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セカイは果たして開かれたのか閉じられたのか―『すずめの戸締まり』考察

というわけで、『すずめの戸締まり』2回目鑑賞してきました。

amamako.hateblo.jp
公開日当日に『すすめの戸締まり』を見た感想は↑だったんですが、それから様々な考察を読んで、その考察の視点を取り入れながら映画を見てみると、1回目見たときとは大分違う感想を抱くようになりました。

そこでこの記事では、『すすめの戸締まり』についての人々の考察・レビュー記事を参照した上で、もう一度『すずめの戸締まり』という作品について考えていきたいと思います。

賛否両論分かれる『すずめの戸締まり』感想

公開から既に半月経つ中で、すずめの戸締まりについては様々な感想・考察記事が記されました。

作品を評価する肯定的な記事が、↓のように書かれる一方で

「どうもここは受け入れられない」という様に否定的な評価をする記事も、↓で示すように書かれています。

僕個人が書いた記事も、どちらかというと否定的な評価と言えるでしょう。

そして、このような評価の違いは、2つの点をどう評価するかということの違いによるものだと、僕は考えます。

その2つの点とは

  1. 悪意を排除し、優しさと善意しかない明るい存在として、日常世界や、他者・過去を描くことをどう評価するか
  2. 「みみず」という災厄を人間がどうにか出来るものとして描いていることを許せるかどうか

です。

悪意を排除し、優しさと善意しかない明るい存在として、日常世界や、他者・過去を描くことをどう評価するか

まず第一の点について。

シロクマ氏はこの作品が、『君の名は』や『天気の子』と違う点として、市井の人々の日常における営みを肯定している点を挙げています。
p-shirokuma.hatenadiary.com

と同時に、この災害の国に暮らす人々の営みも、明るく描かれていたように思う。もっとしみったれた、悲観的な営みを描くことだってできただろうけれども、『すずめの戸締り』は、それらをも肯定的に描く。スナックで皆が酒を飲むことも、芹澤が煙草を吸うことも、すずめがおばと言い争いになるシーンもだ。人が生きるということには、そういう部分だって含まれているんじゃないか、そういう問いが『すずめの戸締り』にはないだろうか。震災の後に生きること、この災害の絶えない国で生きていること、明日をも知れない今を生きていくこともだ。

 
この、「生きるって本当はこういうことだ」を肯定的に描いてみせ、希望を示すこと、それが今作『すずめの戸締り』の通奏低音で、前作『天気の子』ではあまり聞こえてこず、前々作『君の名は』でもそんなに強く聞こえてこなかったものだった。私は、ここが本作のいちばん濃いエッセンス、主題に限りなく近いものだと想像する。

ぬまがさワタリ氏は、『すずめの戸締まり』が、旅先で出会う他者を生き生きと肯定的に描いていることは、「君と僕のセカイ」に閉じこもりがちなセカイ系とは違い、守るに値する「世界」を描けていると主張しています。
numagasablog.com

 そして何より本作『すずめの戸締まり』で心打たれ、驚かされたのは、旅の途中で2人が出会う市井の人々が、丁寧かつ生き生きした描かれ方をされていたことだ。それも各キャラのあり方、彼ら/彼女らとの出会いで生じる心の動きを、言葉で説明するのではなく、しっかりとアニメーションの豊かさによって表現しているのが良いと思った。


(中略)


  新海監督といえば「セカイ系」の代表格のように言われがちだ。「セカイ系」という言葉の定義は曖昧だが、要は(恋愛を基本とした)主人公&ヒロインの閉じた関係の行く先と、世界(セカイ)の運命が直結している創作ジャンルという認識で大体OKだろう。まぁそれ自体は「セカイ系」なんて言葉を使わずとも、よくある物語の類型じゃね?という気もするし、その中で陰キャ主人公とか美少女とかオタク受けしそうな要素をもつものが"セカイ系"と呼ばれてるだけなのでは疑惑も個人的に持っているが、それはいいとして、主人公たちと世界の関係が「閉じて」いることが「セカイ系」の重要な条件とは言えそうだ。


 だが本作『すずめの戸締まり』はこうした豊かな「他者」の描写によって、主人公の物語に奉仕するだけの閉じた"セカイ"ではなく、たしかに人々が生きている、守るに値する"世界"であることが、過去作よりも段違いに力強く伝わってきた。私が本作を気に入った理由は、言ってしまえばこの1点に尽きる。

このように、『すずめの戸締まり』に肯定的な評価を下す人は、その作品で描かれる日常や他者が生き生きと肯定的に描かれていることを評価しています。

しかしその一方で、そのような日常描写に違和感を持つ人も居ます。例えば瓜田純士氏は映画内での描写について以下の様に「リアリティがない」と酷評しています。
www.cyzo.com

純士 感想というか文句のオンパレードになっちゃいますけど、観ていて邪魔と感じたのは、新海アニメ特有の小技ですね。みんなが一斉にSNSに画像をアップしたりするシーンが多かったでしょう。ああいう「今の流行りをわかっていますよ」「時代にしっかりリンクしていますよ」というアピールがいちいち邪魔だし、クドいんですよ。余計なことすんな、って感じ。緊急地震速報の警報音にしても、しつこすぎる。


 そのくせ新海は相変わらず、女のことを全然わかっていない。途中、すずめと同い年なんだけど、ちょっとオマセな民宿の娘・千果が出てきたじゃないですか。そいつがまた、やってくれましたよ。なんと、口紅をしたまま寝るんです。「そんな女、いねーよ!」って腹が立っちゃって。

id:Dersu氏は、東日本大震災を舞台に設定し、原発をチラ見せしながら、そこに深く触れない煮え切らなさを批判しています。
pencroft.hatenablog.com

