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この記事を読んだときに、最初に抱いた感想を正直に言うと
「そんなことで傷つかれてたら何にも表現できなくなるわ」
でした。
ただ、何度も読んでいくと、
「まあ確かに当事者には傷つく人も居るかもしれないな」とも、思うようになりました。
ですが、「誰かが傷つく」ということと、「そういう表現をしちゃいけない」ということは、また別問題なわけです。
問題は、「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうかなのです。
この記事で専門家として発言を紹介されている松岡氏は、次のように論じることで、アイドルがエイプリルフールに同性婚をしたと嘘をつくことが、差別や抑圧に加担すると主張します。
松岡さんは、「『嘘』でより多くの注目を集めるためには、『あり得ないこと』が冗談としてネタに利用されやすく、差別意識や偏見が顕在化しやすい」と指摘する。
「同性愛をエイプリルフールのネタとする発想は、同性愛を自分にとって『あり得ないもの』と想定していることから生まれます。こうした“冗談”を言った後、例えば『おかしい』『気持ち悪い』といった否定的な反応があっても、同性愛を利用している人自身は『あくまで冗談』なのでダメージを受けませんし、実際の同性カップルではないので、当事者が受ける制度的な不利益も一切発生しません」
「一方で、同性愛者は当然、エイプリルフールを過ぎたら同性愛者じゃなくなるわけではありません。日々、社会から様々な差別や偏見を向けられている現状があります。ネタにすることで、当事者に『私たちはいないことにされている上、笑いや冗談のネタとして消費される存在』というメッセージを送ることになる。マイノリティの側の生活を脅かす構造や抑圧に加担することにもつながりかねません」
これに関して、「いや別にこの表現は、同性愛を『あり得ないもの』としているからネタになっているわけではないよね?」、「『おかしい』『気持ち悪い』っていう否定的な反応は本当にあったの?」と反論することが可能です。
ただ、ここで問題となっているのは、実際にそういう直接的な偏見が、このインスタグラムでの投稿にあったり、また投稿によって誘発されたということではなく、“『私たちはいないことにされている上、笑いや冗談のネタとして消費される存在』というメッセージ”が、当事者によって読み取られるという問題なわけです。
これに関しては、そういう当事者もいるかもしれないなとしか言うことができないでしょう。
この記事で紹介されているBuzzFeedの記事
www.buzzfeed.com
でも、似たようなエイプリルフールネタに対し、不快に思う当事者もいれば、不快ではない当事者もいることが紹介されています。
多分それと同じように、今回のインスタグラムにおける投稿も、不快に思う当事者は一定数いるでしょう。そして、「不快に思う」人が一定数いること自体は、だれにも否定できません。
「不快に思う」のは、別に同性愛者に限らないのでは?
しかし、では「誰にも不快に思われない表現」というのはそもそも可能なのでしょうか?
これが例えば異性同士だった場合どうなのかという問いに対し、松岡氏は次のように述べています。
異性同士が、「結婚します」「交際中です」といった嘘をエイプリルフールのネタにするケースも見受けられる。
これに対し、松岡さんは「異性愛者であることが『あり得ないもの』として扱われたり、笑いの対象になったりすることはないため、ネタにされることによって異性愛者の人たちがダメージを受けるということはありません」と反論する。
しかしここで述べられている“異性愛者であることが『あり得ないもの』として扱われたり、笑いの対象になったりすることはない”というのは、社会一般における考えなわけです。
ですが今問題になっているのは、「社会全体でどう扱われているか」ではなく「当事者がどう思うか」なわけで、そして当事者の視点に立つなら、今回の投稿が異性同士の交際という嘘でも、「不快に思う」人は存在するかもしれないのです。
例えば、異性とか同性とか関係なく、アイドル同士の交際ということで、「自分はアイドルでは無いからこういう交際は絶対できないんだ」と傷つく人がいるかもしれない。また、ルックスが良いもの同士の交際と言うことに着目して「結局ルックスがいい人はルックスがいい人としかくっつかないのか」と不快に思う人がいるかもしれない。
それらの気持ちは一般的には単なる僻みというふうに捉えられますが、しかしそれでも「不快に思う」という点では、今回の投稿を不快に思う当事者の一部と変わらないわけです。
あらゆる笑いは、その対象を馬鹿にすることで成り立っている
松岡氏は、エイプリルフールのネタとして同性愛を扱うことは、同性愛者に対する差別や偏見を元にした笑いだからいけないと、そう主張します。
「エイプリルフールのネタとして安易に扱われてしまうこと自体が、今なお性的マイノリティの存在が身近に感じられていないことの証左になっている。同性婚ができないことの不利益や、カミングアウトの難しさ、性的マイノリティであることをオープンにすることで社会からどういう差別や偏見の言葉を浴びるかが見えていない。だから笑いや冗談のネタとして消費できるのではないでしょうか」
しかし、じゃあそもそも差別や偏見を元にしない、クリーンな、誰も傷つけない笑いって存在するのでしょうか?
