あままこのブログ

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カタールワールドカップに対してどういう態度を取れば良いのか

amamako.hateblo.jp
とりあえず記録として上記の記事を書いたわけだけど、当たり前のこととして今回のカタールワールドカップに対する立場は、上記の記事で示したような、2項対立に収まる物では本来無いです。

今回のカタールワールドカップや、その大会における様々な表現・活動、及びそれに参加しているサッカー日本代表への評価というものは、以下の様な要素が折り重なった中で重層的に下されるものだと思います。

  • スポーツにおいて反差別であったり、政治的なメッセージは持ち込んでいいのか
  • カタールの反同性愛は「文化の違い」として容認されるべきなのか否か
  • 日本代表を応援しなかったり、嫌うことは許されるのか

しかし、スポーツというものの熱狂の中では、上記のような複雑さというものを無視して、「で、結局日本代表を応援するのしないの!」という単純な二項対立に還元されてしまいます。

そこで、敢えてそういった熱狂から距離を置いた考察も必要なのでは無いかなと思って、本記事を書きます。

スポーツにおいて反差別であったり、政治的なメッセージは持ち込んでいいのか

前回記事において紹介したように、ネット上では「政治的メッセージにうつつを抜かしたドイツ代表を、サッカーのことだけ考えた日本代表が打ち負かした」という、ざまぁ的ストーリーが存在します。

なぜそのようなストーリーが生まれたかと言えば、西欧各国で今回のワールドカップに対し、カタールの反LGBTであったり、大会準備における移民労働者の人権侵害といった問題が批判され
www.huffingtonpost.jp
その様な流れの中で、ドイツ代表もまたそのような差別を問題視する表現をしていたこと
www.afpbb.com
www3.nhk.or.jp
一方で、そのような表現に対し、FIFA会長や日本サッカー協会田嶋幸三会長が、「偽善」「サッカーに集中しろ」などと発言していたこと
www.bbc.com
www3.nhk.or.jp
といった背景があるわけです。

ただ、実際本気で「政治的なメッセージのことばかり考えていたからドイツが負けた」と考えている人はほぼ居ないでしょう。そうでなく問題は、「例え反差別といったメッセージであろうと、政治的なメッセージをスポーツの場で表現して良いのか」ということです。

まず最初に言っておきたいのが、このような問題系は、別に今になって始まった問題ではないということです。それこそ1968年メキシコシティオリンピックで黒人選手が拳を高く挙げた頃から、スポーツと政治・差別の問題はずっと人々の頭を悩ませ、そして明確な答えは今も出ていません。
ja.wikipedia.org

まず一つ問題として存在するのが

  • スポーツに政治を持ち込んではいけない

というテーゼについての妥当性です。

このテーゼ、一見妥当なものに思えます。政治的争いがスポーツに持ち込まれることで、スポーツが政治的対立を激化してしまう恐れから、政治には一切関わらないようにしようという態度です。
sports.yahoo.co.jp
ja.wikipedia.org

しかし一方で、2008年・2022年の北京や、2014年のソチ、そして2022年の東京のように、スポーツイベントというものは、その開催を行うこと自体が、その開催地の政治権力を持つものの「手柄」となるわけです。つまり、政治がスポーツを利用しているわけで、それに対しスポーツ側がただ政治的中立を保っても、結局開催国の権力者の政治に利用されるだけになってしまうのではないか、という声もあるわけです。

そして更に言うなら

  • 政治的メッセージは許されないけど、反差別や人権擁護といったメッセージは政治的ではないメッセージだから許される

という立場もありえます。下記のようなツイートがその代表といえます。

2006年のドイツワールドカップ大会では、「Say no to raicism」というキャッチフレーズのもと人種差別反対キャンペーンが行われましたが、これもまた、「差別反対は政治以前の問題」という立場に基づくわけです。
kotobank.jp

しかし一方で、このような立場もカタール側からすれば、「同性愛者を差別することはイスラム教の文化であり、それを西欧が自らの価値観を押しつけてねじ曲げようとすることは政治的圧力に他ならない」となるわけです。