そりゃあ「すずめ」に出てくるトビラだってミミズだってオケラだってフィクションであり(オケラ出てない)、災害を防ぐために奔走する若者の話ではある。しかしその先に現実の311を提示されると、我々は311とその後に何が起こったかを思い出さざるを得ぬ。つまり原発事故だ。この映画でも、わずかながら触れている。帰宅困難区域の看板。丘からの遠景で画面の端に見える福島第一原発。「ここが? きれい…?」という会話。除染土の黒いフレコンパック。それらの搬出のためか、対向車はトラックばかり。しかしハッキリ言ってどれもチラ見せにすぎず、一応触れておきましたというアリバイ以上のものにはオレは感じられなかった。これらさりげない原発の描写を初見で見抜く人は、何割ぐらいいるのだろう。被災地の現状をよく知る人なら、すぐ判るだろう。恥ずかしながら、オレにはよく判らなかった。いやでもそんな、完全に原発知らぬフリの筈がないやろと思って2回目を観に行ってやっと判った。しかし、判ったからどうなんだという気もしてる。


原発事故をなかったことにしてはダメだと思う。しかしこのようにハンチクに触れてやり過ごすことで、映画がどれほどマシになるのか、そもそもマシになったのかという疑念は拭えなかった。現実の311を物語のド真ん中に置きながら現実の度し難さを描くことに、腰が引けてはいないだろうか。長州力に「またぐなよ」とカマされてまたげない大仁田厚の如き状態に、この映画が陥ってはいないだろうか。

そして茂木謙之介氏は、この映画が死者の声、無念さや怒りというものを意図的に忘却していると批判しています。
www.tokyoartbeat.com

そして、その思考が前提にあるが故に同映画では他にも排除される存在がいることに気がつかされる。それは、災害による死者である。


死者が物語から排除されていることは物語のクライマックスであからさまに描かれる。常世において、東日本大震災で命を落とした母を求めて泣き叫ぶ幼いころの鈴芽(個人的にはこの幼いすずめの泣く声に本映画鑑賞中、最も胸を締め付けられた)に、高校生となった鈴芽が母の形見の椅子を渡し、「今はどんなに悲しくてもね」「すずめはこの先、ちゃんと大きくなる」「だから心配しないで。未来なんて怖くない」と励ましつつ、「あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う」と言い放つシーン。ここで鈴芽は幼少期の鈴芽に対して、母という死者に対する「不可能な喪」を実践する(=喪の失敗を繰り返しつつ、それを継続する)のではなく、忘却することを勧めているのである。現世に戻った鈴芽が、かつて常世に迷い込んだ折に母と出会ったと記憶していたが、実は未来の自分との出会いであったことに気づき「大事なものはもう全部──ずっと昔に、もらっていた」とつぶやくシーンなどは忘却正当化の極めつけであり、むしろ死者の主体性を奪取して表象した無神経極まる発話であろう。ここにおいて死者は徹底的に不可視化され、忘却されることとなる。(なお、そのような解釈に抗い得るような表現も映画の中には存在しているといえなくもない。たとえばフレコンバッグの積まれた荒野、おそらくは福島第一原発近辺を描いた場所で草太の友人である芹澤が無神経に「きれいな場所」と述べたことについて鈴芽が違和を語るシーンなど。しかし、それもきわめて軽く触れられるだけで決して深められることはない)


(略)


草太は鈴芽に戸締まりを代行させる際に「かつてここにあったはずの景色。ここにいたはずの人々。その感情。それを想って、声を聴く」と述べる。そう、ただ「想う」だけなのである。そうなったとき、そこに描かれた光景や人びとの声は鈴芽の幻であった可能性が出てくる。そう考えると最終的に常世東日本大震災の被災地を幻視する際に、人びとの声がすべてポジティヴなもの(「いってきます」「いただきます」「行ってらっしゃい」等々)だったことは整合的である。人びとの日常をそのままトレースするのだとしたら、悲しみや苦しみや怒りの声がないはずがないが、ひとり鈴芽の幻であるならば説明がつく。

更に拙論においても、戸締まりをする旅の道中で出会う人々があまりに善人として描かれることに、違和感を住めしています。
amamako.hateblo.jp

しかし、そのような映画でありながら、僕は映画を見ていて、どーしてもある違和感が拭い去れなかったんですね。それは


「登場人物たちが、みんなあまりにいい人すぎる」ということです。


旅先で出会う人達は、みんな心よく主人公たちのことを助けてくれるし、主人公たちもまた、災害を防ぐために自分の身を犠牲にしても構わないと考える人達である。唯一、鈴芽の叔母である環が、鈴芽に対して憎悪っぽいものを吐き出しますが、それもすぐ収まってしまう。「全員善人」なのです。


いやわかるんですよ、ここで悪意とか敵意を持ったキャラクターを出したら、むしろ物語の本筋がブレるということは。みんないい人たちだからこそ、そんなひとたちが犠牲になってしまう災害というものの辛さが浮き彫りになるわけで、ここでもし「こいつらは別に死んでもいいや」というようなキャラクターを出したら、「災害を防ぐために奮闘する」というストーリーの骨子そのものが揺らいでしまう。そうやって、グダグダになっていくディザスターものの映画・アニメとか、散々見てきましたし。