そういう笑いは存在しないと述べている人が居ます。爆笑問題の太田光氏です。
太田光氏は以下の記事で、次のように例を挙げながら、一見微笑ましく見える笑いも、その対象者を馬鹿にすることでなり立っていると述べています。
news.yahoo.co.jp
一見、「人を傷つけない」ような温かい笑いであっても、そこには必ず毒が含まれていると太田はみる。
「例えば、『はじめてのおつかい』で子どもが泣いたら、『あら、かわいいわね』って、まるで温かい笑いのようになっているけれども、子どもは本気で不安で泣いているわけでしょ? 子どもにとってはイジメなんですよ。だけど、そういうもんでしょ、笑いって。神戸の小学校の先生たちの激辛カレーを食べさせる動画だって、イジメられていた彼も『ああ、辛いの苦手です』って言いながら逃げ回っている。おそらく彼も笑っているんですよ、あのとき。自分の身を守るために笑っているんだと思うのね。だからこそ、イジメなんです。でもあれを知らずに見たときに、テレビのバラエティーのまねごとをしている、楽しそうって思う可能性も俺はあるって思うんだよ。人が困っているところってやっぱり面白くて、『ああ、そうそう。辛いとこうなるよね』という共感の笑いとイジメとで、それは分けられない」
「自分はじゃれているつもりで、周りは共感して笑っているけれども、相手はものすごく不快だったという状況も全然ある。だから、これはイジメ、これはプロのお笑いみたいなことというのは、分けられなくて地続きだと思う。『(相方の)田中がチビだ』ということには、バカにした笑いも含んでいるけど、人の違いを面白がるっていうものも、同じ笑いの中に入ってるんだよ。それをダメだと言われると、そんな殺伐としたものになっちゃっていいのかなとは思うよね」
この発言を、「だから太田光は人を傷つける笑いを擁護しているんだ!」という風に解釈する人もいるかもしれないけど、僕はむしろ「どんなに温かい笑いに見えても、それはイジメと地続きで、他人を傷つけるかもしれないものなんだ」という、お笑い芸人としての自戒として捉えます。
『はじめてのおつかい』のような、一見人畜無害の温かい笑いでも、結局は、おつかいに向かう子どもを馬鹿にし、「不安で泣いたということを、笑ってやっていいんだ」という差別の対象にすることで笑っているのです。
だとしたら、そもそも「差別や偏見を元にしない、誰も傷つけない笑い」って可能なのでしょうか?僕は、そうは思いません。
「正義」を盾にして、誰かを笑うことに対する違和感
松岡氏は、社会的な問題提起や、構造的な不平等を批判するような笑いなら、同性愛をエイプリルフールのネタにすることも許されると主張します。
ただ、松岡さんはエイプリルフールでの発信で「同性愛」に全く言及していけないわけではないとも強調する。
「今回のインスタ投稿も、やり方によっては良いコンテンツにできたのではないかと思います。例えばなぜ同性カップルは日本で結婚ができないのか、という点に人々の注目を向けるような問題提起につなげたり、同性愛者も異性愛者と同じように社会で扱われることを望むといった、性的マイノリティの人たちの置かれた状況を踏まえた上でのメッセージがあれば伝わり方は大きく異なったはず」
「同性愛をタブー視するのではなくて、構造的な不平等の問題に目を向け、当事者の存在を知った上での発信であれば、今回の投稿の内容はもっと違うものになったのではないでしょうか」
要するに「同性愛者への差別をなくそう!」「同性婚を認めよう!」という「正義」のメッセージが込められているなら、笑いのネタにすることも許されるというわけです。
しかし僕は、むしろそういう風に正義で理論武装した方が、「誰かを傷つけることでしか笑いは成り立たない」という、笑いの原罪とも言える部分を覆い隠してしまう気がするのですね。
例えば、以前同性婚に対して、ニュージーランドの国会議員がした、同性婚に賛成するスピーチが、ユーモアあるスピーチとして賞賛されました。
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これは、インターネット上の多くの場所で賞賛されたスピーチですが、しかし僕からすれば、まさにこれこそ、同性婚に反対する他者への嘲りや偏見に基づく、他人を傷つける笑いな訳です。
