あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

オタクとフェミニズム、なんでこんなに仲が悪くなっちゃったの?

なんかまた最近、女の子を描いた絵が過度に性的とかそういうはなしで、Twitterの方で炎上があった模様です。
www.asahi.com
www.itmedia.co.jp
こういう話題については、このブログでも何度か取り上げてきました。
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
なので、こういう問題に対しての僕の原則的立場とかは、上記の記事を読んでいただければと思います。

ただ、こういう炎上をいっぱい見てきて、僕には一つ思うことがあるのです。

それは、「オタクとフェミニズム、なんでこんなに仲が悪くなっちゃったの?」ということです。

かつて、オタクとフェミニズムが結構仲がいい時代があった……少なくとも、僕の認識では

こういうことを言うと、多くの人はきっとこう思うでしょう。「オタクとフェミニズムってもともと仲悪かったんじゃないの?」と。

確かに、今インターネットで見るのは、オタク絵が「性的搾取」としてフェミニズムにたたかれ、それに対しオタク側が「表現規制」として反対する、そんな光景ばっかりですから、もはやオタクとフェミニズムを相容れない不倶戴天の敵なのは当然に見えるのかもしれません。

しかし、ゼロ年代に青年期を経験し、そしてその間ずっとネット上でオタク文化とかフェミニズムとかについて書いてきた身からすると、むしろ「オタクとフェミニズムって、もちろん対立するところはあれど、基本は結構仲良しだったじゃん」と思わずにいられないのです。

ゼロ年代前半ーオタク文化について書かれた本を読もうとすれば、フェミニズムを避けることは不可能だった

僕がアニメやマンガ・ゲームとかについて人並み以上に関心を持ち、ブログでそういったものへの感想を書いたりし始めたのは中学生ぐらいの時でした。僕は1987年生まれなので、中学生のころは90年代終わりからゼロ年代初頭です。で、その頃にオタク文化について何か物を書こうとしたら、それこそ東浩紀

とか大塚英志
定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

とか、あるいは斉藤環
戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

  • 作者:斎藤 環
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 文庫
氏とか藤本由香里とかの本が先行文献として欠かせないものでした。

で、これらの論者の本を読めば分かるんですが、東浩紀は置いておくとしても、後者の三者の本とか、もう明らかにフェミニズム、というか上野千鶴子氏の影響が大きいわけです(藤本氏なんかもろ上野氏のゼミ生だしね)。また、ちょっと時代を遡ってエヴァ評論とかの本が出てた時には、小谷真理氏も『聖母エヴァンゲリオン

とかいうフェミニズム批評の視点からのエヴァ評論の本を書いていたりしていたわけです。
ですから、こういう先行文献を読んでネットでそういう本の真似事のような批評を書いていた僕のような人間にとっても、同じように、「家父長制」とかのフェミニズム教養は、とりあえず最低限押さえておかなきゃならないものだったわけです。

で、これも僕の印象論になってしまうのですが、この当時のオタク文化に対するフェミニズム批評というのは、決してオタク文化に対し、肯定的とまではいかなくても、少なくとも頭ごなしに否定してくるものではなかったと思うのです。もちろん、オタク文化の中に男性から女性への性的眼差しがあるということは何度も強調されていましたが、しかしその一方で、そういう表現に対し「対抗的コード」で読解を行うことにより、時に既存の家父長制に対し疑義を呈するような表現として読み解くこともできる、そういった、オタク文化の可能性を認める批評という物もあったわけです。
「対抗的コード」とは、スチュアート・ホールというイギリスのサブカルチャー研究者が提示した考え方です。
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/1A/e_encoding_decoding.html

 例えば、ニュースの中で、送り手は社会的出来事の「支配的」または「優先的」な読み取り、解釈を伝えようとする。送り手の「支配的」または「優先的」な解釈からどれくらい距離を置くかによって、読者・視聴者のデコーディングは3種類に分類することができる。ホールは、送り手の解釈に完全に重なる形で読解を行う立場を「支配的コード」、送り手の解釈を部分的に受け入れながらも別の見方も参照しようとする立場を「交渉的コード」、送り手の解釈に完全に反対の立場で読解を行う立場を「対抗的コード」と呼ぶ」(藤田[2002:121])
□「商品の価値が生産と消費のそれぞれの時点で等価ではないように、送り手によって「優先的に」エンコード(意味付与)されたメディア・メッセージも、オーディエンスによってその意味どおりに受け取られるとは限らず、それとは真っ向対立する「対抗的」ディコード(読解)や、また読解者の状況によって「優先的」意味と折衝し続け、意味を固定化することのない「折衝的」ディコードも想定される。

