あままこのブログ

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フェミニストは女性の権利のために戦う弁護士なのか裁きを下す裁判官なのか

フェミニスト原則」
swashweb.net
がインターネット上で話題になっていますが、そんな中、はてなブログで次のような記事が話題になりました。
ponjpi.hatenablog.com

歴史的にも、多くのフェミニストたちは、ジェンダーや性別、セクシュアリティの境界線を超えたすべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできました。

え?ちょっと待って?先輩たちは、「きつい」だの「こわい」だの「不満ばっかり」とか言われながら、女性の権利を人並みにしようと頑張ってきたんじゃないの?女だからものを言えない状況があって、女だから性的被害や犯罪にあって、そういう状況をなんだかんだケンカとかしながらも励まし合ってきたんじゃないの?フェミニズムはそういう運動だと思ってたんだけど、ちがうの、シスター?
【追記】「歴史的にも~すべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできた」といったら、まるで女性運動としてのフェミニズムがなかったってことになるよね?だって、もともとそんな崇高で広範な人権運動なんかじゃなかったじゃないですか。フェミニズムって。

この文章を読んで、僕の中での「フェミニスト原則」への違和感がようやく言語化できたような気がするのです。
要するに、僕や、またこの記事の著者や、また今回の「フェミニスト原則」に違和感を持つ多くの人にとって、フェミニズムや、それを主張するフェミニストというのは

  • 女性の権利を主張し、その権利のために戦う弁護士

のような存在だと思ってきました。しかし、「フェミニスト原則」においては、フェミニストとはそういう存在ではなく

  • すべての人に公平な裁きを与える裁判官

として位置づけられてるわけです。そして、フェミニスト原則に賛同する側の人は、自分たちの活動を、そういった「裁きを下す」ものとして捉えている。
この認識の違いこそが、「フェミニスト原則」に対する賛否が分かれる原因なのです。

「裁判を成り立たせるルール」が存在する中で、一体どのような主張をするかということ

ただ、ここでちょっと議論がややこしくなるのが、弁護士と裁判官は、別に完全に敵対する関係ではなく、むしろ重なる部分を多く持つということです。
裁判においては、その裁判を成り立たせるルールが存在する。例えば、いくら被告を痛めつけたいからって、実際に被告に暴力をふるったり脅迫をしたりしてはいけません。
そのことは今回の「フェミニスト原則」についての論争にも言えることで、先日の記事へのブコメ
b.hatena.ne.jp
でもなぜか「『フェミニスト原則』に反対するお前は、トランスジェンダーへの暴力や脅迫を肯定するのか!」みたいなことを言われましたが、議論のときの暴力や脅迫を肯定しないというのは、フェミニスト原則より前の問題なわけです。
逆に言えば、「『フェミニスト原則』に反対するお前は、トランスジェンダーへの暴力や脅迫を肯定するのか!」という人は、フェミニストでなければどんどん暴力や脅迫を肯定するとでも思ってるんでしょうか?だとしたら、それはちょっとフェミニスト以外の人間を馬鹿にしすぎでしょう。
暴力や脅迫を肯定せず、あくまで言葉や制度によって自らの正義を実現しようとする。それを前提とした上で、では「どのような立場にとっての正義を主張するのか?」ということが、問題となるのです。

「女性の権利を代弁する」のか「公平な権利の配分を目指す」のか

フェミニスト原則では次のような文章が高らかに謳われています。

どのグループの人々の人権の実現も、他のグループの権利の犠牲の上に成り立つものではありません。

しかし先日の記事で述べたように、実際は「あるグループの人権の実現」が「他のグループの権利の犠牲」なしになりたたないということは、同じ社会の上で生きる以上、どうしたって起こり得るわけです。というか、まさしくこれまでのフェミニズムが戦ってきたのって、「男性グループの人権の実現」が「女性やトランスジェンダーの権利の犠牲」の上に成り立ってきた、そういう社会構造だったわけですから。
問題は、そこでいかなる立場から「権利」を主張するかということです。僕や、今回提示された「フェミニスト原則」に反対したり違和感を持つ多くの人は「女性というアイデンティティから、女性の権利を主張するもの」として、フェミニズムフェミニストを捉えています。だから、先のブログの著者が言うように、「フェミニスト原則」のなかに女性というアイデンティティへの言及が全然ないのは、おかしいんじゃないのと思うわけです。
しかし、どうやら「フェミニスト原則」を提示し、それに賛同する人たちは、そのように「自らのアイデンティティから、自らの権利を主張するもの」としてフェミニズムを捉えていない。じゃあその代わりにどのような主張をしてるかといえば、それは「公平な第三者の立場から、権利衝突を調整するもの」としての立ち位置にフェミニズムフェミニストはいるということです。そして、そういう立ち位置から見れば、女性の権利の実現がトランスジェンダーの権利の実現を抑圧するのなら、女性の側も権利の主張を我慢しなければならないと、そういう主張になるわけです。さらに言えば、昨今話題の弱者男性論、KKO(キモくて金のないおっさん)論においても、弱者男性やKKOの権利を女性の権利が抑圧しているなら、女性は自分たちの権利を我慢しなければならないと、そういうことになるわけです。