でも一方で、こうも思うわけです。「でも、現実の東日本大震災は、災害そのものより、それによって生じた人々の敵意・不和のほうがきつかったよな」と。

いずれの批判も、『すずめの戸締まり』では明るい生き生きとした日常を描いているが、しかしそこには描かれていない、明るいだけではないもの(女性の寝顔、原発事故、死者の無念)が物語から排除されており、それ故にこの物語は評価できないと言っている訳です。

なぜ「明るいだけではないもの」を描くことを重要に思うのか

ただここでこう思う人も居るかも知れません。「何でそんなに『明るいだけではないもの』を描くのを重要視するのか?」と。

これは率直に言ってしまえば「ある種の人々は日常とか他者・社会をとても苦しく醜いものだと思っているからであり、そしてマンガ・アニメなどのオタク系サブカルチャーに傾倒する人の多くは、そのような人種だから」です。

日本のサブカルチャーにおいては、「人々を救うために立ち上がったヒーロー・ヒロインが、人々に絶望する」というシナリオがほんと何回も何回も描かれてきました。
デビルマン』に始まり


伝説巨神イデオン機動戦士ガンダム 逆襲のシャア
魔法少女まどか☆マギカ』の美樹さやかなどなど……

更に言えば、アニメ監督で巨匠と言われる人々は多かれ少なかれ、この種の「大衆への絶望感」「世界をぶっ壊してしまいたい願望」を抱えています。『伝説巨神イデオン』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を手がけた富野由悠季はもちろん、『機動警察パトレイバー2』

で東京での戦争を描いた押井守は以下の様に、高校生時代に「東京が火の海になる光景」を幻視したことが、パトレイバー2を生み出したと述べています。
東京国際映画祭『機動警察パトレイバー2 the Movie』上映記念・押井守監督独占インタビュー! 東京を舞台に戦争を仕掛ける幻想を遂に実現できたのが『パトレイバー2』 | ガジェット通信 GetNews

押井: 廃墟願望はあちこちで語っているけど、高校時代のある一瞬だけ、東京が火の海になるという幻想を信じたんだよ。学生運動バリケードを築いていた御茶ノ水のとある大学の校舎の上に立ったときに「本当に革命戦争が始まるんだ」と信じ込んで、東京が火の海になる光景を幻視した。恍惚となったからね。革命戦争が始まるんだという幻想は3週間で冷めたけど、いつの日か、この街は崩壊して、炎に包まれるんだという幻想は抱きつづけた。戦争という状況のなかで、東京がどうなるか。だからそれが『パトレイバー2』なんだよ。

一方、そのような「暗くジメジメしたオタクっぽいアニメ」と正反対のものとして扱われているのがジブリです。そして『すずめの戸締まり』は、執拗に繰り返されるジブリ作品へのオマージュを見れば解るとおり、ジブリの系譜に位置しているように見えます。

しかし、ちょっとでもジブリや、宮崎駿高畑勲に詳しいものなら、ジブリ作品こそ、大衆に絶望し、「世界をぶっ壊してしまいたい願望」を抱えた者の作品であることは常識なわけです。なにせ宮崎駿は『風の谷のナウシカ』のマンガ版の最終話で、現代の文明を生み出した旧人類(=現代の私たち)、ナウシカに虐殺させているんですから。

そして『崖の下のポニョ』においては、津波で全てを洗い流した後で、「これは死後の世界ではないか」と噂されるほど、生と死が渾然となった世界を描いているわけです。
www.excite.co.jp

宮崎駿は、インタビューで次のように語っている。
“死は匂うけど、そういうものの中に同時に自分たちが描きたいキラキラしたものもあるから。あんまり生と死っていう言葉を使いたくないですよね”(「CUT No234」宮崎駿4万字インタビュー)


(中略)


崖の上のポニョ』は、67歳のベテランの少年、宮崎駿が作ったじじいリアリズムの超問題作なのではないか。
“年寄りの若僧として目の前の扉がギーッて開いちゃいましたから。この薄明の天地の境も定かじゃないところに向かって行くんだなあって感じの扉が開きましたからね”(「CUT No.234」宮崎駿4万字インタビュー)


生も死も理屈も非理屈も過去も未来も現実も寓話も老いも若きも渾然一体となった薄明の天地の境も定かじゃない世界が、後半のシーンなのだろう。

生も死も理屈も非理屈も過去も未来も現実も寓話も老いも若きも渾然一体となった薄明の天地の境も定かじゃない世界……まさしく『すずめの戸締まり』における常世の世界なわけです。新海誠は必死になって常世の世界への扉を戸締まりしてこの世界を守ろうとするのに、宮崎駿は「扉なんかぶっ壊してみーんな常世になっちゃえばいいじゃん」と言うわけでね。ほんとこのおじいさんは……

とにかく、日本のアニメとか漫画というものは、「今のこの世界をぶっ壊して、新しい美しい世界に作り替えたい」という欲望が形作ってきたといっても過言ではないわけです。ただ、実際の世界でそれをやることに挫折したから*1、アニメという空想でそれを実現させてるわけですね。

もちろん、それに対し「それでも今あるこの世界を守らなければならない」という立場から描かれる作品もあります。例えば『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』なんかはまさにそういう作品です。

