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「男性にも『ことば』が必要だ」という記事を読みました。
上記の記事は、さまざまな論点があって、それぞれの論点で賛成できるもの・そうでないものが分かれるのですが、それに一つ一つ答えていくと長くなってしまうので割愛します。
ただ、タイトルの「男性にも『ことば』が必要だ」に関して言うと、それについての僕の答えは簡単で
「男性から『ことば』を奪っているのは男性自身ではないか」
というものです。
「ことば」を発するときに「説明する理論」が必要なときとは
上記の記事では、「女性が受けている不利益を説明する言説はたくさんあるが、男性が受けている不利益を説明する言説はない」ということをもって、「男性には『ことば』がない」と主張します。
これまで、男性と女性が受ける不利益の非対称さを論じる言説は、フェミニズムによるものが大半だった。したがって、女性が受けている不利益については、それを説明して強調するためのさまざまな様々な理論や概念が発達してきた。
ここに、ひとつの非対称性が存在する。男性が受けている不利益について説明する理論はほとんど発達しておらず、概念化もされていない。したがって、男性が受けている不利益は、女性のそれのように社会的に注目を浴びて問題視されることがほとんどない。
しかし、「説明する理論」と「ことば」というものには大きな乖離があります。
例えば、僕が誰かから学校や職場でいじめを受けている時、僕は「いじめるのをやめろ」という言葉を発することができますし、学校や職場はそれに真摯に対応するべきでしょう。その時、僕がいちいち「いじめというのはこういう社会の仕組みから起きており……」なんて理論立てて説明するなんてことはありません。
それと同様に、
- 女性が医学部を受験したときに不当に点数を低くされている
- 同じ仕事をしているのに、女性だけ賃金が低い
- ただ肌を露出した格好をしているだけで、性的目線を許容しろと言われる
なんてことも、別に理論立ててそれが生じる原因を説明しなくても、「それは差別だからやめろ」と言えば良いわけです。
それと同様に、男性が男性であることで具体的な不利益を受けていることが明白な場合は、そもそも理論なんてものは必要ありません。ただ「差別をやめろ」という「ことば」を発すれば良いのです。そして社会はそれを真摯に受け止めるべきです。
では、一体どういうときに「説明する理論」が必要なのか?それは、不利益の内容がよくわからない、抽象的なものである場合です。
例えば、ベンジャミン・クリッツァー氏は、男性の自殺率の高さや、幸福度の低さを、男性が不利益を受けている例として出します。
その一方で、見方によっては、日本では男性が不利益を受けていることも明らかだ。
厚労省の発表している自殺者の年次推移を見ると、1978年から2020年まで、各年の男性の自殺者数や自殺率は女性の2倍前後でありつづけてきた[4]。ただし、近年のアメリカでは男性は女性の3倍、ヨーロッパや南米やアフリカなどのほとんどの国でも男性の自殺者数は女性の2倍や3倍であり、他の国に比べると日本は女性の自殺率も高いほうだ。とはいえ、2016年の調査によると日本の自殺率は約90ケ国中6位であり、その自殺者のおよそ7割が男性であることを考えると、日本の男性は世界の男女に比べても自殺のリスクに晒されているとは言えるはずだ[5]。
また、日本の男性は、女性よりも不幸感を抱いている。2017年の世界価値観調査に基づいて男性の幸福度と女性の幸福度を比較してみると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性との差は世界で2位だ[6]。さらに、OECDが発表している幸福度白書の2020年版(How’s Life 2020)における「ネガティブな感情の抱きやすさ(negative affect)」の指標を見ると、他の国々では女性のほうがネガティブな感情を抱きやすいのに対して、日本だけが唯一、男性のほうがネガティブな感情を抱きやすくなっている[7]。男性の不幸さという点では、日本は世界でも際立っているのだ。
しかし、自殺にしろ幸福度にしろ、それは一義的には「本人のこころの問題」です。誰かが明白に「おまえは自殺しろ」というわけでもないし、「おまえは幸福になってはいけない」と命令するわけではない。本人にとっては、原因がわからないわけで、まさしく芥川龍之介が遺書で書き残したような「ぼんやりとした不安」の結果として、自殺や幸福度の減少はおきるわけです。
君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
www.aozora.gr.jp
そして、「説明する理論」とは、そのぼんやりとした不安、今風の言葉で言えば「お気持ち」をより具体的な「ことば」にするためにこそ、働くのです。
例えば自殺であったなら、そこには社会学であったり心理学であったりの理論・概念が必要になります。社会学においては、デュルケームの『自殺論』
という、社会学を専攻するなら誰しもが読む古典があって、そこでは自殺を社会的に説明する概念として- 自己本位的自殺
- 集団本位的自殺
- アノミー的自殺
が提示されました。そのような概念によってぼんやりとした不安は「ことば」になるわけですね。
「お気持ち」について論ずることを拒んでいるのは、男性自身ではないか?