まあ、簡単に言うなら「作者が意図しない、むしろそれとは反対の解釈の仕方」というものが「対抗的コード」であるわけです。つまり、作り手がいくら家父長的・女性差別的な意図を込めて作品を作り出したとしても、受け手のオタク側がそれを「対抗的コード」で読み解くことによりそれとは反対の意味を作品に見いだすことができるというわけです。
例えば、もろマッチョイズム的な作品が作者によって描かれても、それを「BL」として読んで二次創作してしまう、ということがあり得るように。そして二次創作を頻繁に行うオタクは、まさしくそういう「対抗的コード」の担い手となり、既存の家父長制秩序の攪乱者となりうるのではないか。そんな議論が、フェミニズムオタク文化の境界線上にはあったのです。

「萌え」と「エロ」は違うものであった……建前上はね

そしてゼロ年代が進むにつれ、オタク文化が大衆化するにつれて、オタク文化に対する注目もどんどん高まります。その時代を代表する言葉として挙げられるのが、2005年に流行語大賞にもノミネートされた「萌え」です。
「萌え」という言葉、もはや懐かしさすら感じる言葉ですが、当時はまさしく「萌え」を分かるか否かがオタクであるか否かを見分けるリトマス紙のような役割でした。

そして、これは重要なことなんですが、当時の「萌え」という言葉は、主に女性キャラクターに向けられる言葉でありつつ、「性的欲望を向けるようなものではない」ものであると、少なくとも建前上はされていたということです。簡単に言ってしまえば、「『萌え』と『エロ』は違う」というのが、当時の大多数のオタクの言い分でした。むしろ「萌え」は、女性が発する「かわいい」に近いというのが、当時のオタクの「萌え」という言葉に対する(表向きの)見解だったのです。「萌え」とは今までのような男性によって女性を性的に消費する性的搾取ではない、中性的な言葉であったのです。少なくとも、当時はそう信じられていました。

そしてそういう「萌え」至上主義においては、本来は性的消費のために存在していたはずのエロゲーですら、「エロさに甘えるなんて安直。エロがなくても泣ける『泣きゲー』こそが至高!」なんて価値観すら生まれていました。葉鍵板とか鍵っ子とかエロゲー批評空間とか、そういう言葉を出せば、「うっ、頭が……」となる読者も、ある程度は居るのではないでしょうか?

そして、当時僕は大学生で、しかも社会学なんてものを専攻していたわけですが、当時はまさしく卒論の半分ぐらいは「オタク」とか「サブカルチャー」とか、あるいはそのものずばり「萌え」を題材にしていたものだったわけです。そして、そういう卒論を書くのは、僕の記憶では、男女半々ぐらいでしたし、内容も、まあまあフェミニズムを下敷きにしながら、先ほど述べたような「対抗的コード」による読みの可能性をオタクに見いだすとか、まあそんな感じのものでした。

(なお、ここで付言すると、当時の僕は、むしろそういう「『萌え』と『エロ』は違う」という言葉には嘘くささを感じていて、結局「萌えって『エロ』の言い換えであり、性的消費である後ろめたさを隠してるだけなんじゃないの?」と思っており、そういう観点から鍵っ子に突っかかる文章を書いていたりしました。まあ、これも今となっては黒歴史ですが……)

10年代……「萌え」から「ブヒる」、そして「シコれる」へ

ところが、「萌え」という言葉は10年代になるとだんだん古い言葉になってきます。その代わりに現れてきたのが、「ブヒる」という言葉でした。
「ブヒる」とは、まさしく豚の鳴き声を真似た言葉です。アニメとかで好みの女性キャラクターが出てくるとき、豚が「ブヒィィィ」と鳴くように興奮する、その様子を「ブヒる」という風に読んでいました。
なぜこういう言葉が「萌え」の代わりに流行ったか?その背景には、オタク文化がメインストリームに取り込まれる中で、きれいに脱臭された概念になっていくことに対する、男性オタクの抵抗という意味がありました。俺たちはそんな良識ある大人たちに喜ばれるような綺麗なもんじゃねーぞ、小さい女の子に性的に興奮したりするもんねと、ある種の露悪趣味的な側面がそこにはあったのです。

そして、「ブヒる」はさらに直接的に、「シコれる」へと変化していきます。「シコれる」とはそのまま単純に、自慰行為に使えるような性的興奮をそのキャラクターに覚えるという意味で、そこではむしろ「エロい」より直接的に、「自分は性的にこのキャラクターを消費してますよ」ということが示されるわけです。

