あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「毒親」は本当に親だけの責任か?

どーも、最近プロセカ
pjsekai.sega.jp
にハマりっぱなしのあままこです。ちなみに推しキャラはえむちゃんです。


さて、今プロセカでは、「迷い子の手を引く、そのさきは」というイベントが行われていて、そこで「25時、ナイトコードで。」というグループの「朝比奈まふゆ」というキャラクターの物語が展開されているわけです。が……


これがまた、「アプリゲーでこんなシナリオやっていいの?」と思うぐらい、暗く重いシナリオなんです。


概略を説明しますと、朝比奈まふゆというキャラクターは、家や学校では、母親が求めるような学業優秀な優等生として振る舞っているんですが、心の奥でその親の期待に押し潰れそうになっている少女なわけです。で、そんな少女が、「25時、ナイトコードで。」という、夜にグループチャットで集まって音楽を作ることに、唯一救いを見出すわけです。


ところが、今回のイベントでは、そんなまふゆが母親から「学業のために音楽をやめなさい」と言われるわけです。少女はそんなの嫌なわけですが、しかし母親に反抗することができない。その背景にあったのは、幼少期のあるエピソードなわけです。詳細は、ぜひゲームをやったり、プレイ動画を動画サイトで見るなりして調べてもらいたいのですが、これがまあ実にリアリティのある、「ああこういう感じで子どもを支配したがる親っているよね」という、イヤーなエピソードになっているんですね。


で、そのシナリオを読んでいるプレイヤーの身としては当然こう憤るわけです。「なんて嫌な親なんだ!こんな毒親がいるからまふゆは不幸になるんだ!」と。


しかしそもそも、何で、そういうふうに子どもに期待を押し付け、子どもを支配する、いわゆる「毒親」が生まれるんでしょう?

メディアで様々に表彰・告発される「毒親

毒親」というのは、最近インターネットで流行っている言葉の一つで、意味は下記のようなものになります。
ja.wikipedia.org

毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒になる親の略で、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉である。学術用語ではない。スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。

そして、上記記事でも書かれている通り、近年「私はこういう毒親に育てられた!」という告発が多くされるようになりました。それこそ直近でも、漫画家である西原理恵子の娘がそのような告発を行い、大きな話題となりました。
news.allabout.co.jp
また、マンガ・アニメ・ゲームといったサブカルチャーでも、「毒親」的なものは多く取り上げられています。先に上げたプロセカのシナリオもそうでしたし、『タコピーの原罪』という話題になったWebマンガでもそういった存在に苦しめられる子どもたちが描かれたり

とらドラ!』という、ライトノベル及びそれを原作にしたアニメでも、「毒親」的な親と子の確執が描かれたりしました。今ではもはや古典となっている「新世紀エヴァンゲリオン」だって、主人公の二人であるシンジとアスカは共に、親子関係に大きな問題を抱えていたわけです。(ちなみに、「新世紀エヴァンゲリオン」の頃は、毒親という単語は使われず、むしろ子ども側の方を「アダルトチルドレン」という言葉で呼ぶのが主流だったりしました。そのように、「どのようなタームで問題を捉えるか」という変化も、大変興味深かったりしますね。)


このように、「毒親」という問題は、インターネットや若者文化においてはよく取り上げられます。


更に昨今では「親ガチャ」という言葉も流行しています。
blog.tinect.jp

最近、親ガチャ、というネットスラング(俗語)を見かけることが増えた。

親ガチャというスラングは、ソーシャルゲームなどのガチャにかこつけて、望ましくない親元に生まれたことを呪ったり嘆息したりするために使われる。

上記の記事で述べられているとおり、「親ガチャ」という言葉は、毒親という問題を内包しつつ、さらに範囲を広く「親がどういう存在であるかによって子どもの運命のすべてが決まる」ということを呪う言葉なわけです。このように、「親が子どものすべてを決める」という宿命論は、広く人々に信じられています。


そして更にそこから、上記の記事で言うように「欠陥のある人間が子どもを産んだら、子どもは不幸になるしかないから、そういう人間は子どもを生むべきではない」という、括弧付きの「反出生主義」が流行したりしているわけです*1

「子どもを不幸にしてはいけない」という強迫観念こそが、毒親を生み出すのではないか?