そして、フェミニズムや、その他リベラルの多くの理論は、「お気持ち」を具体的な「ことば」にするための理論なわけです。例えば昨今「マイクロアグレッション」という概念が多く提示されるようになりました
www.nhk.or.jp
が、これなんかもまさしく、「なんか嫌だな」と思うことが、個人のこころの問題ではなく、社会的差別の結果として現れるということを説明する概念なわけです。
しかし、このような議論を「『お気持ち』は議論に値するものではない」として揶揄してきたのは、他ならぬ男性自身なわけです。
ベンジャミン・クリッツァー氏にしても、自分が男性であることによって生じる不幸は、一見すると「自分のこころの問題」であることがほとんどに見えるわけです。ところが、それについてはあまり論じず、アフォーマティブ・アクションの問題とか、暴力犯罪の被害者率の高さとかいった具体的な数字を持って「男性は不利益を受けている」と主張する。
生物学的性差を重要視するのも、「生物学的性差によって基礎づけられるようなものこそ議論に挙げられるものであって、そうでないものは『お気持ち』にすぎないから議論に値しない」と考えているからであるように、思えてなりません。
重要なのは、まず男性自身が自らの「お気持ち」を認めるようになることでは?
とかしか、あまり読んでこなかったのですが、しかし僕からすると、森岡氏の、自身のセクシャリティの有り様や、もっと卑近に言ってしまえば「どういうものに性欲を感じるか」ということを論ずる文章こそ、まさしく「男性に『ことば』を与えるもの」として、とても救われる文章だったわけです。あるいは
ゼロ年代批評って、さえぼう先生あたりからは「オタク男性のセクシャリティとかそういう話ばっかでうんざりだった」と批判され、そして弱者男性には届いてすら居ないわけだけど、少なくともぼくにとっては、まさしく「ことば」をくれるものだったわけで。
— あままこ(天原誠) (@amamako) 2022年4月13日
だったり。
だから、「『ことば』を支える理論」自体はたくさんあると思うんですよ。ただ男性の多くがそれらを「理論」として認められてないだけで。
男性が「ことば」を持つためにに必要なのは、「説明する理論」が数多く研究者によって書かれることではなくて、男性同士が自らの「お気持ち」について語れる場を作ることだと思うわけです。
僕も一応男性なので
- 毛深いからひげが毎日もっさり生えてきて、それを剃るのが面倒だ
- ラブライブサンシャインのパネルを見ても、それが過度に性的とはどうしても思えない
- 実際はレイプとか憎んでいるはずなのに、成人漫画で自慰しているときにレイプ描写が出てくると、それで興奮できてしまう
- 暴力は嫌いなはずなのに、女性が男性に暴力を振るう描写が大好きで、暴力を振るわれる男性に自分を重ねて興奮してしまう
など、自分が男性であることに由来する、様々な「お気持ち」が渦巻いているわけですが、それらについて、虚勢を張らずに語れる場というのはなかなか見つけられませんでした。
ですが本当は、そういうことについて男性同士で忌憚なく語れる場というものが必要なわけです、フェミニズム的においても、最初から理論が用意されていたわけではなく、そういう「お気持ち」について忌憚なく語れる場がまずあって、そしてそこから様々な理論が生み出されてきたのですから。
男性の「お気持ち」を言葉にしてきたアーティストについて
ついでにいうと、そういう男性が自らの「お気持ち」を言葉にしづらい社会の中で、数少ない「お気持ち」を「ことば」にしてきた運動が、ロックやJポップなどの音楽なのだと思います。
Mr.ChildrenやBUMP OF CHICKENといったアーティストたちは、まさしく男性の「お気持ち」を、学術ではなく詩的な「ことば」で歌ってきたアーティストです。「お気持ち」について直接言葉で論ずるのが難しいと言うなら、まずはこういう文化を批評することから、「お気持ち」に近づいていくのも、一つの方法なのかなと、思ったりします。
補記:「男性が自分の辛さを『ことば』にすること」はなぜ難しいか
記事を公開したあとで、もう一つ言いたいことがあったので補記。
男性が「自分の辛さを『ことば』にしたい」と思った時、そこには3つの障壁があります。それは
- 自分でその言葉を「恥ずかしいもの」として飲み込んでしまう自己検閲
- 男性同士で「そんな情けないこと言うべきではない」と、表現を抑えようとする内部検閲
- 女性が「男性がそんな辛いわけない」として表現を抑えようとする外部検閲
です。そして、この中でベンジャミン・クリッツァー氏が問題視しているのは外部検閲なわけです。
一方、女性の方を見ると
- 男性が「女性がそんな辛いわけない」として表現を抑えようとする外部検閲
はありますが、自己検閲や内部検閲に属するものはあまり見られません。そのため、男性側が「外部検閲しないでよ」と言っても、女性にとっては「そんなの男性がさんざんやってきたことだし、私たちはそれを乗り越えて自分たちの辛さを言葉にしてきた」と、反論されるわけです。
もちろん実際は、自己検閲だろうが内部検閲だろうが外部検閲だろうが、自分の気持ちをことばにしづらくする検閲なんて、ないほうがいいわけで、女性がそれに耐えたとしても、その耐えることを男性に押し付けていい道理はないわけです。
しかしその一方で、男性は女性とは違い、外部検閲以外にも、自己検閲や内部検閲と言った、「辛さを『ことば』にしづらくするもの」を抱えていて、それこそが男性と女性の、「ことば」における非対称性を産んでいるわけで、それらをなんとかしなければ、男性における「辛さを『ことば』にしづらくするもの」は解消されないんじゃないかと思うわけです。
補記2:「モテない」ということが問題なのか、「『モテない』ことが苦しく感じる」ことが問題なのか
amamako.hateblo.jp
ベンジャミン氏の記事で批判される『「非モテ」からはじめる男性学』を読んだ上で、続編記事を書きました