ、想像力を向けようよ - あままこのブログ
やら、最近では埼玉県のプールで水着撮影会に対する抗議によりイベントに中止要請が行われ、後ほどそれが撤回される事件
www3.nhk.or.jp
が起きる中で、それらがひとまとめに「キャンセルカルチャー」としてフレーミングされているからでしょう。
つまり「ある表現が、その表現を批判する人々によって撤回や規制を余儀なくされる」という共通点が、これらの事例にはあり、そして多くの人々はその共通点に注目して、「このような撤回や規制が横行すれば、表現の自由がなくなってしまうのではないか」と危惧したり、それに対して「キャンセルカルチャーは別に強制的に表現を規制しているのではない以上、表現の自由の侵害ではない」と反論がなされたりしているわけです。
ですが、そもそも「ある表現が、その表現を批判する人々によって撤回や規制を余儀なくされる」という共通点だけで、上記に挙げた問題をひとまとめに考えるのは、あまりに無理があるのでは、ないでしょうか?
ある表現に対して、撤回や規制を求める抗議をどう評価するべきかは
- 抗議されている表現がどのような表現か
- その抗議されている表現がどのような場において行われているか
の2点によって大きく変わってくると、僕は考えます。
そこで今回の記事では、まず上記の2点に基づき、キャンセルカルチャーとひとくくりにされるものの問題を腑分けしていき、そしてその上で、どのような場面においてキャンセルカルチャーが問題となるのか、考えていきたいと思います。
抗議されている表現がどのような表現か
ある表現が抗議者によって抗議されるのは、その抗議者における倫理・道徳と、その表現が反する場合が殆どです。
そして、人々が抱いている倫理・道徳にも、いろいろな水準のものがあり、大きく分けて
- ほぼ社会の成員全員が既に共有している倫理
- 今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理
- 「私」が信じている倫理
の3種があります。
ほぼ社会の成員全員が既に共有している倫理に反する表現について
まず1番目についてですが、それこそ人々の行動は極力国家から自由であると考える自由至上主義(リバタリアニズム)においても、「暴力、窃盗、詐欺に対する保護、契約の執行等」は権利として国家が保障すべきと考えるように、「社会の成員全員が同意している」規範は存在し、それに反する行為は認められません。極論を言えば人間を殺して「これは俺の表現だ」という人がいても、その人は粛々と裁かれますし、そのこと自体はどんなに極端な表現の自由を擁護するものでも、認めるでしょう。
ただその一方で、実際に直接危害を加えたり、それを教唆するものではないけど、抽象的に、社会の成員全員が既に共有している倫理に反する表現というものをどう考えるかは、議論が分かれています。例えば民族差別・人種差別を扇動する、いわゆる「ヘイトスピーチ」というものについては、民族差別・人種差別がいけないというのはもはや万人が共有する倫理ですが、しかしその倫理に基づいて表現を規制するのが許されるかについては、いまだ反論も多くあります。
ただ、そのようなヘイトスピーチを法律・条例によって規制するかは各論ありますが、今回のキャンセルカルチャーのような抗議活動の水準でいえば、ヘイトスピーチのような表現に対して抗議活動を起こすことは、まともな議論においては認められていると言えるでしょう。
今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理に反する表現について
次に、「今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理」について。キャンセルカルチャーが問題化されるのはこのような領域のものが多いです。例えば、「女性を性的な眼差しで見るのは良くない」とか「動物に対し人間が苦痛を与えたり、苦役を課してはいけない」というような規範は、社会の全ての成員に共有されているわけではないけど、それは妥当な規範であるから社会全体で共有してもらいたいと考える人は居るわけです。そして、そのような人々によって「女性を性的な眼差しで見る表現」や「動物に苦痛を与えるような表現」が抗議の対象になるわけです。なぜそのような抗議が行われるかといえば、それはそのような表現をやめさせようという意図以上に、そのような表現を認める社会に対する異議申し立てでもあるわけです。