『オトナ帝国の逆襲』においては、現代のこの日本社会を醜いものとみなす悪役が、1960~70年代に社会を戻そうとし、オトナ帝国に大人たちを連れ去っていくわけです。そしてそれに対し、野原しんのすけや野原一家が、現代の日常を取り戻そうと戦い、勝つわけです。
ただその一方で、『オトナ帝国の逆襲』では、「昔に戻りたい」という、現状否定のノスタルジーの魅力も存分に描かれるわけです。というか、そこが描かれているからこそ、そこから抜け出して今を生きようとする野原一家、特に野原ひろしの姿が感動的になるわけです。

輪るピングドラム』という作品もまた、世界をぶっ壊そうとする悪役に対し、主人公たちが立ち向かう作品といえます。

しかしこの作品においても、主人公たちは社会からひどい仕打ちをたくさん受け、むしろ社会というものの酷さ・醜さを身をもって体験しているわけです。そして、そんなひどい仕打ちを受けた主人公たちに対し、悪役は「なんでこんな酷い世界を守ろうとするんだ」と説得力ある言葉をかけるわけです。

しかし、主人公たちはそれでも悪役の「こんな世界ぶっ壊してしまえばいい」という思想を否定するわけです。この世界の醜さが、アニメ内でさんざん示されるからこそ、それでもそれを守ろうとする主人公たちに感動するわけです。

(『輪るピングドラム』については、以下の記事でより詳しく解説してるので参照してください。)
amamako.hateblo.jp

つまり、日本の多くのマンガ・アニメにおいては、最終的にこの世界を壊す方向に行くか、守る方向に行くか、どちらにせよ「この世界には残酷で醜いものがある」というのは大前提となり、そこから物語をけん引する葛藤なりが生まれてくるわけですね。

ところが、『すずめの戸締まり』においては、そのような「この世界の醜さ」というものはとことんオミットされているように見える。そうなると「最初から最後までこの世界は守るに値すると考えている主人公たちが、世界を守るために頑張る」作品としか見えなくなり、「そんな当たり前のストーリーを追って何が面白いの?」と、既存のアニメ・マンガの構成に慣れている人としては、思ってしまうわけなんです。

「今の世界をぶっ壊したい」とかいうオタク臭さを脱臭したからこそ、受けているともいえる

ただ一方で、逆から言えば、上記に挙げたような「世界の醜さを前提として、それでもこの世界は守るに値するか葛藤する」というオタクっぽい物語ではないからこそ、『すずめの戸締まり』はまた別種の人々に受け入れられているともいえるわけです。

ぬまがさ氏は、「セカイ系と違って、世界は守るに値するものだと描いているのがこの作品のいいところ」と述べています。ぬまがさ市のような人間からすると、既存の、世界の醜さを前提とするアニメ・マンガは、世界というものを醜く描きすぎているというわけです。

世界というものは、当然守るに値する美しいものなのか、それとも守るべきかどうか悩むほどの醜いもののか、この問いは、もちろん正解なんてありません。僕は後者のように考える人間ですが、しかし多くの人は前者のように考えるのでしょう。そして、前者のような人にとっては、『すずめの戸締まり』は、シロクマ氏が言うように「生きることを肯定してくれる物語」となるわけです。

それでもなお、この作品がじっと見つめているその目線の先に、私はいない気がした。

 
じゃあ、この作品がじっと見つめている目線の先に、誰がいたのか?


作中、たくさんの人々が登場する。九州。四国。関西。関東。それぞれの地方の人々が描かれていた。この作品がじっと見つめている目線の先にいるのは、第一に、それぞれの地方で描かれていた人たちじゃなかっただろうか。

「世界は当然守るに値する」という世界観を共有できるかどうかが、この作品を肯定できるかできないかの、一つの分水嶺となっているわけです。

「みみず」という災厄を人間がどうにか出来るものとして描いていることを許せるかどうか

次に第二の点について。

ぬまがさワタリ氏は「天気なんて狂ったままでいいんだ!」と開きなおる『天気の子』に対し、『すずめの戸締まり』は災厄を食い止め、世界を少しでも良くしようとしている点が評価に値すると主張する。

 終盤、おそらく東日本大震災の犠牲者と思われる様々な人々が「扉」を出ていく…という、強く心を打つシーンがある。この名場面が生まれたのも、震災で失われたものについて、震災で傷ついた場所について、確かにそこに生きていた命を悼むことについて、新海監督が突き詰めて考えた結果ではないだろうか。作り手がテーマについて「考えた」分量というのは、ここまではっきりアウトプットの違いとして現れるのか…と、そのこと自体に感銘を受けるほどだったし、いち作り手としても背筋が伸びる思いだった。


 そして、起こった災害を結局「なかったこと」にしてしまう『君の名は。』や、「狂った世界を変えることはできない」という開き直った着地を見せる『天気の子』に対してバランスをとるかのように、懸命に災厄を食い止めよう、世界を少しでも良くしようと走る人々を描いた『すずめの戸締まり』は、過去作への反応も踏まえた上での、新海監督からのセルフアンサーにもなっているように感じたのだった。

しかし一方で茂木謙之介氏は、巨大地震という災厄は人が喰い止められるという描写は、「人々が正しく生きてこなかった罰として災厄は来る」ということであり、被災者を冒涜するし、あまりに人間中心的な思考であると批判します。

対して映画『すずめ』では、エンディング間近い場面で草太が「人の心の重さが、その土地を鎮めているんだ。それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある」と述べるように、みみずが出てきてしまう後ろ戸は人の介在があれば勝手には開かないものとして設定されている。換言すれば、人の不在によって後ろ戸は開くのであって、結果その地は災厄に見舞われるという論理がここにある。このことはひとり草太のことばにはとどまらない。東の要石が猫に姿を変えた「サダイジン」が、自身を「ひとのてで もとにもどして」、すなわち自らを再度要石とし、みみずを抑えるよう要請することからも明快なように、巨大地震という現象が人為によって左右されるという思考が物語の前提にあり、カミ(≒〈怪異〉)もそれを容認するという枠組みが見てとれる。