カタールの反同性愛は「文化の違い」として容認されるべきなのか否か

カタールにおいて同性愛は違法であり、LGBTの人々は逮捕・暴行などの脅威にさらされています。
www.huffingtonpost.jp

11月にサッカーW杯が開催されるカタールで、現地の治安部隊がLGBTQ当事者を恣意的に拘束し、拘留中に暴行しているとする報告書を24日、国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチが発表した。

発表によると、同性愛を法律で禁じているカタールでは2019年から2022年の間に、拘束したLGBTQ当事者に対して留置場で繰り返し激しく殴打するケースが6件、セクシャルハラスメントが5件あったという。

また、聞き取り調査に応じたトランスジェンダーの女性4人、バイセクシュアルの女性1人、ゲイの男性1人の計6人全員が、カタール内務省の予防保安局の職員によって、ドーハのアル・ダフネにある地下刑務所に拘留されたと証言。そこでは、言葉による嫌がらせだけでなく、出血するまで殴ったり蹴ったりする身体的虐待もあったという。

しかし、このようなカタールの反同性愛について、日本のネットではあまり厳しい声は上がっていません。その背景には、前回の記事で紹介した以下の発言のように

35 22/11/24(木)15:29:57No.996787623
他国の文化に敬意も払えないアホどもが一丁前に伝道師気取りしてるの擁護する人って…

  • カタールの反同性愛はその国の文化なのだから、他国の人はその文化を尊重すべきで、『同性愛差別はいけない』という西欧の価値観を押しつけるべきでは無い

という考えがあるわけです。

このような考え方は「文化相対主義」と呼ばれます。
ideasforgood.jp

文化相対主義とは?
文化相対主義(Cultural Relativism)は、すべての文化は対等であり、外から見た価値観によって優劣をつけられるもののではないという思想である。

ある文化で正しいとされることが、別の文化では間違っているとされることがある。文化相対主義はある文化が他の文化より優れているということはなく、単に異なるだけだということを意味する。

この文化相対主義に基づけば、カタールイスラム教文化に基づく反同性愛は、別に他の文化から「劣ってる」「間違っている」と言われる筋合いのものではないということになります。

しかし一方で、上記解説に示されるように文化相対主義には問題点もあります。

また文化相対主義は、道徳的な問題も抱えている。

「嬰児(えいじ)殺し」の文化を例に挙げよう。古代ギリシア都市国家スパルタでは、奇形児は生まれてすぐに殺されることになっていた。文化とはいえ、経済的、宗教的な理由など、さまざまな理由から生まれて間もない赤ん坊を殺してしまうことは、現代の価値観からすると正当化できるとはいえない。けれど文化相対主義の観点からは、その慣行は現に受け入れられていることとして捉えられる。そのため、文化なのだから正当化できる、となる。

一部の国や地域で行われている「女性器切除」についても同様で、地元では文化的慣習であると主張されているが、多くの国際人権団体の間では女性に対する人権侵害であり、心身にも有害な影響を及ぼすとして懸念を呼んでいる。

そしてそのような考え方に対抗する物として、「普遍主義」というものが存在するわけです。

「普遍主義」もまた、文化相対主義とは異なる考え方である。普遍主義は「個別のものよりも、多くの、あるいはすべてのものに共通する事柄を尊重する立場」を意味する(出典:小学館 デジタル大辞泉)。

普遍主義の問題といえば、フランスにおけるイスラム教徒の女性が着用するブルカやニカブを巡る論争が挙げられる。フランスでは2011年にブルカやニカブなど、顔のすべてを覆うベールを公共の場で着用することを禁じる法律が施行された。

フランスは共和国原理として普遍主義を掲げている。フランスの普遍主義は文化、人種、宗教、民族、性によって区別されることなく、法のもとで市民の平等を保障する立場をとる。その一方で、少数派、特に民族や人種を取り上げると社会に分断を生むとされ、人々に文化的同化を唱えている。すなわち、公的空間では文化的な差異を認めていないことになる。

カタールLGBTや移民労働者などへの人権侵害を批判するのはまさにこの「普遍主義」に基づく考え方なわけです。
例えば先のツイートに挙げられていた1993年のウィーン宣言では、以下の様な条文があります。
www.kobe-u.ac.jp