一方で、そのような倫理をはなから身につけるつもりのない人や、「別に個々人や自分自身がそのような倫理を持つことはいいけど、そのような倫理と反する倫理観を持つ人も認めるべきだ」と考える人からすると、そのような異議申し立ては勝手な倫理の押しつけとして捉えられるため、反発され、そこにコンフリクトが生まれるわけです。
ただここで重要なのは、コンフリクトが生まれること自体は悪いことではないということです。上記に挙げた毎日新聞の記事で五野井氏が以下の様に述べている通り、公民権運動や反植民地運動といった、後年においては「それがあって良かった」とされる運動においても、運動当時はコンフリクトがあったわけです。
五野井氏 力なき人々にとっての最後の手段としてボイコット運動があります。インド独立運動の英国商品不買や、米国公民権運動ではローザ・パークスの「バス・ボイコット」(※)がありました。
情報発信の主体がユーチューバーのようなインターネット上のサービスに移るなかで、抗議の対象も国家や企業だけではなく、情報を発信する個人や現象、価値観へと変化しつつあります。
キャンセルカルチャーそれ自体は伝統的なボイコット運動の延長線上にあります。
「私」が信じている倫理に反する表現について
ただその一方で、上記のように社会の成員によりよい倫理を浸透させ、社会を変えようとする抗議活動とはまた違う、「キャンセルカルチャー」も存在します。それは一言で言えば「私が見たくないものを見せないで」というキャンセルカルチャーです。
「『私』の信じている倫理に反する表現が許せない」という点では、上記のような抗議と同じです。ただ違うのは、上記のような抗議活動においては、少なくとも当人の中においては「私が抱いている倫理は、私だけでなく万人が抱くべきものだ」という信念と、その信念を支持する理路があるわけですが、「私が見たくないものを見せないで」という抗議にはそれがないということです。
このような抗議の背後にあるのは、他者というものは絶対に変わらないし、わかり合うことなんてできない。だったらせめて私の目の前からは居なくなれという、他者への圧倒的な不信感といえるでしょう。
その抗議されている表現がどのような場において行われているか
上記では表現への抗議活動を、抗議される表現の内実に基づいて3つの分類に分けました。
ただその一方で、表現への抗議をする者にとっては、その表現の内実と同様に、その表現がどのような場で行われるかも重要になります。そしてその表現の場は大きく分ければ以下の二つとなります。
- 私的領域
- 市場領域
- 公的領域
私的領域における表現について
まず私的領域について。私的領域の最たるものが、自分の家やマンションの中といった、完全にプライベート(≓私的)な空間です。そして、そのようなプライベートな空間においては、キャンセルカルチャーは原理上問題となり得ません。自分の自室でどんな表現をしようが、誰も文句を言うわけがないし、仮に赤の他人が「自分の部屋でそんな表現をするな!」とか抗議をしたとしても、そんな抗議は無視すれば良い、ほぼ無意味のものだからです。
そして、このことは自分一人だけでなく、限定された人々の間での表現活動においても同じです。いかに反社会的・反倫理的な表現であっても、そういった表現が好きな者同士の完全に閉じた空間で行われるならば、そのような表現への抗議はありえません。仮にそこで抗議があったとしたら、それは「完全に閉じた空間」ではなかったということなだけです。
故に私的領域においてはキャンセルカルチャーという問題自体がそもそも存在し得ないわけです。
市場領域における表現について
一方で、現代においては多くの表現が、商業メディアや、ある商品の宣伝・広告といった形で表現されます。そしてそのような表現は、上記のような私的領域における表現とは違い、不特定多数の目に入ります。
キャンセルカルチャーについて語る論者の多くは、このような市場領域における表現への抗議活動を問題視します。要するに、不買運動などの抗議活動をされることにより、ある種の表現や、その表現をしている表現者が商業メディアやプラットフォームに拒否されてしまう。そのことは実質的に、抗議を受けた表現・表現者の表現の自由を奪っているのではないか、という主張です。
