おじさんの困難とは「望んでないのに偉くなる」ことなのかも
あままこです。去年の11月に、37歳になりました。……37歳!?と、自分でも信じられませんが、37歳です。
20代後半から30代前半だと、まだ「お兄さんか、おじさんか、微妙なところだよなー」とか思う余地がありましたが、37歳だと、流石に、その二分法で言うならおじさんでしょう。少なくとも、完璧におじさんになる40代も、あと数年です。
そしてそんな折、インターネットでは「mixi2では知らないおじさんが乱入しないSNSを目指します」発言に、まさに知らないおじさんたちが(図星を突かれて)怒っていたり
はたまた、「『嫌なおじさん』にならないようにするにはどうすればいいか、藤井隆氏に聞いてみた」みたいな記事が注目を集めているわけで、
「おじさんとはなんだろう」ということを考えさせられるわけです。
……でも、そもそも何で考え"させられる"のかなー?
「かつて会った、嫌なおじさんたち」というトラウマ
理由の一つには、「かつて会った、嫌なおじさんたち」というトラウマがあり、そのようなおじさんになりたくない、という思いがあるからでしょう。まさしく、藤井隆氏のインタビュー記事のように。
その「嫌なおじさん」というのは、別にあからさまにハラスメントをしてくる人に限りません。人が悩んでいると訳知り顔で「あー、そういうの、俺も昔は悩んだよ」とか言ってくるおじさんも嫌だし、知識量でマウントしてくるおじさんも嫌い。じゃあ若者の理解者づらしているおじさんが良いかといえば、それもそれでなんかウザいし、年甲斐もなく若者文化の場に「俺も仲間に入れてくれよー」とか言って入ってくるおじさんは、年齢に合わせた居場所を見つけられなかったんだなと感じて、見てるだけで惨めになってくる。
このように、自分がおじさんとなった今でさえ、「過去にあった嫌なおじさんの思い出」はホントすらすら出てくるわけです。だから、そういう嫌なおじさんにならないように必死でロールモデルを探す。少なくとも、周りに、手本になるようなロクなおじさんはいないから、テレビをみてみたりして。
しかし、じゃあそうやってテレビを付けて「よし、自分も藤井隆みたいになろう」とか「自分も関根勤を目指そう」みたいに思ったとしても、簡単にそんな存在になれるわけがない。ていうか、なれるんだったら、別に意識せずとも自然になっているわけで。
なにより、そうやって「若者に嫌われないようビクビクしているおじさん」というのも、自分がかつて「嫌だなぁ、こんなのになりたくないなぁ」と思ったおじさんなのです。
「おじさん」の嫌らしさとは、偉そうなこと
しかし、なんでおじさんって、そんな嫌な存在なのでしょう。
まあ理由は色々あると思うのだけれど、若い頃の僕が一番嫌だったのは「偉そう」だったからです。
ハラスメントおじさんや知識・経験マウンティングおじさんはその代表格ですが、若者と可能な限り対等であろうとするおじさんにも、「本当はお前らより偉いのに、わざわざへりくだって対等な立場まで降りていく自分ってなんて偉いんだろう」というエゴイズムを感じるし、「自分なんか無駄に年を重ねただけですよ」と自分を卑下するおじさんも、年を重ねる中で自分が偉い存在になってるのに、その地位と責任を引き受けていないズルさを感じる。
個人がどんな心持ちでいようと、社会的におじさんが偉いものとされる以上、それによほどうまいテクニックで抵抗しなきゃ、偉さがまとわりついちゃうんですね。*1
偉さって、どうすりゃいいんだ?