このスピーチでは、同性婚に反対する人たちを、同性婚を認めたら即天変地異やらが起こると信じている、非科学的な頭の悪い人とみなしています。そしてそれに対し、同性婚に賛成するこの国会議員は、まるで赤ちゃんを諭すように「同性婚を認めても即何か悪いことが起きるわけではない」と述べるわけです。つまりここでは無知な馬鹿にたいし利口な人が呆れながら諭すという、よくあるあざけり笑いの図式があるわけです。
しかし実際は、同性婚に反対する人のほとんどが、別に同性婚を認めたら即天変地異が起きるなんて恐怖から反対しているわけではありません。同性婚を認めることによって、「結婚は異性同士で行うのが当たり前」という社会通念が徐々に崩れていくことそのものに反対していたり、またそのように同性愛を認める社会通念が一般的になれば、異性同士の結婚が減り、結果として出生率が減る、といったことを心配しているわけです。
もちろん、それらの理由に反対することも可能です(僕自身、それらの考えは間違っていると思ってる)が、しかしいずれにせよ、同性婚に反対する人は無知な愚か者として同性婚に反対しているわけではなく、彼らなりの知識と合理的な論理に基づいて反対しているわけです。
しかしそういう、尊厳を持って取り扱われるべき他者を、先ほどのスピーチは、その他者にレッテル張りされてる差別と偏見に基づいて笑いものにしているわけです。僕からすれば、こういうスピーチの方が、今回問題になったInstagramの投稿よりよっぽど直接的に、人を傷つけ不快にするものに思えますが、しかしこのようなスピーチは「同性婚を認めるべき」という正義を後ろ盾にしているが故に、社会で容認されるわけです。
ですが僕は、正義が後ろ盾についているからといって、他者への差別や偏見に基づく笑いが容認される方が、よっぽど気持ち悪いと思います。
「自分を応援するファンを幸せにするためなら、そのファン以外の世界の全てを敵に回したって良い」というアイドルの覚悟
今回のInstagramの投稿を、二人がどの程度の覚悟を持ってやったのか、それは分かりません。
ただ一般論として言うなら、アイドルという職業の人たちは「とくに覚悟を持たずヘラヘラやっている」というイメージをもたれがちですが、むしろ彼・彼女らのファンに対する愛の強さと覚悟は相当なものがあります。
本気で「自分を応援するファンを幸せにするためなら、そのファン以外の世界の全てを敵に回したって良い」という覚悟を持つアイドルもまた、多く存在します。むしろ追っかけるファンが「僕らのことをそんなに気にするのはやめて。あなた自身が幸せになってくれればそれでいいから」と思うほどには。
そして、そういう覚悟をもとにしてなされる表現を、僕は馬鹿にはできません。むしろ安易に「正義を後ろ盾にしてるんだから誰かを馬鹿にしたって許されるでしょー」とかいう気持ちの元に行われる表現より、根性入ったものだと、感じるのですね。
問題は、「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうか
今回の件に限らず、インターネットでさまざまな人が声を挙げられるようになったことによって、これまでは問題視されなかったお笑いネタが、問題視とされる、そういったことが多発しています。
僕は、それ自体はいいことだと考えています。どんなお笑いネタも、誰かを傷つける覚悟がなければやってはいけない。いままでの日本社会にはそういった覚悟が足りていませんでした。
しかしその一方で、「正義を後ろ盾にした笑い」に対しては、人々は結構鈍感だったりします。あるいは、正義を後ろ盾にした笑いに反感を持つのは不正義の人だから、いくら傷つけても構わないと、そう思っている人が多いのかもしれません。
しかし正義だろうが不正義だろうが、傷の深さと痛みには変わりません、ちょうど地球の裏側では、珍しく「正義」と「不正義」が分かりやすく色分けされた戦争が起きていますが、しかし正義の側が撃った弾丸でも、その弾丸は人の肉をえぐり、激痛を相手に与えるものなのです。
正義だろうがそうでなかろうが、他人を傷つける表現をする人には、それ相応の覚悟が求められるのです。その覚悟ができないのなら、すべきことは沈黙以外にないでしょう。
ただ、その覚悟ができているかどうかは、他人が推し量ることができるものではなく、あくまで当人の胸の内の問題です。
そして、「誰かを不快に思わせるかもしれないけど、ファンのみんなにひとときの微笑みを届けたい」というのも、立派な覚悟の有り様だと、僕は思います。