つまり、ここで実質的に展開しているのは一種の「天譴論(てんけんろん)」的思考といえる。関東大震災の折の内村鑑三東日本大震災の際の石原慎太郎の言説などで知られている、自然災害を天から人びとに与えられた罰として考え、災害を画期として人心の刷新を図ろうとする天譴論は、いうまでもなくその被災した土地、被災した人びとを貶める言説であり、容認することは極めて困難なものである。


劇場で配布された『新海誠本』によると「場所を悼む」ことが本映画のコンセプトとされている。そもそも人為的に人がいなくなった産業的な廃墟と、災害によって人びとの生活が切断されることを余儀なくされた被災地とを同値に並べて同じく悼もうとすることの不可解さと無神経さは言うまでもないが、ここではぐっと堪えて、その「悼む」べき対象が徹底して人と関わった土地だけに限定されていることを指摘しておきたい。そのような人との関わり(=「人の心の重み」)が消えてしまった場所から災厄が発生するというあまりに分かりやすい天譴論的思考のもとで、地震は常に人の住むところに(しかも九州南部・四国西側・阪神・東京・東北三陸とすべて地震による大規模な被災が記憶のある場所に)影響を与えるようなかたちでのみ発生しているのである。あまりに人間中心的な思考であるといってよい。

災厄は人間が防げるという風に描くことは、気候変動といった災厄を何とかしようとする人々に希望を与えるものなのか、それとも「自然は全て人間の思い通りになる」という傲慢な人間中心主義を助長するものなのか、この点を巡って、作品の評価は分かれているわけです。

そして2回目の映画鑑賞

上記のような評価の対立が生まれていることを踏まえた上で、僕はもう一度映画を鑑賞しました。

そして、それぞれの点について以下のような感想を持ちました。

  1. この映画は必ずしもこの世界を「明るくやさしいもの」として肯定的には描いておらず、世界の暗い側面も描いている。ただ問題は、その描写が物語中では回収されず投げっぱなしにされていることである。
  2. 「みみず」という災厄は、地震そのものではなく、むしろ原発事故を示しているという点で、人間がどうにか出来るものではある。ただ、その困難さが映画内では軽く扱われているように思える。

どういうことか、それぞれ説明していきます。

隠喩だか、しっかりと描かれる「原発事故」

映画を見始めて前半から中盤、東京を車で出発するまでの展開への感想は、1回目に見た時とほぼ同じでした。「善人ばっかの都合のいい展開で、ストレスフリーだけど、やっぱ物語の面白みは見えてこないな」と。

しかし、福島で一旦停止したところからのシーンに注意していくと、あることに気づくわけです。

「これってまんま、福島第一原発事故以降の世の中の流れの隠喩じゃないかと」

  • 雨が降って、道の駅まで45kmかけて逃げる→放射能が飛来し、福島第一原発の半径30kmから人々が避難する
  • 車で逃げる、車が途中で壊れてしまう→現代の科学技術を結集させても放射能飛散を止められない
  • 雨に降られることによって車内の雰囲気が険悪になる→放射能飛来の恐怖によって、人々に強いストレスがかかる
  • 仲が良かったすずめとその叔母の間で喧嘩が始まる→原発事故とそれに伴う放射能汚染をめぐって、人々が対立し始める
  • 喧嘩の中で、叔母が今まで自分が見たことのない別人に見える→原発事故をめぐる対立の中で、仲良かった人々の間にも亀裂が走り、双方が双方をモンスターとしか思えなくなる
  • 車が暴走し道を外れ、目的地までいけない→今の自然を破壊する科学技術文明に任せていては、問題は解決しない
  • すずめは走って目的地へ向かう→環境を守る形での文明を始めなければいけない

隠喩ではありますが、はっきりと、福島第一原発事故以降、人々が分断されていく様子を、トレースしているわけですね。

そしてそのような分断に対し、芹澤はまんま『けんかをやめて』という曲を流すわけです。

けんかをやめて

けんかをやめて

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これはまんま、原発事故以降の人々の対立に対する新海誠監督の思いと捉えていいと思うわけです。

だから、新海誠は別にただ世界を「守るに値する、美しいもの」として描いているわけではない。

ただその一方で、じゃあその世界の醜さが物語の中でどう回収されるかというと……回収されないんですね。

実際、Twitterなどでの素朴な感想を見ると、素直に「すずめの戸締まり感動したー」とか言っている人でも、「でもあの叔母さんが怒ってるシーン、よく分かんなかったね」となっています。一応、叔母から「あの喧嘩の時に言ったことは本当だけど、それだけじゃない」というフォローは入るわけですが、しかしそんなフォローで納得する人はいないわけです。きっと監督自身も、「納得はできないけど、でもこうやって収めるしかないからなぁ」と思っているのだと、推測します。

ただ、よく考えれば、福島第一原発事故以後の社会の分断というのは、現在進行形の社会問題なわけで、一介の映画監督が答えを出せる問題なわけないのも当然といえば当然なんです。しかし、映画の根本にある「この世界は守るに値する」というテーゼは崩せない。とすると、もう回収するのはあきらめて物語内に放置するしかなくなっちゃうわけなのです。

id:Dersu氏は、まさにこのような放置状態を指して長州力に「またぐなよ」とカマされてまたげない大仁田厚の如き状態に、この映画が陥ってはいないだろうか。」と述べているわけですね。

www.youtube.com
これは、もう明確に『すずめの戸締まり』という物語の粗としか言いようがないです。ただ、その粗は、「原発事故が生んだ人々の分断を描くことから逃げてはいけない」という倫理を貫き通した上の粗といえるので、いまいち非難しずらくなってしまうわけです。

「みみず」という災厄は、地震ではなく原発事故の方を隠喩しているのではないか

そして、上記のように、『すずめの戸締まり』が隠喩によって福島第一原発事故に迫っているということを自覚して物語をもう一度考察すると、次のような考えが出てくるわけです。それは

『みみず』という災厄は、地震ではなく原発事故の方を表しているのではないか?

