あままこのブログ

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「#ペドフィリア差別に反対します」について思うこと

なんか一部のSNS上で最近「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグが肯定・否定両方の意味で話題になっているそうで。
note.com

ペドフィリア、チャイルド・マレスターと性的指向
sykality.wordpress.com
これについて僕が思ったことをまとめると以下の通りになります。

  • ハッシュタグのきっかけとなった発言が「ペドフィリア差別」であるとは、僕は思えない
  • 欲望自体はもちろんだれも否定できないが、それを公に表現することは当然批判の対象となりうる
  • 「○○を好きという感情は誰にも否定できない」みたいな安易な共感は、思想としての反差別とは関係ない

「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグが話題になった経緯について

そもそもなぜSNS上で「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグが話題になったのか、詳細な経緯は上記のnoteの記事にまとめられていますが、要約すれば以下の流れになります。

  • 作家の王谷晶氏が「LGBTQ+にペドフィリアが含まれるというのはデマである」と主張

まじで「LGBTQのQにはペドフィリアが含まれる」というデマが知らないうちにかなり広まっているみたいで驚いた…… 私もロイターのファクトチェック張りますが日本語でいい記事ないのかな

普通に考えたらそんなことあるわけなかんべよ、というとんでもない話でも、差別心や恐怖心を媒介にあっという間に結び付けられて特定の界隈では「事実」になってしまうのは本当に怖い。自分も気をつけたい。

特定の属性や相手を悪魔化して見ていると、どんなトンデモ話でも「あいつらならそれくらいやりかねない」と信じ込んでしまいがち。それはデマになり陰謀論になり社会を損壊する流れを作ってしまう。これは思想の左右やジェンダーそのほか関係なく起こると思うので、ほんと気をつけよ……。*1

王谷晶はペドフィリア差別を発信しています
ペドフィリアをチャイルドマレスターと混同し、そしてLGBTQ+と一緒にしてはならない、としています
ですが、実際のところペドフィリアとは性犯罪者でも加害者でもなく、単なる性や恋愛等の向き先をラベリングしたときの名前に過ぎません
ですので、ペドフィリアでありトランスジェンダーであったり、ペドフィリアでゲイセクシュアルやAセクシャルAロマンティックであったりする者もいます
LGBTQ+のQでありペドフィリアである者、そして自分のQの中にペドフィリアが含まれていてQから分離しない/できない者もいます
それなのに「Qにペドフィリアが含まれるのはデマ」と発信し、さらにペドフィリアはチャイルドマレスターである、ペドフィリアが同性愛と同じく"未成年と付き合い恋愛や性的な関係を持てるようにするべき"と主張しているかのように吹聴しているのは、完全にペドフィリアへの差別です*2

僕がこの経緯を見て最初に思ったのが「LGBTQ+にペドフィリアが含まれないと主張することがなぜ差別になるのか分からない」ということです。

LGBTQ+にペドフィリアが含まれないと主張したって、別に差別ではないでしょ

LGBTQ+にペドフィリアが含まれるか含まれないかは、僕は別にクィア理論やフェミニズムの専門家ではないので判断できません。上記の記事を読む限り、専門家でも意見は分かれるようですから、学術的に議論すれば良いことと僕は考えます。
ですが、少なくとも別に「LGBTQ+に含まれないから、差別されている」とは主張できないでしょう。それをいうなら、シスジェンダー異性愛者はLGBT+に含まれないから、差別されているということになってしまいます。
コバヤシ氏は「LGBTQ+の中にもペドフィリアはいるのに、王谷氏はそれを無視している」と主張します。ですが王谷氏が述べているのは、上記の発言を読む限りあくまで「『LGBTQ+が指示する概念にペドフィリアが含まれている」という主張の否定です。
要するに「LGBTQ+はコミンテルンを支持しているという意味だ」とか、もっと馬鹿げて言うなら「LGBTQ+はりんご好きだ」とかいうのはデマであるということと同じことなわけです。
もちろんLGBTQ+の中にはコミンテルンを支持している者がいるかもしれないし、リンゴ好きもいるでしょう。しかしだとしても「LGBTQ+」と言う概念に、コミンテルンを支持するかは関係ないし、ましてやリンゴ好きかどうかは全く関係ないわけです。
以上のことから、僕はコバヤシ氏が批判した発言が「ペドフィリア差別」であるとは全く思えません。

