あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

憎しみについて

色々日常で嫌なことがあって、誰かを憎んだり恨んだりすることが多い。

その憎しみが道理や正義に基づく憎しみなのか、それとも全然道理に基づかない逆恨みなのかは、いまいち自分ではよく分からない。相手の悪や不正義をあげつらおうとすればいくらでもあげつらえるが、しかし一方ででは自分は精一杯やったのかといわれるとそれは全く自信ないし、「そういう悪や不正義に直面することを納得してお前は相手と会ったんだろう」といわれるとそれはそうだという思いもある。そもそも何が悪なのか何が正義なのかという事自体、僕の倫理観はかなり一般とずれているわけで、世間的な倫理感に照らしあわせれば、きちんと準備もしなかった僕のほうが悪ということになるのだろう。そして、僕と正義のどちらが正しいかということは、分からないし、ぶっちゃけどうでもいい。

全く無関係の他人の行為が正義であるか悪であるかを判別する時は、人は自分の倫理観や、世間一般で共有されている(とその人が考える)倫理に基づいて判断を下し、非はどちらにあるかを考える。そして、非が多いほうが償いをすべきであると考えるし、もし非が多いと思われる方が罪を認めなかったり、あるいは非が多いはずの側が「悪いのはあいつだ!俺は悪くない」などと言えば、それは激しい非難や糾弾にさらされる。それ自体は別に普通の行為だ。多くの社会正義はそのような義憤に基づいてなされてきたし、そのような正義が通用しなくなればまさしく弱肉強食の世界である。

しかし、それが全く無関係の他人の好意ではなく、自分と親しい人の行為や、あるいは自分の行為そのものだった時、人はそこまで冷静に自分の行為を倫理に基づいて判断できるだろうか?

ある他者から抑圧や加害を受けたとその人が感じた時、その人には他者に憎しみや怒りを感じるだろう。そして、その感情は、自分と他者、どちらが倫理的に正しいかという倫理判断とは全く無関係に生じるものなのではないか。例え自分のほうが圧倒的に悪いと自分自身が分かっていたとしても、その分かっていることと憎しみはおそらく関係ない。例えそれを別の第三者が「その憎しみや怒りは倫理的に正しいから」という理由で擁護したとしても、その憎しみを持つ当事者自体は別に倫理など一切関係なく、ただ自分が抑圧や加害を受けたというその事自体により、憎しみを持つのである。

人間が持つ倫理や正義などというものは、全てそういう憎しみを後付で正当化したものにすぎないと、ニーチェは言ったとされている。もしそうなのだとしたら、ある憎しみを人が抱いた時、その憎しみが正義や倫理によって擁護されない、単なる「逆切れ」だったとしても、それを人が反省することはできないだろう。だって正義や倫理なんてものは後付にすぎないのだから、憎しみを正義や倫理が擁護できないのならば、それは「必要ない」と切り捨てられるだけである。あるいは、憎しみを擁護するような形に、正義や倫理を都合良くねじ曲げるか。だが、もしそれを当人が「ねじ曲げている」と自覚しているのならば、それは自らの憎しみを社会的に受け入れさせるための戦略にはなるかもしれないが、しかし自身の内面においてその憎しみを正当化することはできなくなるだろう。

もしかしたら、こうやってメタ的な考察をすることそのものが逃げなのかもしれない。憎しみが倫理や正義と無関係のことならば、こざかしい考察などやめて、その憎しみを表現すればいいと。はっきりと○○が憎いと、俺を追い詰めたあいつが憎い、存在を抹消してやりたいと、そう叫ぶべきなのかもしれない。

しかしそれは出来ない。おそらくそれは、ただ単に僕が臆病なのと、それが結局孤独な叫びにしかならないからだ。一人で叫んだってただの負け犬の遠吠えなのであり、社会からもそう捉えられ。馬鹿にされる。

だが、もしこの憎しみを集団で共有できたらどうなるか?その憎しみを表現しても馬鹿にされず、周囲からは称賛され、社会からも一目置かれる、そうなった時、憎しみをただ憎しみとして表現することに何の抵抗も僕は感じず、簡単に暴力をふるってしまうのかもしれない。

そう、僕はあの徒党を組んで差別を叫ぶ連中と、全く同じ心的構造をもっているのである。