5 〔すべての人権の相互依存性〕 すべての人権は普遍的であり、不可分かつ相互依存的であつて、相互に連関している。国際社会は、公平かつ平等な方法で、 同じ基礎に基づき、同一の強調をもつて、人権を全地球的に扱わなければならない。国家的及び地域的独自性の意義、 並びに多様な歴史的、文化的及び宗教的背景を考慮にいれなければならないが、すべての人権及び基本的自由を助長し保護することは、 政治的、経済的及び文化的な体制のいかんを問わず、国家の義務である。

つまりここでは「いかなる文化を持とうと基本的人権を尊重することは国家及び国際社会の義務だ」と言っているわけですね。基本的人権は文化の上位にあるのであって、同性愛差別がイスラム教の文化であろうと、国家・国際社会はLGBTの人権を保護しなければならないというわけです。

そのような立場に立つならば、カタールの反同性愛に対する考え方は

  • 例えその国の文化に基づく物であっても人権侵害は容認されないから、カタールは反同性愛をやめるべきだし、国際社会はカタールにそうするよう働きかけなければならない

という考えになるのです。

一方で、そのような働きかけがサッカーワールドカップというスポーツの場で為されるべきかについては、前項で論じてるように意見は分かれます。

日本代表を応援しなかったり、嫌うことは許されるのか

以上のように、カタールワールドカップという大会は、様々な社会的争点を内包した大会であり、当然、そのような大会に対する意見や感情も人それぞれです。

そして更にそこで問題となるのが、そのような様々な問題がある大会で日本代表が勝ったとき、その勝利にどういった態度を取ればいいかという問題です。

この問題によって炎上したのが、以下のツイートです。


このツイートに対し、Twitterはてなブックマークでは「共産党はやっぱり日本が嫌いなんですね」というような反応が多数寄せられています。
b.hatena.ne.jp
そして更に、このツイートに対して、リベラルの立場から反対意見を挙げたのが、以下の記事です。
anond.hatelabo.jp

実は、ここには二つの争点があります。第一の争点は

  • 日本人・日本の政党だったら日本代表を応援するのは当然

なのかという問題で、そして更にもう一つ争点となるのが

  • 政治や人権問題に対する姿勢で、好きなチーム・嫌いなチームを決めてもいいのか

という争点です。

まず第一の争点について。多くの人は「日本人だったら日本代表を応援するのは当然」とかんがえているようですが、しかし本当にそうなのか?

だって、別に赤の他人じゃないですかサッカー日本代表なんて。サッカー日本代表がいくら頑張ったって、別に僕自身は何も変わらないし、何か自分が偉くなったわけでも無い。それは、僕以外の多くの人も同じなわけです。

しかし、にもかかわらず多くの人は、サッカー日本代表が勝つとまるで我が事のように喜ぶ。その背景にあるのは、「自分と、サッカー日本代表の選手は国籍が一緒だから。彼らにとって喜ばしいことは自分にとっても喜ばしいものであるべきだ」という、国籍という作為的な枠組みに基づく一体感・親近感なわけです。

そしてこれは、論理に基づくものではなく、感情に基づくものです。だって、何度も繰り返しますが、国籍が同じだからといって、サッカー日本代表が勝利したって自分に利益がもたらされるわけでは無いんです。そうでなく、「国籍が同じ人が活躍することは誇らしいものだ」というイメージが植え付けられ、それによって作られた感情なのです。

そして、「日本人だから日本代表を応援したい」というのが作られた感情なら、当然それを上回る作られた感情も存在するわけです。「ドイツ代表は差別と戦い人権を擁護しようとしているから応援したい」、「それに対して日本代表は人権問題に無関心だから、日本代表は応援したくない」という感情が、それを上回ることもありうるわけです。

つまりここでは「国籍に基づくナショナリズム」と「国籍を超えた普遍的な人権思想」の二つが、イメージの領域で対立しているわけです。そして、多くの人はイメージの領域で前者が後者に優越すべきだと考えるからこそ、上記のツイートを批判しているわけです。

一方で、そのようなイメージの基づく「作られた感情」に基づき好き嫌いを決めるべきでは無いとする立場もあります。はてな匿名ダイアリーの記事はまさにその典型例と言えるでしょう。匿名ダイアリーの記事では、ツイートとそれを批判する声双方を批判し、次のように述べています。