ということです。

確かに物語中では、「みみず」は地震とよく似たメカニズムであると説明され、実際に起きる被害も地震として示されます。ですが、その一方で、「みみず」による災厄は、人の手によってどうにか出来るものと描かれるわけです。両者を矛盾なく解釈しようとすれば、そりゃ茂木氏の言うように「新海誠という人間は地震を人の力でどうにか出来ると思ってる」という解釈になるでしょう。

ですが、そんなこと本気で思ってるのは、角川春樹氏ぐらいでしょう。
ayamekareihikagami.hateblo.jp
良くも悪くも、新海誠監督に角川春樹氏ぐらいの誇大妄想ができる器があるとは思えないわけで、そうすると、むしろ「『みみず』という災厄は、物語中では地震として描かれてるけど、本当は別の何かの隠喩なんじゃないか」と考えるのが自然なわけです。

地震ではない、人の手で止められる災厄。しかしひとたびその災厄が起きれば甚大な被害が生じる。その災厄は過去にも起きたことがある……こう考えると、その災厄は地震というよりむしろ「原発事故」としてとらえた方が、絶対自然になるわけです。

そもそもなんで要石は凍っているのか?地震としてとらえると全く理解できないことも、原発事故としてとらえれば、「冷温停止」であると簡単に理解できます。要石とは要するに制御棒のことであり、だから要石=制御棒を引っこ抜くとみみず=原子炉が暴走して災厄を引き起こす。その災厄を止めるには要石=制御棒を再び挿入して冷温停止しなくてはならないが、そのためには犠牲(放射能を浴びながら事故処理を行う人々)が必要となる……「みみずの災厄=地震」とみなすと訳のわからなった描写が「みみずの災厄=原発事故」とみなすと途端に、あからさまなほどの比喩であると理解できるわけです。

そして、原発事故は人間が起こしたことである以上、それを止めるのも人間の責任となるのが当然ということになるわけです。そして「すずめの戸締まり」は、人々が助け合って原発事故を抑えるために奔走し、見事、原発事故を収束させた、そういう美談として、解釈されるようになります。

ただ、そうやって解釈するとまた別個の問題が出てくるわけですね。それは

そんな簡単に原発事故が収束するわけないし、事実、福島第一原発は収束してないじゃないか

という批判ができてしまうという点です。

「みみずの災厄」を、地震のことではなく原発事故として解釈すると、確かに茂木氏の言う「人間中心主義」という批判はしりぞけられます。しかしその一方で、「主人公と、それを助けた善意ある人々の努力によって、災厄は収束した」というストーリーのグロテスクさが、より露わになるのです。

さらに言うと、このように災厄=原発事故として解釈すると、戸締まりをする旅の道中において、詮索もせず主人公を助ける人々が、きわめて好意的に描かれることも問題となりえるわけです。

なぜならそれはすなわち「廃炉作業で行われること(汚染水の海洋放出など)に対して一々文句を言わず、精一杯助けることこそが、人々のやるべきことなのだ」というメッセージになりうるからです。

「人知れないところで世界を救うために奮闘するヒーローと、そのことを全く知らないけどヒーローを助ける周りの人々」というのは、マンガ・アニメのヒーロー譚においては王道と言ってもいい設定ですが、これが廃炉作業に例えられると途端に、民主的手続きを軽視する危険な話になってしまうわけです。

犠牲のナショナリズムを慰撫する作品としての『すずめの戸締まり』

ですがその一方で「福島第一原発の事故に際し、日本国民は一丸となってこれに対処し、そして乗り越えた」という物語、茂木氏の記事タイトルを借りれば「犠牲のナショナリズム」は、別に新海誠監督が生み出したものではありません。むしろ先にそのような物語が世間一般の人に信じられているがゆえに、『すずめの戸締まり』もそれに乗っかったのです。

そのことが明確にわかるのが、はてな匿名ダイアリーの記事における、以下の記述です。
anond.hatelabo.jp

東日本大震災の発災当時、自分は東北地方からは離れた実家の部屋で揺れを感じていた。

2回目の大学4年生だったと思う。その年度も卒業の見通しは立たず、試しにやってみた就職活動も上手くいかず(リーマンショック直後の年だ)、大学にも足が向かず、鬱々とした日を過ごしていた。


インターネットに張り付いて、東北地方や東京の情報をひたすら追っていた。津波が町の何もかもを薙ぎ払っていく様子が全国に衝撃を与え、日が暮れるに差し掛かり日本全体が絶望に飲まれていくような空気を感じたように記憶している。

当時地元から離れた東京で働いている友人が数名いた。幸いにも彼らに大きな怪我はなく、交通機関による帰宅が困難となり、渋谷から半日かけて家まで歩いた、などという話を聞いた。