あるスローガンを評価するには、スローガンの正しさだけでなく、そのスローガンが盛り上がった経緯を理解することが重要

もちろん、議論が盛り上がった経緯がそうであったとしても、ハッシュタグを使ってる個々人は、王谷氏の発言への抗議とは別に、ひどいペドフィリア差別を見て「ペドフィリア差別に反対します」と主張しているのかも知れません。
そして、「差別に反対します」というテーゼ自体は、もちろん「#ペドフィリア差別に反対します」を擁護する人が言うように正しいです。
ただ、あるスローガンが盛り上がるのは、そのスローガンが必要となる具体的な事件なり、社会制度や文化の問題があるわけです。例えば、「Black lives matter」というスローガンは、黒人が白人警察に殺害された事件を契機に、白人警官による黒人への暴力を批判し、そこから黒人差別全体を告発するスローガンとして話題になりました。
そして、言葉単体で正しいスローガンも、そのスローガンが表現される経緯が問題であったら、問題であるものとされます。
それこそ「White Lives Matter」「All lives matter」というスローガンがその良い例です。「白人の命も大切だ」「全ての命が大切だ」、それ自体はもちろん大事なことですが、これらのスローガンは「Black lives matter」というスローガンへのアンチとして登場したため、問題視されました。
そのようなことを踏まえると、「#ペドフィリア差別に反対します」というスローガンを判断するには、具体的にそのスローガンがどのような行為を「ペドフィリア差別」と批判しているか、理解するのが重要になってくるわけです。

「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグが反対するペドフィリア差別って何?

しかし、じゃあ今の日本に、LGBTQ+差別と同一線上で語られるような「ペドフィリア差別」が存在するでしょうか?
例えば、同性愛者の人たちには、異性愛者に認められている婚姻の自由が存在しません。それと同じように「未成年者と婚姻する自由が存在しないこと」が、ペドフィリア差別なのでしょうか?
あるいは、世界には同性同士で性行を行っただけで罪になったり、強制的な治療の対象になったりする国があります。それらの法律はLQBTQ+差別として問題視されますが、ではそれと同様に「未成年と性行を行うことを禁止する法律」が、ペドフィリア差別なのでしょうか?
しかし、上記の二番目の記事を見る限り、ペドフィリア差別への反対を主張している方々は、上記のような行為を「ペドフィリア差別」としているわけではないようです。それどころか、上記のようなことはむしろ自分たちも当然だと思っていると、主張します。

この文章は、LGBTQ+コミュニティ全体の考えを反映しているわけではありません(むしろコミュニティ内の異なる考えの方に向けて書いています)。また、チャイルド・マレスターによるものを含んだ性的な加害を正当化するものでは一切ありません。性的同意が絶対的に尊重されること、そして一定年齢以下のひとは性的な同意ができないとみなすべき(あるいは、性的な同意ができるとみなすべきでない)ことは、当然の前提として書いています。

当然の前提と言いますが、LGBTQ+差別と同一線上でペドフィリア差別というものが語られれば、当然「LGBTQ+が差別として批判するような行為と同じような行為をペドフィリア差別として批判してるのかな」と思われるわけで、もしそうでないならそもそもLGBTQ+差別と同一線上で語るべきではないと、僕は思うのですがね。
まあ、それはともかく、では「#ペドフィリア差別に反対します」というスローガンが反対するペドフィリア差別とは一体なんなのか?
二番目の記事では以下の様に語られます。

ペドフィリアは危険」の「根拠」としてよく挙がるのが、ペドファイルの欲望の対象が、性的同意が可能であるとみなすべきでない年齢であることだろう。ペドファイルは、その「定義」上、現実的には絶対に性的同意を得られない対象へ欲望が向いている。

だが、現実的には絶対に性的同意を得られることのないだろう対象に欲望を覚えたことのあるひとは、別にペドファイルに限らない。多くの非ペドファイルだって、面識のないアイドルやすでに死去したひとへ欲求をおぼえてきたし、自分へ性的な関心のない人や確実に持たないだろう人へ性的な欲求をおぼえた経験は自分もある。もし「性的同意を得られる現実的な可能性」自体が問題ならば、そういった欲望を経験してきた人たちだって、同じく「危険」だし「異常」だと議論すべきだろう。そういった視点から「ペドフィリアは危険」だと主張しているつもりならば、主語が誤っている。あなたが問題にしているのは性的な同意を得ずに相手に性的な欲求を持つことそれ自体であるのだから、「ペドフィリア」を切り出してくるのは恣意的だとしか言えない。

