あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「ルックバック」を手放しで絶賛している批評家はあんまセンスない

最近いい子ちゃんな記事ばっか書いていたので、たまには煽り記事を。
anond.hatelabo.jp
先日とりあげた
amamako.hateblo.jp
「ルックバック」というマンガについて、批評家の荻上チキ(id:seijotcp)氏や杉田俊介id:sugitasyunsuke)氏が絶賛していたそうで。
で、この匿名ダイアリーの記事を書いた人はそれに失望しているということだそうです。
(ただ一応注釈をしておくと、荻上氏は知りませんが、杉田氏の方は以下のツイートにあるように


指摘を受けて評価を変えているそうです)。
それを受けた僕の意見。
今回の記事ではこれに付いて解説していきたいと思います。

一般の人々やクリエイターが素直に「感動した」と言うのは良いこと、という大前提

まず、これは絶対誤解を招くと思うので、最初に声を大にして言っておきたいのですが、僕は、批評家ではない一般の人々やクリエイターたちが「ルックバック」というマンガについて、心を揺さぶられ、感動すること、そして、その感動をSNS上などで表現することは、全く問題ないと考えているし、むしろ好ましいことだと考えています。
「ルックバック」というマンガには、それが刺さる人々を感動させる技巧・要素が詰まっているし、そういう感動させるものを目にしたときに、素直に「感動した!」と言える環境は、精神衛生上も良い環境でしょう。むしろそこで「いや自分は感動したけど、でもそれを素直に表現していいものだろうか」なんてことを思って感情の発露を抑えるほうが、不健全です。
更に言えば、クリエイターも、同じ様にそういう感動を読者に与えることで生計を立てるものとして、「とてもいいものだし、自分も参考にしたい」と思うのは当然のことです。

でも批評家は、そういう「素直な感動」から距離を置くからこそ批評家なんじゃないの

しかし、そういった感想はあくまで一般の人々やクリエイターだから許されるもので、いわば「感想を書くプロ」である批評家を自称するのなら、そういった「素直な感動」からは一定の距離を置いて、相対化するべきなんじゃないかと、思うのです。
だって、「感動できるもの」をただ「感動できるよ!」と言って紹介するだけなら、それは批評ではなく、「好きなもの紹介」でしょう。
前回の記事でも述べたように、この「ルックバック」というマンガは、「"尊敬されるべき才能あるクリエイター"が、全くいわれのないことで殺されてしまったことを嘆き悲しむ立場」から描かれ、それ以外の要素に極力目を向かせない構造になっています。だから、加害者の描写や、事件についてのマスメディアの報道などと言ったものは、ノイズであるとして極力読者が関心を抱かないような定型的な描き方をしているわけです。さらにいえば、作品自体、「クリエイターとファン」2つの役割を持つ登場人物二人が作品世界の全てとして描かれ、それ以外のものには興味も関心も抱かせない、極めて閉じた世界の物語だったりするわけです。
そのように極めて限定された見方による、閉じた世界の物語だからこそ、その世界に感情移入できるものがある人にとっては、「これは、わたしの物語だ」と思い、感動できるようになっているわけですね。
ですが、そういう構造の物語であるがゆえに、この「ルックバック」というマンガでは、「そこにあるはずなのに描かれていないもの」が数多くあるわけです。加害者の方の物語は極力描かれていませんし、それ以外にも、二人の家族や、通っている学校といったものも殆ど描かれず、さらに言えばマンガを楽しみにする読者もそこには存在しません。あくまで「互いに互いを必要とする二人」だけが描かれ、その外は全く存在しないかのように描かれている。
僕は、批評というものの役割は、そこで「存在しないもの」とされたものに対し、「いや、それは存在するんだよ」と、物語から距離をおいた場所で指摘し、ではそういった「存在しないとされたもの」とされた側からは、この「ルックバック」という作品はどう見えるかを、示すことだと思うのです。

マジョリティから嫌われても「感動の裏で見えなくなっているもの」を指摘するのが批評家でしょ

さらに言えば、そうやって「存在しないとされたもの」の側に立つということは、この「ルックバック」という作品に対し素直に感動する共同体に対し、その共同体から排除されるものがあると、指摘することでもあるわけです。
「"尊敬されるべき才能あるクリエイター"が、全くいわれのないことで殺されてしまったことを嘆き悲しむ立場」からすれば感動できる、この「ルックバック」という物語。しかし、それで感動できるのって、結局「才能あるクリエイターだからこそ、殺されたのが悲しい」と思うわけで、そこには厳然とした「クリエイター至上主義」への信奉があるわけです。
そして、そういう信奉を共有する人からは、「才能があろうがなかろうがそんなの人の命の価値とは関係ないはずだ」とか「才能あるクリエイターがそうでない人の命より価値があるなんておかしい」という考えを持つ人は排除され、「存在しないもの」とされているわけです。そして、今回の「ルックバック」という作品は、まさにそういう排除の構造を強化するものでもある。
もちろん、だからといって僕は「だから、『ルックバック』という作品はそういう排除されるものを描くべきだった」とは言いません。何度も言いますが、そういった客観性を「余分なもの」として排除し、とことん閉じた作品世界を構築しているからこそ、この作品はここまで感情を揺り動かす強度を持っているわけですから。
むしろ、作品自体にそういった余計なものを考えさせないためにこそ、作品を受け止める「批評」の側が、作品で「存在しないもの」とされたものからの言葉を紡がなきゃいけないのです。
もちろん、それは作品に対して素直に感動している人に対し、「その感動の影で排除されているものがあるんですよ」と冷水をかぶせることだから、作品に素直に感動するマジョリティからは嫌われるでしょう。
ですが、本来批評家というのは「マジョリティに嫌われてでも、作品に対して客観的に批評を行い、良い点と悪い点を指摘するもの」なはずなわけです。もしそれが、マジョリティから嫌われることを恐れるからって、「マジョリティの感情に迎合し、それにおもねるような言葉しか書かない」ということになるのなら、それはもう、批評家としては死んでいるんじゃないかと、思うわけです。
逆に言えば、そういって、マジョリティに嫌われてでも、マジョリティから排除される立場から作品を批評する、真の批評家がいなくなったからこそ、そこで排除されるものを掬うものがいなくなったことによる、「この作品は差別を助長するから規制すべきだ」とか「いや差別的な作品を発表することだって表現の自由だ」といった、低レベルな議論が起きてしまうんじゃないかと思うわけです。

ていうか荻上チキ氏って、まさにそういうマジョリティにおもねる姿勢を「俗情との結託」として批判していた絓秀実氏の門下生のはずなんだけど、文化批評に関してはほんと批評未満の「オタクの好きなもの紹介」しかしないのは、なんなんだろうか。