あままこのブログ

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「フェミニスト原則」だけでどうにもならないから今の混沌があるんじゃないの

swashweb.net
TLでは結構絶賛されていて、「真のフェミニズムってこういうことだよな」みたいなことを書かれている上記の声明文。
ただ、どうも僕は読んでいて納得がいかないんですね。
いや、良いこと書いてあるとは思うんですよ?「すべての人々が解放されるまで私たちは戦う」とか、「私たち全員が自由になるまで、私たちの誰も、自由ではない。」とか、確かにスローガンとしては否定しようがない良いことではあるし、そんな良いことに反対するツイフェミたちは悪魔なんじゃないかと、そうも言いたくなるでしょう。
でも、僕は思うんですよ。
「そんな原理原則だけでは解決できない問題があるからこそ、今の混沌があるんじゃないの?」と。

ある人・グループの人権を尊重することが、別の人・グループの人権を毀損するという矛盾

例えば、上記の声明文では、以下のように書いて、すべての人の人権が尊重されることが重要だとしています。

人権は、ジェンダー性的指向ジェンダーアイデンティティジェンダーの表現、性的特徴に関係なく、すべての人にとって固有のものです。
すべての人々には、奪うことができない権利と、自由を実現し行使する権利があり、どんな個人や機関にも他者の基本的人権を侵害する権利はありません。
どのグループの人々の人権の実現も、他のグループの権利の犠牲の上に成り立つものではありません。

しかし現在起きている問題というのは、「ある人・グループが『これは私たちの人権だ!』と主張する表現・行為が、別の人・グループにとっては『それは私たちの人権を抑圧するものだ!』となる」という問題だったりするわけです。要するに、「他のグループの権利の犠牲の上に成り立つ人権」が、様々な場所で主張されているのです
例えば、「女湯にトランスジェンダーが入っていいか問題」とかもそうです。トランスジェンダーの人たちにとっては、自らの性自認に基づいて女湯に入ることは、自らのジェンダーアイデンティティに基づく行動であり「人権」となる。しかし、それを嫌がる女性にとっては、「女性だけの空間」を持つというプライバシー兼を侵害する、「人権侵害」となるわけです。
あるいは「公共空間においてどのような性的表現が許されるか問題」もそうです。それこそラブライブ!サンシャインのパネル騒動
amamako.hateblo.jp
や、あるいはフラワーデモ京都において裸で抗議活動を行った人がいたことが賛否を呼んでいる騒動


にしても、ある人達にとっては「性的表現を公共の場で行うことは表現の自由によって許されるべきだ」となる一方で、別の人々にとっては「性的表現を公共の場で無理やり押し付けられることは人権の侵害だ」となるわけです。
もちろん、これらに対し、「一方の側の主張は正当な人権の主張であり、別の側は単なるわがままで人権の主張とは言えない」と言うことはできます。ですがそれなら、「人権とわがままを分ける境界線は何か」というところまできちんと示すべきで、それを示さずにただ「全ての人の人権は尊重されるべき」と言っても、現実の問題の解決には何も寄与しないでしょう。

他人の人権を抑圧する「性的指向ジェンダーアイデンティティ」だって存在するよね?

さらに言えば、上記の声明文は

性的指向ジェンダーアイデンティティジェンダーの表現、性的特徴を変えようとする力を拒否する権利、そして尊厳を持ち、恐れることなく生きる権利

を人権として主張していますが、性的指向ジェンダーアイデンティティの中には、それを完全に発露しようとする限り、他人の人権を抑圧するものとしかなりえない性的指向ジェンダーアイデンティティもあるわけです。
例えば小児性愛なんかはその最たるものでしょう。判断能力が未分別な子どもに性愛を抱くことは、それが完全な状態で発露されれば子どもの人権に対する侵犯にしかならないわけです。しかし、この声明を字義通りに解釈するなら、小児性愛者にすら「変えようとする力を拒否する権利」が与えられてしまうことになるわけです。しかしそれでは子どもの人権が傷つけられることを防げないわけで、結局自己矛盾に陥ってしまうのです。
その他にも「同意なき性交を求めてしまう性的特徴」とか「他人の心身を傷つけることでしか満足できない性的特徴」というように、他人の人権を抑圧する「性的指向ジェンダーアイデンティティ」は色々あるわけで、しかしこの声明に則ればそれらのものですら「変えようとする力を拒否する権利」があるということになってしまう。その行き着く先に待ってるのは、結局「自分の性的指向を満足できる力を持った人が満たされ、そうでない人は抑圧される」という、最悪の弱肉強食社会なんじゃないでしょうか。

必要なのは「原理原則に基づく断罪」ではなく、「相手の言い分を聞いて落とし所を見つける」ことでは?

上記の声明文は「フェミニスト全員が共有すべき原則」として提出されています。そしてこのような声明文が提示された理由は、おそらく、この声明文に反対する立場を「反フェミニスト」として運動からパージし、政治的に貶めるという思惑があるのでしょう。
ですが、そうやって自分たちと意見が異なる人達を「敵」として攻撃することをしたって、結局待ってるのは「どっちがヘゲモニーを奪取できるか」という政治闘争でしかないわけです。そして、政治闘争に勝った側が負けた側を抑圧する、そんな権力構造の再生産でしかありません。
フェミニズムを含め、政治思想というのは、本来そういう政治闘争によって勝ち負けが決まるのを拒否し、「公正さ」を社会にもたらすために存在してるのだと思います。しかし上記の声明文は、現実の「不公正さ」を無視して、空虚な原理原則に基づき、敵対者を断罪するものにしかなっていないように思えてなりません。
僕が、反トランスジェンダーのツイフェミ、そしてそれに敵対するフェミニスト双方を見て思うのは、「何で双方、『相手が何を不安に思ってるか』を理解しようとしないんだろう」ということです。
例えば女湯問題にしても、原理原則は置いておいて、まず「自分の性自認通りの場所に入ることが出来ない悔しさ」や「自分を抑圧する性の持ち主が侵犯してくる恐怖」といったものを、そもそも双方が理解できていないように思えてならないんですね。そこを理解して、「あなたたちの気持ちも分かるけど、でも自分たちの気持ちもわかってほしい」という立場を双方が共有できれば、意見が対立してもここまでこじれることはないと思うわけです。
同じことは、公共の場での性的表現といったことや、未成年の性的同意といった問題にも言えます。相手の主張を原理原則に基づいて断罪する前に、まず相手の抱く不安・恐怖に理解を示すって、そんなに難しいことなんでしょうかね?
と、こういうことを書くとまた「この日和見主義者め!」と双方から叩かれるんだろうなぁ……