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「物語」から疎外されるものについて(「ルックバック」の感想のような、そうでないような)

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+
話題になっていますね、「ルックバック」
blog.hatenablog.com
www.j-cast.com
僕も無料ということで読んでみたんですが、「まあ、良いとは思うけど、そこまで絶賛されるものか?」という感じの感想でした。
ただ一方で、下記のような批判もなんか違うように感じるんですね。
anond.hatelabo.jp


いや確かにマンガ内での描き方は偏見を助長するかもしれないし、明らかに実在の事件を題材にしたものである以上、そこには特段の配慮が必要であると言えるかもしれない。
でも、そこで特段の配慮をして「この漫画に描かれている犯人は別に統合失調症とかが原因でこういう事件を起こしたんじゃありませんよ」というエクスキューズをされればじゃあいいのかっていうと、そうではないと思うんですよ。
じゃあ一体何が引っかかっているのか。
おそらくそれは、この「ルックバック」というマンガそのものの問題と言うより、それを取り巻く「語り」の問題なような、気がするのです。

ある出来事が「物語化」されるとき、描かれるものと描かれないものについて

まず、このマンガが京アニ事件をベースとしているということは、おそらく誰もが認めることでしょう。
そして、このマンガでは、京アニ事件を「尊敬されるべきクリエーターに向けられた理不尽な暴力」として描き、その暴力を嘆き悲しむ立場から物語が描かれているわけです。
ただ、それはあくまで、京アニ事件というものを物語化する際の、視点の一つであり、そこでは描かれるものと、描かれないものがあるわけです。
例えば僕なんかは、別に「クリエイター」というものをそんなに特別視していないので、そもそも京アニ事件を「尊敬されるべきクリエイターが犠牲となった事件」として特別視することに納得がいってなかったりするのです。むしろ、京アニ事件についての追悼はたくさんされるのに、同じ様に多くの罪のない人が殺された他の事件には特段注目されないことに苛立ったりして、下記のツイートに同意したりする立場です。


そしてそんな立場からすると、「ルックバック」は、事件の本質でない部分に過剰にスポットライトを当てている気がしてしまう。
またそれとは別に、京アニ事件の加害者側に注目している人からすると、「ルックバック」というマンガにおける加害者側の描き方は、報道によって作られたイメージとしての犯人でしかなく、結果として報道の偏見をそのまま増幅してしまっているように見える。
しかし実際は、下記のツイートにあるように、精神鑑定の結果、京アニ事件の犯人は別に精神障害が原因で犯罪を犯したわけではないわけです。
しかしこれらのことは、「ルックバック」というマンガには描かれていない。

物語がある一つの立場から描かれる以上、そこで「描かれないこと」があること自体はしょうがない

でも、それら「描かれないもの」があるというのは、マンガが一つの「物語」である以上、仕方のないことではあるんですね。
さきほど僕は京アニ事件を「尊敬されるべきクリエーターに向けられた理不尽な暴力」として描き、その暴力を嘆き悲しむ立場から物語が描かれていると言いました。言うなれば、「クリエイター至上主義」という見方です。そして、この見方に立つなら、クリエイター以外の人間が殺される他の事件なんてどうでもいいし、殺されるクリエイター側こそが重要なんであって、殺す側の描写なんか、定型的なモンスターで十分だと、なるわけです。
逆に、もしここで「違う見方も取り入れなきゃ」とアリバイ作り的に、クリエイター至上主義から離れた立場から見えるものを描いたとしても、それは物語を散漫なものにするだけでしょう。「クリエイター至上主義」から見えるものしか描かないからこそ、このマンガはその立場を共有するものからの感情移入を手に入れ、そしてその立場を共有するものにとっては感動できる物語となっているわけです。このマンガが「物語」である以上、そこで描かれないものがあることは、しょうがないことなのです。