日本は強かった。余裕がない中でもそれぞれが自助共助に取り組み、生きながらえようとしていた。各大手企業にしても、サントリーは被災地に飲料水を発送し、ソフトバンクは公衆 Wi-Fi を無償開放した。当時流行っていた Ustream では日本の若者が NHK による被災状況の中継をカメラで撮影して流し、その行為の是非について当時の NHK Twitter 担当者が自身の責任と判断でそれを認め、情報共有を助けた。Evernote は有償の容量無制限サービスを日本人に向け一時無償提供を行った。

今ではウクライナと戦争真っ只中のロシアはプーチン大統領の「ありったけの物資を今すぐ日本に送れ」の大号令のもとに支援を行い、アメリカ軍は作戦名 Operation TOMODACHI を実行し日本に対し援助活動を行った。


悔しかった。社会の一員として何かを為せている人たちが立派に見えて仕方なかったし、事実立派であった。大混乱で帰宅、避難がやっとという友人たちでさえ、懸命に行動している姿が眩しく、自分が情けなくなった。俺は何をやっているんだ、と。


あれが人生の転機になった。転んでばかりの青年期、気持ちも前を向かず、ただただわがままばかりでいつも誰かのせいにしてばかりだった生活と、ようやく決別することができた。まずは目の前の事を片付けて四の五の言わずに働けと、アレがしたいコレはしたくないではなくどんなに小さく些細でも社会の中の一コマとして人のために出来ることをせよ、と自分に言い聞かせた。


(中略)


あの時あの日本社会全体の空気感を体験した人が、今観るのに本当に良い映画だった。難解すぎず、わかりやすく、無駄がない。

この文章に対し僕は以下のように当てこすりをしました。


ただこう書く一方で、社会の大多数の人間は、僕のようなひねくれた感想を持つことなく、「日本国民は各々が社会の一員として頑張り、難局を乗り越えたよね」と思ってるわけです。

そしてこの『すずめの戸締まり』という作品は、そういう社会の大多数の人々に向けて「よく頑張ったね。明日からも同じように頑張ろう」と慰撫する、そんな作品なわけです。

セカイ系を乗り越えた先にあるものは

今回の『すずめの戸締まり』について寄せられる批評の多くで言われることは、ぬまがさ氏の評のような「これはセカイ系を乗り越えた」という評です。「君と僕のセカイ」に閉じこもるのではない、他者が存在する「守るに値する世界」のために戦う物語であると。

しかし、セカイ系は別に理由もなく「君と僕のセカイ」に閉じこもっていたわけではありません。セカイ系とは、この記事でさんざん話題にしてきた「この世界の残酷さ」に対する防御機制として、存在していたわけです。

例えば『イリヤの空、UFOの夏』。

この作品に描かれる世界は、少年少女が「少女一人を救うか、世界すべてを救うか」の二者一択を迫られる残酷な世界です。そして一時はそんな世界壊れてしまえということになるわけですが、しかし少女は、自ら自己犠牲を選択します。その理由は、世界を救いたいからではなく、世界で生きる少年を救いたいからなんですね。そして、その自己犠牲に報いるために、少年はその世界で生きていくわけです。

世界は残酷かもしれない。でも、その世界にあなたがいるから、私はあなたのために自分を犠牲にして世界を救う
世界は残酷かもしれない。でも、そんな世界でもあの子が守った世界だから、あの子のために僕はこの世界を生きる。

このような防御機制でもって、セカイ系は、世界の残酷さを憎む少年少女たちに、それでも世界を破壊せず生きていく術を編み出していたわけです。

ところが、「君と僕のセカイ」という壁を壊すと、途端にこの防御機制が無効化され、「なんでこんな残酷な世界を守らなきゃならないんだ」という問いが前景化してしまうわけです。

では『すずめの戸締まり』は、セカイという防御機制の代わりに代替として何を置こうとしているのか。答えは「精一杯今を生きている、守るに値するこの国の人々の暮らし」です。なんかちょっともじれば自衛隊の入隊スローガンになりそうですね。もうお判りでしょう、要するにそれってナショナリズムなんですよ。

『すずめの戸締まり』が、もしセカイ系を乗り越えたとしたら、その行きついた先は、まさしく「犠牲のナショナリズム」なのです。

ただ一方で、この作品には先ほどから述べているように多数の「粗」があるわけで、そして粗があるゆえに、セカイ系の代わりに犠牲のナショナリズムを置こうとする試みは完遂されていません。もしかしたら、それは粗ではなく、あえての「抵抗」なのかもしれません。

この世界を、自分のために生きる

セカイ系でもなければ犠牲のナショナリズムでもなく、かといって「こんな残酷な世界、生きる価値ない」と絶望するのではない道は、ないのでしょうか。

これに対し示唆を与えてくれる批評が一つあります。鈴木謙介氏の批評です。
blog.szk.cc
鈴木謙介氏は、これだけ社会的なテーマに目配せされた『すずめの戸締まり』を論じながら、敢えてその部分は論じず、まさしくセカイ系ちっくに、すずめと草太にのみ注目するわけです。

そして、すずめと草太それぞれがいかに「生きたい」と願うかについて、次のように述べています。

むしろ重要なのは、草太を救ったのが「生きたいという願い」だったということだ。すずめの呼びかけに応じて、常世の深い深い場所から救い出されるとき、草太はすずめと出会い、自分が生きたいと願っていたことに気づく。閉じ師の宿命を負った草太は、目標である教員採用試験を欠席してまで戸締まりの旅を続けていて、自分の人生を生きるという意思を後回しにしている。そこに入り込んできたすずめが、彼自身の生への意思を昂ぶらせたのである。