要するに、「未成年者に対する性的欲望を持つこと」自体が危険と見なされ、批判されることを、ペドフィリア差別だと主張しているわけです。

欲望を持つのは自由、でもそれを公言すれば当然批判の対象となる

しかし、そもそも私たちは他人が何を考えてるかを知ることはできないわけで、ただ頭の中で思っているだけの人間を「ペドフィリアの欲望を持ってるな。お前は危険だ!」と批判することは、現状では不可能なわけです。
だから、ペドフィリア的な欲望を持っていることが批判されるとしたら、それは思考だけでなく、具体的な行動や表現として、他者に示される場合になるわけです。
上記の記事では多くの非ペドファイルだって、面識のないアイドルやすでに死去したひとへ欲求をおぼえてきたということを言うので、それを例に出すなら、ネット上の配信界隈では「ガチ恋禁止」ということを、自らのファンコミュニティのマナーとして挙げる配信者が時々います。あるいは「別にそういう感情を持ってもいいが、その発露は自分がいないところでやってくれ」と言う人も居ます。ペドファイルでなくても、同意を得られない恋愛感情を持ち、そしてそれを表現することは批判されうるのです。そして、その批判は別に差別でも何でもありません。
もちろん、これはあくまで「他人の心の内が分からない」ということを前提としており、思考実験としてそれが崩れるケースを考えることはできます。例えば、人々の行為全てが監視され、その中で「未成年者にたいする性的欲望を持つもの」に特異的な行動が統計的に明らかにされれば、一切そのような欲望を表現していなくても「おまえは未成年愛者に対して性的な欲望を持っている」と判断され、強制的な治療を受けさせられることがあるかもしれません。そのようなディストピアでなら、「#ペドフィリア差別に反対します」というスローガンが必要となるかもしれないでしょう。
しかし少なくとも現代社会にはまだそういう監視体制はできあがっておらず、ペドフィリア的な欲望が批判されるのは、それが公の場所で表現される場合に限るわけです。
そして、繰り返しになりますが、欲望を持つこと自体が批判の対象にならなくても、それを公言することは批判の対象となり得るのです。

「○○を好きという感情は誰にも否定できない」みたいな安易な共感は、思想としての反差別とは関係ない

SNS上では「○○を好きという感情は誰にも否定できない」みたいなクリシェが人気になりがちです。実のところ、SNS上でLGBTQ+などに共感している多くの人も「好きっていう感情は尊いものなんだから、それが異性相手だろうが同性相手だろうが関係ないじゃん」みたいな安易な感情で共感している人が多く居ます。
そして、そのような安易な感情による共感をしていると、「ペドフィリア差別に反対」という言葉に対しても、「確かに好きっていう感情という点で言えば、ペドフィリアも好きという感情なんだから、それを否定しちゃいけないよな」という風に違和感なく受け入れてしまうわけです。
しかし、「LGBTQ+に対する差別に反対」というのは、そういう安易な共感とは別次元の話なのです。「他者を脅かすものでない限り、基本的人権は平等に擁護されなければならない」が故に、同性に対して性愛感情を抱いていたり、性的違和を抱えている人間でも、そのことを理由に不平等に扱ってはいけないという、論理の話なのです。
そしてそうである以上、当然世の中のあらゆる表現と同様に、LGBTQ+によりそう表現も、平等な批判の対象になります。「この思想には論理的な誤りがあるけで、LGBTQ+によりそう表現だからその誤りは批判してはならない」「このマンガは表現として稚拙だけど、LGBTQ+によりそう表現だから批判してはいけない」とはならないのです。むしろそのような平等な扱いを目指すことこそが、思想としての反差別なのです。
だから、仮にペドフィリアがLGBTQ+に含まれるとしても、そのような欲望を公に表現することは批判されるわけです。それは「ペドフィリア差別」ではありません。むしろ、平等に扱われるからこそ批判されるのです。

*1:上記のnote記事より孫引用

*2:無題のドキュメント