物語による疎外を、SNSが加速する

問題は、そこで「描かれなかったもの」を掬うものが、あまりにないということです。
このマンガを紹介するとき、担当編集は次のようにツイートしています。


多くの人に届いて欲しいです。この言葉通り、マンガは見事にバズリ、絶賛するコメントや記事がSNS上を席巻しました。
さらに言えば、そうやって一旦「褒められるべき作品」の場所に作品が祭り上げられると、SNS上ではまるで大喜利のように「もっと大げさにこの作品を褒める言葉を生み出せ」という流れが生まれてくるわけです。
そして、そういう風に褒めがどんどん加速していくと、「ここまで褒められていると、それを批判する側もそれに負けないようにきつく批判しなきゃいけない」となってしまい、批判もより先鋭化していくわけです。
ですが、そのような先鋭化する褒めと批判では、先に述べたような「描かれなかったもの」を掬うことはできないんですね。なぜなら、それは「作品の善し悪し」とは別の話だから。「作品は良かったかもしれないけど、でもこんな描かれてないこともあるよね」という声は、先鋭化する褒めと批判に比べればあまりに弱く、SNSでは拡散されにくいわけです。例え個々人がそういう感想を書いても、大きな流れにはならず、結果として個々人は疎外され、沈黙するか、「そこまでは言いたくないんだけどな」と思っても褒めや批判の声をあげることになってしまう。
更に言えば、物語をマーケティングする側も、微妙なわかりにくい感想があふれるよりは、褒めでも批判でもとにかくわかりやすい言葉でバズったほうがよりマスに届くから、そういう流れを助長するわけです。

微妙なものを受け入れられないSNS

更に言うと、そういったSNSでのバズが求められる環境では、「バズりやすい見方」だけに物語が描かれる見方が限定されるわけです。
今回の作品だって、多くの人にこの作品がバズったのは、この作品が依って立つ「クリエイター至上主義による被害者側からの見方」が、多くの人に受け入れられているからなわけです。
しかし、京アニ事件を物語化して描くなら、その描き方はそれに限定されるものではないはずなんですね。例えば「加害者側からの描き」というのも、ありえるし、そこからしか描き得ないものや、そこからの描きこそが必要な人もいるわけです。
しかし、現状のSNS上でバズることが最優先される環境では、そういう作品は受け入れられないわけです。「自分と同じ立場からの見方」による作品は、それこそ単純に「この作品好き!」と言えますが、「自分と異なる立場からの見方」による作品は、単純には受容できず、受け入れ言語化するのに苦労が伴います。ですが、SNSという場ではそういう複雑なものは書ききれない。結果としてSNS上ではバズらず、多くの人に触れられることもなくなってしまうわけです。
「ルックバック」という物語への批判に対し、「そういう批判をするなら、自分がその批判する立場から物語を描けばいいじゃん」という反論がSNS上ではよく見られます、しかし、そもそも現在の物語を取り巻く環境って「みんなから単純に共感されない物語」は描きにくくなっているというのも、また事実なわけです。

「物語」から疎外されるものをいかに語るか

では、そうやって「物語」によって掬われない思いは、一体どう発露すればいいのか。
僕が若い頃は、むしろインターネットが、そういう「掬われない思い」を受け止める場所だったわけです。世間では大絶賛されてる作品だけど、俺はここが気に食わないとか、そういった「物語から疎外されるもの」を発露する場所が、インターネット空間でした。
ところが、おそらく今の人々の多くにとっては、インターネットってそのような場所ではなく、むしろインターネット上こそ「まわりの空気を読んで、その空気に合わせた発言をしなきゃならない場所」になってしまっている。
そうした中で、「この物語のここが自分には合わない」ということが発露できないモヤモヤが、なんか今のインターネットには溢れている気がします。そして、モヤモヤが個々人のものである内はまだいいんですが、それがふとしたきっかけで集まってしまうと、それこそ「あの作品は社会に悪影響をもたらすから規制すべき」みたいな動きにつながってしまうんじゃないかと、思うわけです。
だから、単純な「褒め/批判」ではない微妙な感想を掬い取る場所こそが、必要なんじゃないかと思うんですけど、そんな場所をどうやれば作ることができるのか?今の僕には、まだわかりません。

「物語」から距離を置く感想

最後に、僕が、「この感想は単純な褒め/批判ではないものだな」と思った感想を紹介します。「ルックバック」を読んで、褒めでも批判でもないモヤモヤとした思いを抱いてる人は、これらの感想を読めば、少しは溜飲が下がるんじゃないでしょうか。
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