しかし、そうやって偉さに抑圧される青年期を抜けて、おじさんとなり、「はい、おじさんになったからこれ渡すね」と、偉さを渡されると、こう思ってしまうわけです。
「これ、どうすりゃいいんだ?」と。
ここで欲望ギラギラの昭和人間だったら、それこそ「この偉さを使って若い女の子を手籠めにしてやるぜー」とか思ったり、あるいは「自分にやっと与えられたこの偉さを使って、世界や組織を俺の望む姿に変えてやるぜ」とか思えるんだろうけど、そんな大層な欲望が、ゆとり世代にあるわけもなく、ただ手持ち無沙汰でふらふらしてるぐらいしか、できないわけですね。
勝手に仮想敵にされ、リスペクトされる
ところが、そんな風に手持ち無沙汰でふらふらしてるのに、周りの若者は勝手に「あの偉そうなやつをやっつけてやる!」とか言って仮想敵に仕上げてきたり、あるいは「いやー、おじさんはやっぱ知識も経験も豊富だな」とか言って、リスペクトしてくるわけです。
でもまあ、仮想敵にしてくるのはまだいいんですよ。むしろその方が、対等に思ってくれてありがたいし、仮に僕が無様に負ければ「あいつ、偉そうに見えて弱っちいじゃん」と蔑まれ、偉さを手放せる。まあ、蔑まれることはムカつきますが、偉さを手放せることは、正直ありがたいわけです。*2
それより厄介なのは、勝手にリスペクトしてくる人らです。これは、現実社会に特に多い。
こっちは、なんにも尊敬されず、まともに相手にされないことを前提に、それを逆手に取って極論・暴論を言うことで、注目と承認を集めてきたんですよ。「知識も経験もないバカな若者が、また考えの浅いことをやってるよ」とか普段は嗤われながら、一方で「そんな馬鹿だからこそ、たまーに『王様は裸だ』みたいな真実を突くんだよな」と思われたりする。そういう道化師的立場に特化して、色々発言したり行動したりしてきたわけです。
ところが、別にこっちはその戦略を何も変えてないのに、年齢が上がったってだけで勝手に「やっぱおじさんの意見は傾聴に値するな」と、態度を変えてくる。言ってることはホント若い頃から何も変わってない言葉なのに、それを聞く側が勝手に「いままでの人生における経験や知識に裏付けされた発言は、やっぱ違うな」と、解釈するわけです。
で、更に素直な若者なんかは「おじさんの発言を信じてみます!」とか言ってくるわけですよ。もうね、アホかと、馬鹿かと。この僕のどこを見て、「こいつの発言を信じよう」と思えるのよ。ChatGPTとかのほうが断然信頼できるでしょ。
嫌なおじさん・ビギンズ
まあ、実際はおじさんを宥めすかすためにお世辞言ってるだけで、本当は「あんな負け犬のこどおじのこと、誰がまともに相手するかよ(笑)」とか思ってる*3んでしょうが、万が一にもまともに受け取ってたらどうしようと考えると、やっぱ「きちんとしたこと言わなきゃな」と思うわけです。
しかし、今まで社会の片隅でくだらない妄言吐いてキャッキャウフフしていた人間が、ある一定の年齢になったからと言って、いきなりそんなきちんとしたことを言えるわけない。
結果空回って、まさしく昔の自分が「このおじさんウゼェなぁ」とか思ったであろう説教だったり、もう今の時代、コンプラ的にアウトで笑えないネタを口走ったり、過去の思い出語りをしてしまう。そして、それに愛想笑いをする若者を見て「ああ、昔自分がなりたくなった『嫌なおじさん』になってるなぁ」と自己嫌悪するわけです。
ここで、何も発言せず、ただニコニコ座ってるだけのおじさんでいられればいいんでしょう。しかし、この年齢になっても、きちんとしたライフコースで成長してこなかった人間としては、やっぱりまだ注目もされたいし承認もされたいわけで、そこまで諦めの境地に立つこともできない。
一体、どうすりゃいいんでしょうね?
「下駄の脱ぎ方」は、おじさん自身が見つけなければならないーしかし、どうやって?
ただ、そういう風に自己嫌悪に陥る一方で、「これって、恵まれた悩みだよなぁ」ということも、また理解するわけです。
それこそフェミニズム的に言えば、おじさんというのは典型的な「特権という下駄を履いた存在」です。何も努力しないで勝手に「話を聞くべき存在」の地位を手に入れた存在。なのに「そんなの自分が望んだことではない」と文句を言う。私達は、頑張らなきゃその下駄を手に入れることはできないのに……と。同じようなことは、若者からも当然思われていることでしょう。
下駄は、その下駄を持たない女性・若者の努力によって「脱がさせてもらう」ではなく、自分を含めたおじさんたち自体が、自分で脱がなければならない。
しかし……この下駄って、一体どうやって脱げるんでしょうね?
*1:逆に言えば、「良いおじさん」というものは、心持ちの問題と言うより、コミュニケーションの技法で偉さを漂白しているおじさんといえる
*2:にゃるら氏が自分のアンチに喜ぶの(https://x.com/nyalra/status/1878836359869411623)も、こういう心理からかもなと、勝手に想像したりする
*3:というか、そうであってくれ