amzn.to
togetter.com
「寒いプロパガンダ」という評が言われてるけど、なんつーか、お前らプロパガンダ舐めんなと思います。
上海に旅行に行ったとき、プロパガンダポスター専門の美術館にわざわざ行ってきた
amamako.hateblo.jp
僕からすれば、こんなもんプロパガンダ未満ですよ。
『戦争論』とかと同列視するのは、『戦争論』に失礼
とかとこのマンガを同列視しているツイートも散見されるけど赤松健の政治漫画
— 九兆 (@kyu_tyou99) 2022年4月24日
個人的にはガッカリというより
「あーついに″小林よしのり化″したかー」みたいな印象
政治漫画って「″現実″さえ描いておけば賞賛を得られるジョーカーみたいな題材」であり
これの怖い所は「ジョーカーの強さにハマりすぎてそれ以外使わなくなる」んですよね
それはもう遊技ではない
小林よしのりとか、あと山野車輪の『マンガ嫌韓流』とかをずっと批判してきた僕からしても、「こんな稚拙な表現と一緒にしないでくれ」と思う訳です。
小林よしのりにしろ、山野車輪にしろ、彼らの表現っていうのは、「違う主張を持っていたり、そもそも主張を持っていない人に向けて、自分の主張を受け入れさせるためのもの」なんですね。というか、そもそもプロパガンダとはそういうものなんだけど。
で、その為に彼らは、一般の人々の心に寄り添い、その心情や不安をうまくすくい取る描写を盛り込み
自分の存在が異端であることをきちんと描写しながら
しかし自分が、なんで「目覚める」ことができたかを表現し
そして更にマンガ特有の感情移入を呼び起こしたりして
様々な技巧を使って、異なる立場を説得しようとするわけです。
一方、「ヤマーダクエスト」の方はといえば、徹頭徹尾オタクの内輪受けでしかないわけです。
これらのコマに、「表現の自由界隈のオタクの内輪笑い」を狙う以外の一体何の意味があるのか?
例えばこれが小林よしのりなら、下記のようにありったけの絵と文字を使って「その単語にどういう意味があるか」説明するわけです。
なぜなら、小林よしのりはそもそも「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」なんてことを知らない人に向けて、マンガを書いているからなんですね。
しかし「ヤマーダクエスト」にはそんな「他者を説得しよう」という要素は一つも無いわけです。徹頭徹尾、内輪向けの自己満足マンガ。そんなもの、プロパガンダとすら呼ぶに値しません。
彼らにとって「表現の自由」とは、自分たちが興奮できる「萌え属性」の一つにすぎない
しかし、なんで彼らの表現がここまで稚拙なのでしょう。
その答えは単純です。「彼らは物語を作ることができず、ただデータベースに萌えてるだけだから」です。
中国のプロパガンダポスターにしろ、小林よしのりのゴーマニズム宣言にしろ、彼らはその表現によって、「毛沢東に率いられた中国共産党の共産主義が世界を解放する」であったり、あるいは「大日本帝国はアジアを解放するために戦い、その歴史は日本人の自信と誇りになっている」であったりというような、一つの物語を描こうとしているわけですね。そして、その物語の魅力によって、人々に共産主義だったり大東亜戦争肯定論のような主義・主張を植え付けようとしている。
ところが、「ヤマーダクエスト」や、表現の自由戦士たちの表現には、そもそもそういう物語は存在しません。あるのは「表現の自由は大事」「女性の性的表現を規制しようとするのはブスの僻み」「日本文化は大事」というような、断片的なフレーズのみ。そのフレーズに同調し「そうだそうだ」と興奮できるひとは興奮できるけど、そうでない人にとっては全く意味不明な表現でしかないわけです。
なぜそういう表現になってしまうかといえば、表現の自由を守ろうとするネットのオタクたちが、そもそもそういう形でしか興奮できないからなわけです。物語に興奮するのでは無く、フレーズに興奮する。
これは、まさしく東浩紀が『動物化するポストモダン』で表現した「データベース消費」なわけです。
東浩紀が『動物化するポストモダン』で示したのは、オタクたちが「悪い宇宙人から地球を救う」とか「正義と悪に割り切れない戦争の中で戦う少年たち」のような物語では無く、上記の図にある「猫耳」「メイド服」のような、オタクのデータベースに登録される萌え属性に興奮するようになったという話なわけですが、表現の自由戦士たちはその様式をそのまま政治の世界に持ってきて、「表現の自由のために戦うもの」とか「アンチフェミニズム」とかいう属性に酔ってるだけなのです。
しかし、「物語」は、異なる立場の者にも理解可能な物ですが、「データベース」は、それを共有する者同士の内輪でしか通じません。
例えば毛沢東主義にしろ大東亜戦争肯定論にしろ、もちろん彼らの主義を容認はできませんが、しかし「虐げられたもののために立ち上がる」という物語自体は、それを否定する人にも理解はできるわけです。しかし「表現の自由」という単語だけでは何のこっちゃわけがわからないわけで、それを他の人に理解してもらうには、一体その概念がどう、オタク以外の一般の人々を豊かにするかの「物語」が、本来は表現されなければならないのです。
ところが、彼らはマンガでプロパガンダをしようとしながら、そういう「物語」を描くことができず、ただ内輪でデータベース消費をするだけのマンガしか描けない。しかしそんな形でプロパガンダを描こうとしても、結局それはプロパガンダ未満の自己満足マンガにしかならないのです。