(そのような言葉の変化と同じように、オタク文化で好まれる表現もより扇情的になっていったのではないかと、僕は印象を持っていますが、それは僕の印象論にすぎないですが、少なくとも、そういう表現を許容する雰囲気が、ゼロ年代より10年代のほうがある気がします)。

このようなオタクの変化の一方で、フェミニズムとか人文系学問とかの雰囲気も10年代は大きく変化しました。90年代からゼロ年代前半は、「政治に関わるなんてダサいよねー」みたいな雰囲気がまだ残っていて、その代わりに文化批評とかをやるのがナウい態度だったのが、保守派の台頭によるフェミニズムへのバックラッシュ

やら、あるいは東日本大震災やらを経て、「文化批評なんて結局お遊戯でしかない。知識人なら政治に関わらないと」みたいな雰囲気になっていったわけです。

もちろん、政治に関わること自体はいいことです。むしろ僕は、90年代からゼロ年代の「政治に関わるなんてダサいよねー」みたいな雰囲気が嫌で、同時代のオタクブロガーの中でも比較的政治的意見も多く発信していました。ただここで問題なのは、「政治について語ること」は、よほど注意しないと「政治のやり方で語ること」になってしまうということです。「政治のやり方で語ること」とはつまり、世界を味方と敵に分け、味方をエンパワーメントし、敵を弱体化するために言論を発するというものです。もし最初から真剣に政治一本で研究してきた人間なら、こういう罠を的確に見分けるのでしょうが、残念ながら、僕を含めて多くの「文化について語りながら、政治に手を出してきた人間」は、この罠に見事にはまり、まさしく「にわか政治家」と化していったのです。

現在ーすべてが「政治」に取り込まれる時代

そして、そのようにオタクが性的消費を隠そうともしなくなっていた中で、フェミニズムは再びオタクと出会いました、今度は「政治問題」として。
ここでやっかいなのが、いったん「政治問題」となってしまうと、関わるすべての人が「政治のやり方」でコミュニケーションを取るしかなくなってしまうということです。相手が自陣営の強化と敵陣営の弱体化を目的として行動するなら、敵として名指しされた側もそのやり方で対抗しなければ、一方的に蹂躙されてしまうだけ。だからいったん「政治問題」として自分の身の周りの物事が取り上げられると、「政治的コミュニケーション」は際限なく拡大していき、他のコミュニケーションのやり方は駆逐されてしまうのです。
そしてやがて、すべてが「政治的問題」となり、人々のコミュニケーションも「政治的コミュニケーション」に塗りつぶされてしまう。今、Twitterで起きているのは、まさしくそういう状況なのです。
その中でフェミニズムもオタクも「にわか政治家」となり、際限ない闘争が繰り広げられる。その中で時にどっちかが負け、そしてどっちかが勝つことはあるでしょう。しかし結局それは局地戦の一局面に過ぎず、結局戦争は続くのです。

「個人的なことは政治的なこと」と言うけれど、本当は「個人的」と「政治的」の間こそが必要なんじゃ?

フェミニズムのスローガンの一つに「個人的なことは政治的なこと」というものがあります。夫婦の間で妻が夫の所有物みたいに扱われるとか、あるいはセクハラとかいった個人的な物は、実は社会の構造によって生まれた政治的なものであるという意味です。こういう見方をすることによって、たしかにフェミニズム女性差別の解消に大きく貢献してきました。
しかし今の時代は、むしろそうやって、世界のすべてを「政治的」の取り扱ってしまうことこそが、世の中に分断を生んでいるように思えてなりません。もちろん、その分断は今まで不当に「ないものとされてきた」ことが噴出しているだけなのでしょう。しかしだとしても、分断を促すだけで世の中は良くなるのでしょうか?常にそれぞれの属するアイデンティティ同士で政治的対立をしている状況が、本当に幸せなんでしょうか?

僕は、むしろ「個人的」と「政治的」の間に、「個人の問題じゃない、だけど、政治の問題でもない」領域があるということ。そこでは、政治的コミュニケーションとは違うコミュニケーションのやりかたをすべきだということこそが、今分断を乗り越えるために必要に思えてならないのです。
これは、オタクとフェミニズムの問題に限りません。例えば最近、Vチューバーが両岸問題を巡って炎上に巻き込まれることもありましたが、ここでも「政治的コミュニケーション」しかコミュニケーションの回路が生まれなかったことが、その炎上を引き起こす大きな要因になったように思えてなりません。
政治的主張」に対し「政治的主張」でやり返すことはとても簡単です。また、それをやらなきゃ自身の存在が脅かされるようにも思うでしょう。でも、そこで「政治」に敢えて乗らない姿勢が、実は今の時代最もカッコいいんじゃないかと、最近の僕は、思ったりします。