あままこのブログ

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「暴力に屈せず表現の自由を守る」ために

コミックマーケット83における『黒子のバスケ』サークル・頒布物対応に関する緊急のお知らせミラー
コミックマーケット83、「黒子のバスケ」関連すべて中止へ 脅迫状への対応として - ねとらぼ

 12月29日から31日に開催される「コミックマーケット83」において、「黒子のバスケ」サークルの参加見合わせとともに、「黒子のバスケ」の同人誌およびグッズ等の頒布についても中止するよう呼び掛けている。
 漫画「黒子のバスケ」作者・藤巻忠俊さんあての脅迫文などが相次いで送られている事件と同様、コミックマーケット準備会宛にも「『黒子のバスケ』のサークルをコミックマーケット83に参加させない」ことを要求する脅迫状が届いたことを受けての対応。参加者の安全確保とコミックマーケットの開催継続のための判断と説明している。

まず最初に言っておくべきことは、このように暴力や、暴力を背景とした脅迫によって、ある表現活動を止めさせようとすることは、例えその表現活動が二次創作の同人活動であっても、立派な「表現の自由」の侵害であり、許せないことであるということです。
なお、この脅迫に対し、コミケというイベントにおいては、警察や会場側と協議した上で、一部ジャンルに参加を見合わせるようお願いしているということですが、この記事ではその判断自体については特に賛成・反対などの意見表明はしません。コミケは別に政府や自治体が運営しているわけではない、民間のイベントですから、そのイベントをどういう風に運営するかは、コミケを運営する人たちが決めればいいことだからです。僕はコミケに特に帰属意識は持っていませんので、そのような判断の是非を云々する立場にありません。
この記事は、今回のコミケの判断について云々するものではなく、今回の事件を題材にしながら、自分がこのような表現の妨害に対しどのように対応できるか、社会はどうすれば暴力に屈せず表現の自由を守ることができるかを、考えていくものです。

警察に警備を強化してもらえば、表現の自由は守られるのか?

まず、今回の判断について、twitterなどの一部では「このような脅迫に屈することを警察が薦めるなんておかしい」「警察がすべきことは警備を強化して、このような脅迫から表現を守ることではないのか」というような意見があります。
そのように警備を強化することが実際は不可能なのか、あるいは表現に優劣をつけ、二次創作活動を軽く見ているから警備を怠っているのかは、僕にはわかりません。
ただ、例えそのような意見に基づいて警備を強化したとして、それが本当に表現の自由を守ったことになるのか、僕は疑問です。例えば警察が会場の入口で持ち物検査を行い、身分証明書の提示を求めるなどをすれば、確かに脅迫された行為が実行に移されるのを防げるかもしれません。しかしそうすれば会場は大混雑することが容易に想像できますし、そういう混雑や持ち物検査・身分証明書の提示を嫌がって参加しない人も出てくるかもしれない。もちろん、全面的な中止よりはマシかもしれませんが、しかしそれは表現の自由が侵害される程度が軽くなったという、程度の問題でしかないように僕には思えます。
更に言えば、そのように警察が表現活動の場を監視することを容認していけば、それは結局警察による表現活動の規制につながっていくのではないかという問題もあります。例えば同時多発テロ以降のアメリカでは、テロリズムから自由を守るためという名目で、愛国者法などさまざまな、表現活動を規制し、市民的自由を侵害することを容認する法律が作られ、そしてその過程で思想調査などが警察によって行われるようになりました。(具体的にどういうものなのかは、『華氏911』などを参照)

日本においても、例えばわいせつ規制や非実在青少年規制みたいな形で、公権力は常に表現活動に介入し、それを規制することを求めているわけです。そんな中で公権力の介入をさらに助長するような警備の強化を求めることには、もっと慎重になるべきではないか、それはより危険な、公権力による表現の自由の侵害を招くことにならないか、注意する必要があると、言えるでしょう。

脅迫がなされた時点で、表現の自由は侵害される

そして更に言うならば、もし本気でその表現活動を暴力で妨害しようとする人間ならば、例えどんなに警備を強化してもその警備をかいくぐるか、あるいは警備の及ばない場所で暴力を行使するでしょう。
そして更に言えば、そのような想像による恐怖自体が、表現活動に対する妨害につながります。その表現活動によって誰かが暴力に晒されるかもしれないと思ったら、よほど確固たる決意を人々が持っていないかぎり、その表現活動は萎縮してしまいます。
つまり、表現活動に対し暴力や、暴力を背景とした脅迫がなされた場合、そのなされた時点で表現の自由は侵害されているのです。あとにできることは、その侵害の程度をいかに小さくするかという対処でしかないのです。