しかし僕はここで考えるのです。「そうやって親の存在を絶対視し、『親がどういう育て方をするかによって子どものすべてが決まる』と、人々が広く考えるからこそ、毒親が生まれるのではないか?」 と。

毒親や親ガチャという単語が普及し、「親が間違った育て方をすれば、子どもは不幸になる」という考えが広まれば広まるほど、「だから正しい子育てをしなければならない!」という親へのプレッシャーは大きくなります。より良い学校に行かせて、友人も含めた周囲の環境も最良なものにして……しかし、そうやって親が子どもに過干渉することこそ、子どもにとっては重荷になったりするわけです。


記事の最初で挙げた朝比奈まふゆの例はまさにその典型的な例といえます。確かに子ども側の視点から立てば、親は理不尽な干渉を子どもに強いてくる存在です。しかし親側がなんでそういった干渉をするかといえば、悪意ではなく、むしろ善意からなんですね。「将来不幸にならないために、きちんと環境を整えてあげなければいけない」というように。そして、その背後にあるのは、「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」という、社会的な強迫観念なのです。

社会福祉がどんどん削られていくなかで、頼るものが親しかなくなっている

ここで強調したいのは、このように「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」となるのは、決して自然に生じたものではないということです。


例えば、僕の親ぐらいの世代、1960年代生まれぐらいまでの人の話を聞くと、よく「大学生の頃、親の反対を押し切って二人暮らしを始めた」という話を聞いたりします。いわゆる「四畳半フォーク」の世界です。
ja.wikipedia.org
しかし、同世代の人々にそういった甘酸っぱい経験をした人はほとんどいません。なぜなら、学費・家賃が高騰し、賃貸も保証人が必須となる中で、「親の助けなく大学生活を送る」というのは、かなり難しいからです。
www.jcp.or.jp
bigissue-online.jp
僕の年上の世代は、よく尾崎豊の「十五の夜」なんかを引き合いに出しながら、「今どきの若者には反抗心がない」と言ったりします。しかし僕ら世代からすると、僕より上の世代が反抗できたのは、結局親とかに反抗しても、何とかやっていける程度に社会が豊かだったからじゃないかと、思うわけです。そういう豊かさを社会から奪っておきながら、「最近の若者は反抗心がない」と愚痴るのは、ちょっと無責任なんじゃないかと、思ったりします。


話をもとに戻すと、昔は社会が豊かだったからこそ、親の庇護から外れてもまあまあ生きることが可能だったんですね。だから、親が毒親のような存在でも、「いざとなら家を出ればいい」と思えたし、完全に家から出なくても、少なくとも「親の庇護がなくても自分は生きられるだろう」という安心があったわけです。


ところが現代においては、社会全体が貧しくなる中で、若者が親の庇護なく生きることはほぼ不可能になりつつあるわけです。そうなると、親側も「きちんと子どもを庇護しなければ、子どもは必ず不幸になる」と思ってしまうし、子ども側も「親に従って庇護を受けなければ、自分は生きていけない」と思い、親が毒親であっても、そこに依存せざるを得なくなるわけです。


「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」というのは、決して自明のことではなく、このような日本社会の状況を背景にした上での、強迫観念なのです。

毒親はひどい!」と憤るだけでなく「何で毒親みたいなものが生まれるのか」と一歩引いて考えることが大事

多くの人にとって「家族」というものは、とても大事なものです。そしてそれ故に、そういった家族の中で生じる、「毒親」のような不幸は、現実でもフィクションでも大きく心を動揺させます。「こんなひどい親許せない!」と。


もちろん、そうやって憤ることが必要な場面もあります。特に毒親によって被害を受けた当事者にとっては、「自分が不幸なのは自己責任ではなく、親がひどかったからだ!」という気づきを得ることによって、自尊心を復活させることもありますから、毒親を非難することが一概に悪いとは言えません。


しかし一方で、「毒親によって子どもが不幸になる!」ということをことさらに主張することは、先に記事で述べたように、むしろ親たちを追い詰め、彼・彼女らを毒親になるよう追い込んでいるという側面もあるわけです。


そこで一歩憤りから身を引いて、「では何で毒親が生じてしまうのか」、「毒親を生み出してしまうこの社会」とは何なのかといったことを考えることも、憤りとともに、必要なのではないかと、僕は考えるのです。

*1:ここで僕が「括弧付きの」という注釈をつけたのは、欧米で哲学タームとして生み出された原義の反出生主義とは、指し示す内容がだいぶ異なってきているからです