しかしそもそも商業メディアや、商品の広告・宣伝というのは、そのような抗議活動をされなければ何でも表現できる、「表現の自由」が存在する場所なのでしょうか?実際は違います。商業メディアというものは、あくまで貨幣を稼ぐ手段の一つであり、そのようなメディアにおける表現は通貨を稼ぐ手段となり得る限りにおいて存在を許されるものでしかないわけです。そしてそれ故に。スポンサーの批判をしない・表現を受け取る側に気に入られるといったさまざまな制約があるわけです。逆にいえば、「抗議活動を受けない」という制約はそのようなさまざまな制約の一つな訳で、さまざまな制約を差し置いてそれだけ問題視するというのは、筋が通らないのではないかと、僕は考えます。
ただその一方で、本来そういう市場に存在するプラットフォームが、実質「そこしか表現の場がない」公的な領域としての性格を帯びてしまっているというケースもあります。GAFAといった私企業がインターネットにおける表現の場を占有しているため、そのような私企業に嫌われるとインターネット上で表現ができなくなるという問題は確かにあります。しかしそこで問題視されるべきは、そこでいかに私企業に嫌われない様にするために、キャンセルカルチャーを押さえ込むかではなく、そのような私企業が表現の場を独占してしまっている状態なわけで、キャンセルカルチャーとはそもそも関係ない問題なのではないかと、僕は思うのです。
公的領域における表現について
そして最後に公的な領域について。
公的な領域に当てはまるか判断する3つの要素として
という要素があります。
そして、表現との関連において重要なのは、3番目に「誰に対しても開かれている」という点にあります。私的領域における表現のように、その表現をしたり、また表現を受け取ったりするものを限定することはありません。そして市場領域における表現のように、「貨幣を稼げるか」によって、表現が制約を受けることもありません。
なぜこういった「限定のないこと」「制約のないこと」が重要なのかといえば、そのような限定・制約がない故に、私的領域・市場領域においては自らの表現をしにくいマイノリティや社会的弱者に、表現の場が与えられるからです。
故に公的領域における表現については、私的領域・市場領域における表現への抗議とは違い、よりデリケートな扱いが必要になると言えるわけです。
公的領域における表現はどのように取り扱うべきか
では、公的領域における表現はどのように取り扱うべきなのでしょうか。
まず最初に挙げた3つの内
- ほぼ社会の成員全員が既に共有している倫理に反する表現
- 「私」が信じている倫理に反する表現
については、それほど悩まず取り扱い方が導けるでしょう。ヘイトスピーチのような表現は、公的な場だからこそ許すわけにはいかないし、そのような表現が為された場合には抗議して撤回させることがむしろ好ましい。一方で、「私」が信じている倫理に反しているだけなら、それは認められるべきであり、抗議によって撤回させるというのは、公的な領域を私的に占有することで、好ましくない。
問題となるのは
- 今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理に反する表現
です。
僕がこの段階におけるキャンセルカルチャーについて危惧するのが、マジョリティによるマイノリティへのモラル・パニックが、「表現への抗議活動」の形で現れることが往々にしてあるからです。マイノリティによる表現に対してマジョリティが「反道徳的だ」と抗議活動を起こし、結果行政が表現に介入したり、表現を中止させるということは多々あります。
一方で、異議申し立てとしての抗議活動は、社会全体の進歩のためにも、認めるべきでしょう。ところが、ある抗議活動があったとき、それが単なるモラル・パニックなのか、異議申し立て活動なのかはアプリオリに言うことは出来ないわけです。では一体どのように取り扱うべきなのか。
一つ言えるのは、抗議の中で、抗議する側とされる側に対話を模索する可能性を見いだそうとしているかが、重要になってくるのではないかという点です。つまり抗議をする側も、ただ表現を中止するよう言うのではなく、「そのような表現に対して私たちはこういう理由で悪いと思って抗議するが、何か反論はあるか」と、対話を求めるような抗議をすべきだし、抗議される側も、没交渉に抗議を無視したり、あるいは抗議を受けてすぐ表現を中止するのではなく、相手の言い分を聞いた上で、「でも私たちはこういう表現をしたいのです。この表現はこういう理由で肯定されるべきです」と応答すべきでは、ないでしょうか。
むしろ、昨今のキャンセルカルチャーの問題とは、表現への抗議活動それ自体ではなく、抗議活動の中にこういう対話への契機が一切見いだせないことなのかなと、僕は思うのです。