表現を憎む悪意そのものを防ぐことは出来ない

ですから問題は、そのような暴力や脅迫をいかに未然に止めるかということです。
方法の一つとして、そもそもそういう暴力や脅迫のきっかけとなる、憎しみや鬱憤といった感情をなくすということが挙げられるかもしれません。しかしこれは、個々人がそう心がける分においては自由ですが、万人に要請することができることとは―自分の感覚からしても―思えないのです。
今回の脅迫では『黒子のバスケ』という作品とその作者が脅迫の対象になりました。その脅迫に至った感情がどのようなものであるかは、推測するしかありません。普通に考えれば、その作品や作者に対するアンチであり、その作品・作者に憎しみを抱いているということが想像できますが、もしかしたら『黒子のバスケ』自体は偶然選んだ作品に過ぎず、ただ社会を騒がせ、自分に注目を集めたいという動機なのかもしれません。
ただいずれの動機にしても、このような感情はとても根深いものであり、他人から頭ごなしに「そのような感情を抱くことはいけないことだからやめなさい」と言われても抑えることができないものなのです。僕はこの『黒子のバスケ』という作品については全然知らないですが、しかし本当に大嫌いなマンガやアニメの作品というのはあります。*1そういう作品への憎しみは、それが存在していいものなのか悪いものなのかはともかく、ある種の人々は抱いてしまうものだし、それを説教によって改心させることは不可能でしょう。「嫌いなものになんでそんなに拘るのか分からない」という人もいるかもしれませんが、僕からすると、逆になんでそういう人は自分の嫌いなものが存在するときに、それを無視することができるのか、わからないのです。

大切なのは、「憎しみ」を暴力ではなく言葉によってコミュニケートすること

ただ一方で、そのような憎しみは多々あれど、しかし僕はとりあえず嫌いな作品の作者や同人イベントを襲いに行ったり、脅迫状を送ったりはせずに済んでいる。それは何故か?
僕は、そのような暴力の代わりに、言葉で、作品やファンに対する憎しみを書き綴ることができるからだと思っています。
そもそも、暴力とはどう考えたって割に合わない憎しみの表現方法です。殆どの場合、暴力や脅迫を行った人間は罰せられます。今回脅迫状を送った人間もおそらく罰せられるでしょう。そして、その脅迫状を送った人間が捕まれば、きっと脅迫事件なんてなかったかのように、二次創作の活動が再開されるでしょう。今回のコミケの脅迫においても、当該作品の二次創作を行う人達の殆どは、このような脅迫に屈せず、二次創作活動を続けることを宣言しています。
それに対して言葉では、罰せられることはありません。なぜなら、もし何かを批判する言葉が罰せられるとしたら、それは表現の自由になるからです。
そして、言葉は暴力よりも深く、他人の心に影響を与えます。うまくすれば、自分の言葉に影響されて、その作品への熱狂をクールダウンさせ、本当はその作品がそんなにいいものではないということに気づく人がいるかもしれません。暴力・脅迫はその反対です。暴力・脅迫を行使すればするほど、ファンは逆に団結し、その作品に熱狂するでしょう。
「ペンは剣よりも強し」とは、まさしくそういう意味なのです。
しかしにもかかわらず、人はなぜ言葉ではなく暴力を使うのか。その理由は、私達の社会が言葉というものを軽視し、言葉によって自分の感情や思考を表現してこなかったからにほかならないでしょう。生徒とコミュニケーションをせずに、ただ命令に服従することだけを求める初等教育もそのような社会の現れの一つですし、更に言えば「何が嫌いかよりも何を好きかで自分を語れよ」というインターネットで流行する言葉(ミーム)も、自分の中の「嫌い」という感情を言葉にせずに抑圧せよと薦めています。
しかし、そういう風に抑圧された感情は、必ず歪んだ形で吹き出します。まさしく今回の事件のように。抑圧していた感情が急に噴き出してきた時、人はその感情をどう言葉で表現すればいいかわからず、結果として暴力や脅迫によってそれを発散しようとしてしまうのではないか。僕はそのように考えています。
ですから、重要なのはむしろ「何が嫌いか」をきちんと言葉で語ることなのです。自分が嫌いな理由を何度も何度も言葉にする、そして同じように嫌いな理由を書く他人の文章を読んで、それを元にコミュニケーションをしていき、嫌いな理由を語って当たり前な社会と、嫌いな理由を語る言葉を作っていく。
僕は、遠回りかもしれませんが、そのような作業をみんなで継続して行なっていくことが、暴力ではなく言葉で目的を達成しようとする社会を作り、「暴力に屈せず表現の自由を守る」ことにつながるのだと、考えています。

*1:このブログの読者なら、その名前は容易に挙げられるでしょう