サッカー選手たちは別に政治的主張や「お国」のために戦っているわけではない。彼らは自分のサッカーに対する想いのために、ファンのために、あとはまあ自分と家族の生活のために戦っているのであって、一度試合が始まれば政治的主張なんてものがそこに入る隙はないはずだ。それは日本代表もドイツ代表もプロである以上当たり前だろう。そういうところに土足で入って行って、「政治」を「スポーツ」に直で持ち込むこのツイートは批判されるべきだと思う。

しかし、不適切なのは羽鳥氏に限った話ではない。はっきりいうが、「日本人なら日本代表を応援すべき」「少なくとも日本代表に負けてほしいと公言すべきではない」のようなマインドから行われるこのツイートへの批判は、このツイート以下である。政治的主張どころか国籍の違いまでもをスポーツに持ち込み、自分の主義と反する主張を黙らせようとしているからだ。

これは私の持論だが、スポーツでどのチームを応援するか決めるときは「好きなチーム」を応援してほしい。より具体的にいうならば、チームに属する選手の技に圧倒されたり、選手の生き方を尊敬したり、選手の努力を見て憧れたり、監督の采配が素晴らしかったり、と言った理由で応援するチームを決めてほしい。そこに「政治的主張」とか、ましてや「国籍」「地域」なんかを持ち込まないでほしいし、ましてや「政治的主張」「国籍」「地域」によって応援するチームを決めるべきという考えを押し付けないでほしい。

つまり、ここでは「国籍に基づくナショナリズム」「国籍を超えた普遍的な人権思想」に基づく応援は、結局作られた感情だから駄目で、そうでなく「チームに属する選手の技に圧倒されたり、選手の生き方を尊敬したり、選手の努力を見て憧れたり、監督の采配が素晴らしかったり」という自然な感情に基づく応援の方が素晴らしいとされているわけです。

ですが、このような「技術絶対主義」「努力絶対主義」もまた、僕から見ると作られた感情に思えてなりません。別に玉蹴りがいくら上手くたってそれが何の役に立つというのか?努力っていうけど、それこそサッカー選手になるような人間は、少なくとも幼少期から玉蹴りに興じられるぐらい余裕があったんだから、本当に苦労してる人に比べたら……というような意地悪な批判もできてしまいます(僕がそういう風に思ってるって事ではないので、あしからず)。

僕がむしろ思うのは、「それこそ政治的な思想も含めて、もっといろいろな理由でチームの好き嫌いを決めて良いんじゃないか」ということです。例えば僕は読売新聞の政治的姿勢が大嫌いだからアンチ巨人だったりしますし、一方で鉄道好きだから西武が好きだったりします。このようなチームの好き嫌いの決め方は、まさしくはてな匿名ダイアリーの人からすると唾棄すべきものなのかもしれませんが、しかし結局「どのチームを好きになるか」なんて、どこまでいっても論理でなく感情の問題である以上、そんなにストイックになる必要があるのかと、思ったりします。

そして、感情の領域の問題は感情でとどめること。「○○という議員はうちのチームが好きそうだから投票しよう」みたいな程度の低いことはやめるべきなんじゃないかなと思ったりしますが、まあ、世の中には感情と論理の区別を付けられない○○が山ほど居るので、そこは期待しないでおきます。

人々が熱狂に包まれてるときこそ、そこから一歩離れて考えよ

とまあ、ここまで述べたように、「今回のカタールワールドカップに対してどういう態度を取れば良いのか」という問題は様々な争点を網羅し、そして、それぞれの争点に熟慮を重ねなければ、その問題に対する自分なりの答えは導き出せないわけです。

しかし、特にスポーツという分野では、こういう熟慮はおうおうにして為されず、「で、結局日本代表を応援するのしないの!」みたいな野蛮な問いが投げかけられ、その答えによって正負双方の熱狂が生み出されていきます。

まあ、世の中の多数の人というのは、そういう熱狂の中で、無思考でいることこそが楽しいみたいなので、それもまた仕方ありませんが。

ただ、僕のように、そういう熱狂を見たとき、むしろ「冷静に思考したい」と思う人もいると思います。この記事は、そんな人々の、助けになればと思って、書きました。