「権利衝突を調整する第三者」という立ち位置の危うさ

しかし、僕はそういう「権利衝突を調整する第三者」という立ち位置って、実は極めて危ういものじゃないかと思うわけですね。
例えば、先程弱者男性の問題を例に出しましたが、そうやってフェミニストが「権利衝突を調整する第三者」として弱者男性を擁護する立場に立っても、それって結局「フェミニスト女性から見た弱者男性の持つべき権利」の擁護にしかならないわけですよ。弱者男性が自分たちで「こういう権利がほしい!」と主張するのではなく、あくまで「こういう権利がないと生きるのがつらいよね?だから分け与えてあげる」という、パターナリスティックな権利の分け与えにしかならず、そこでは弱者男性当事者は蚊帳の外に置かれてしまう。
僕は、昔よくフェミニストの論客に「弱者男性の権利のことも考えろ!」ということを主張することがあったのですが、その時論戦の相手に居たフェミニストはよくこう言うわけです。「弱者男性の権利の主張をしたいなら、それは弱者男性自身が主張するべきであり、フェミニストが主張するべきことではない」と。
これ、一見すると確かに冷たく見えますが、しかし実際は最もな主張なんです。もし、フェミニズムが弱者男性の権利を代弁したとしても、それは結局「フェミニストが想定する弱者男性の権利」の主張にしかならないわけです。弱者男性が自らの権利を主張するなら、弱者男性自らが自らの言葉で権利を主張しなければならない。まさしく、フェミニストが自らの女性という立場から自らの権利を主張したように
そしてそれと同じ様に、トランスジェンダーセックスワーカーも、自分たちの言葉で自分たちの権利を主張すべきであって、それをフェミニズムが勝手に代弁することは、むしろ彼らの言葉の簒奪になってしまう。こういう立場こそが、僕が今まで想定してきたフェミニズムフェミニストの立場である、そしてSNSなどで「フェミニスト」を自称する人たちの立場だと思うわけです。
ところが「フェミニスト原則」を主張し、それに賛同する側は、そのような立場に立たず、自分たちが公平中立な第三者として、各々の権利衝突を仲裁し、それぞれのグループが最も幸福に生きられるよう権利を配分できると思っている。
しかしそれって、僕からするとまさに今までのフェミニズムが批判してきた「パターナリスティックな介入」に思えてならないし、ぶっちゃけて言うと、思い上がりも甚だしいと思うわけです。

今までフェミニストに反対していた人が「フェミニスト原則」に賛同する愚かさ

そしてさらに言うと、そういう考えから、僕は、今までフェミニストに対し割と反対していた人たちが、「フェミニスト原則」に対し、下記のブコメ
b.hatena.ne.jp
SNSで賛同を示してるのが信じられないんですね。みなさん、本当にこの声明文読んでます?これって要するに、フェミニストが全ての人々の王として、どの人々にはどのような権利が分け与えられるべきかを決定するということを書いてあるんですよ?id:tyoshiki氏なんか、この声明文に賛成する立場から、↓みたいなまとめ
togetter.com
を作って、声明文への反対者を攻撃してるけど、この声明文が目指してることって、まさにid:tyoshiki氏が書いた
note.com
「どういう表現が公共の場にふさわしくないか」の基準を作っていくという極めて大事なプロセスをフェミに丸投げすることそのものじゃないですか!?

パターナリスティックな介入を肯定するのではなく、当事者たちがそれぞれの立場から自分の権利を主張する社会こそが、「リベラルな社会」では?

これは、僕が「当事者主権」

といった考えが全盛期だったころに大学生・院生だったからそう思うのかもしれませんが、今の言論空間って、あまりに「当事者以外からの代弁」に期待しすぎているかのような気がしてならないのです。
そして更に言えば、その結果として「何も言わなくても自分の権利を勝手に社会が叶えてくれるシステム」を求めるようになってしまっているような気がしてなりません。まるでアニメ『PSYCHO-PASSの「シビュラシステム」のような、全ての欲望が先回りされる社会。
ですが、実際は、たとえどんなに優れた制度やシステムでも、自分の本当に求めている権利を与えてくれるとは限らないわけで、だから、「自分という当事者」だけが、自分の権利を主張できるはずなんです。
そして、自分がそうやって自分の権利を主張するように、「フェミニスト」「トランスジェンダー」「弱者男性」といったアイデンティティの当事者が、それぞれの当事者性を持ってまず自分の権利を主張し、そして更にそこで相手の主張を理解して、妥協点を探っていく。そういった社会こそが、まさしく「上から秩序を押し付けられる社会」ではない、フェミニズムとかが追い求めてきた「リベラルな社会」だと思ってたんですね。
ところが、「フェミニスト原則」が支持される現状を見ると、多くの人が、そういった「当事者同士が自らの権利を主張し合うリベラルな社会」の摩擦を嫌がっているみたいで、誰かを「王」とし、その王にパターナリスティックに権利を配分してほしいと思っているみたいです。
それってでも、とっても気持ち悪いなぁと思うのは、僕が古い人間だからですかね。