自分の「生きたいという願い」に気づいた草太は、ミミズに対して祈る。たとえ人の世がかりそめのものであっても、私たちはそこで生きたいのだ、だから鎮まってくれと。僕が最初に泣いたのはここで、古典的なボーイ・ミーツ・ガールによって、つまり人が人によって救われると同時に、それによって世界が救われるという、新海にたびたび投げかけられる「セカイ系」のモチーフには、やっぱり弱いのだと思った。


だが、より強く心を揺さぶられたのは、すずめ自身の救済のほうだ。すずめの生への執着はどこから来るのか。それは、常世において出会う、過去の自分との対話である。すずめが扉を閉じることができたり、常世に入れたりするのは、震災の直後、母を探して常世に迷い込んだ経験があったからなのである。そこですずめは、かつての自分を現世に戻してくれた、母と見紛ったその人が、未来の自分であったことに気づく。そして、こう言うのである。あなたは大丈夫、ちゃんと恋をしておとなになる、と。


人が人によって救われるのと同じくらい、僕にとって「人が自分の力で自分を救う話」は弱点だ。いまこれを書いているだけで涙ぐんでしまうくらいには弱い。

鈴木氏によれば、草太は、まさしく先に述べたセカイ系のやり方で、「あの子のために(この残酷な世界で)生きる」ことを選択しているわけです。一方で、すずめはセカイ系とも違い、「自分のために生きる」とするわけです。

そして更に鈴木氏は、この二人の「生きたい理由」の対照が重要だと考え、次のように考察するわけです。

けれどこの草太とすずめの対照は、考えれば考えるほど深いものなんじゃないかと思えてくる。


人を救うのは人か


二人に共通するのは、「人を好きになると、人って死ぬのが怖くなるよね」というテーマだ。でも、このテーマがいつまで人の心を動かすものであり続けるのか、やや心許ないところもある。


草太は、自身のために常世まで自分を追ってきたすずめに救われる。そういう人が現世にいるからこそ、自分も生きたいと願う。つまり外発的な動機でこの世にとどまろうとする。それに対してすずめは、人を好きになったり、そのために無茶をしたりできる自分の気持ちに気づいて「大丈夫」だと自分に呼びかける。つまり内発的な動機で生きたいと願っている。言い換えると、草太はすずめがいなければ生きている理由がないが、すずめは草太と別れても生きていけるのである。


こう書いてしまうと、つら、という気持ちになる。僕たちは「人が恋をして救われる」話に、その二人が添い遂げることを期待してしまう。けれど、それが裏返って、「生きたいと願って救われるためには人を好きにならないといけない」となったら、それはやっぱり違う。そして現代の日本では、恋愛をする若者はかつてより少なくなっていることを、いくつもの調査が明らかにしている。恋愛の特権性は相対的に小さいものになり、恋愛関係と呼べる特別に親密な関係でなければ救われないという「おはなし」は、すべての人にとってリアリティのあるものではなくなっていくかもしれない。


それを寂しいと思う自分と、仕方ないとか、あるいはそちらの方がマシな社会かもしれないと思う自分がいる。誰かの愛によらなければ、生きることに意味を見いだせない人が救われない社会は、言い換えるとその人のためにひたむきに献身する人を必要とする。それならば、と思う。誰かを好きになって夢中になって、そのことで生きがいを得たり救われたりするのなら、その相手は、そのことを生業にしているエンターテイナーでもいいんじゃないか。「みんなの推し」を推して救われるのと、自分のためだけに愛を向ける人に救われるのと、結果が同じなら、そして誰にとっても恋愛が当たり前でない社会になるのなら、きっと後者でも構わない。今作のモチーフは「恋愛のおはなし」から「恋愛じゃないけどガチで好きな気持ちをめぐるおはなし」へと世の中が移り変わる転換点を示すのかもしれない。

草太はあくまで「好きな人と生きたい」という外発的動機で生きる理由を持つが、すずめはそうでなく「人を好きになれる自分」という内発的な動機で生きる理由を持っているわけです。

そして「好きな人と生きたい」という外発的な動機でしか生きることに意味が見いだせない社会は、ひたむきな献身を必要とするが、「人を好きになれる自分がいる」という内発的な動機で生きる理由を見いだせる社会は、恋愛ではなく、例えば「推しのエンターテイナー」のような存在によって救われうるとし、『すずめの戸締まり』は前者の社会から後者の社会への転換点なのかもしれないと、考察しているのです。

つまり、セカイ系でもなく犠牲のナショナリズムでもなく、「恋愛じゃないけどガチで好きな気持ち」こそが、この厳しい世界で、それでも世界や自分を破壊せずに生きていたいと思う理由に、なるかもしれないのです。

もちろんこれには危険性もあります。「みんなの推し」が、アイドルやエンターテイナーではなく、それこそ天皇だったり、カリスマ性のある政治家のような存在になる可能性だってあるわけですから。さらに言えば、本ブログでも取り上げたVTuberの事件
amamako.hateblo.jp
でわかるように、「推し」と「恋愛対象」が明確に切り離せるものでもないわけです。

ただそれでも、僕はこれこそ、『すずめの戸締まり』のような物語が目指すべき方向じゃないかと、思わずにはいられないのです。

*1:宮崎駿は労組で戦って敗れ、押井守学生運動に参加した