あままこのブログ

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あの頃の東浩紀と、90年代人文・サブカルにとってのオウム

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前回の記事、なぜか多く注目を集めたようで、はてブTwitterでも多くのコメントをいただきました。

コメントの中には、好意的なものもあれば、否定的なものも多くあって、別にそれ自体はいいのですが、その中で僕が興味を惹いたのは、「この記事の著者はなんでそんなにオウムやナチスにこだわるんだ?」というコメントです。

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

オウムだのホロコーストだの、自分が絶対悪だと思うもののレッテルを頑張って相手に貼り付けようとしてんなぁという印象

2022/04/11 08:22
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ある種の人、アイヒマン持ち出すの好きだよね…/理想を追い求めるのは否定しないけど、その理想こそが踏み潰そうとしているものもあるんじゃないの、という気はする。それを省みないからこそ、分断はより深まる。

2022/04/11 14:01
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「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

なんでこういうイデオロギーを戦わせてる人たちってすぐ極論に走るんだろう。「自分の感覚を信じているとサリンを撒く」とか「現実の社会に適応して頑張ることはアイヒマンになること」とか、飛躍しすぎだろうがよ。

2022/04/11 14:10
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「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ホロコースト等大きな言葉に共感は薄いが後半は私の感覚と近い。私の「今ここ」は、やや昔の価値観の人達に合わせた生活で少ししんどい。適応できないのを揶揄するコメも。ポテサラは買えばいいのが私のリベラル。

2022/04/11 16:59
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僕みたいに90年代までに、人文知を学んだりオタク・サブカルに親しんだものからすると、オウムや連合赤軍ナチス、その中でも特にオウム真理教」というものが強いトラウマになっていて、全ての論考がそのトラウマを下敷きにしているのは自明のことなんですが、それって今の人にはよく分からないことになってしまっているのだなと、思ったわけです。

「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という、当時の学者・オタク・サブカルが共通して抱いた恐怖

それこそ30年も前のことになってしまうので、今の人に忘れ去られてしまうのは当然のことなのですが、90年代において 「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」というのは、大学とかで学問を真面目に勉強したり、あるいはオタク・サブカル趣味にはまっていた人たちにとっては、多かれ少なかれ誰しも持っていた恐怖だったわけです。

例えば、オウム真理教秋葉原に「マハーポーシャ」というパソコンショップを持っていて、そこの宣伝は、当時秋葉原に行っていた人なら誰しもが覚えていたわけです。
ja.wikipedia.org
また、オウムは特に高学歴の信者が多かったことが注目されていて、実際僕の大学時代の指導教官*1も、自分の大学時代の同級生にはオウムに入ってしまった人が数多く居たと話されていたわけです。

そのような実際の生活での接点もさることながら、「愛の戦士」「コスモクリーナー」「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」*2
ja.wikipedia.org
など、オウム真理教が使う言葉の多くには、当時の人文やオタク・サブカルなどから借用した言葉が多々あったわけです。そして更に多くの学者は、オウム真理教の教義にも、80年代から90年代にオタク・サブカルで流行った終末論の影響が多くあったと述べています。

そのような点から、当時多くのオタクやサブカル文化人や、そういう趣味にはまっていた人は、「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」ということを言っています。具体的に名前を挙げれば、大槻ケンヂ竹熊健太郎香山リカなどなど。

中には雨宮処凛みたいに、当時オウムに憧れを抱いていたことを告白したら、今のネットで晒されて炎上したなんてこともありました。
tablo.jp

――オウム真理教には入ろうと思いませんでしたか?
「私の入っている(右翼)団体は、会員以外の人によく、オウムに似ていると言われるんですよ。『オウムの信者といってることが同じだ!』っていわれたこともあります。わりとそれには自分でも納得してますけど」
――オウムにはシンパシーはあるんですか?
「ムチャクチャありますよ。サリン事件があったときなんか、入りたかった。『地下鉄サリン、万歳!』とか思いませんでしたか? 私はすごく、歓喜を叫びましたね。『やってくれたぞ!』って」

……「10年以上前のことをいまの常識で批判するのはフェアじゃない」はずなんですが、ここまでくると当時でもアウトだったような気がしてきました!(文◎吉田豪 連載『ボクがこれをRTした理由』)

ちなみに僕も、中学生の頃からブログを書いていたのですが、多くの人から「おまえは一歩間違えばオウムとか過激派とかに入りそう」と言われてきました(今でもそう思われてる?)し、僕自身そういう危惧は常に持っていたからこそ、「過激思想」とか「オカルト」とかを客観的に見られるようになろうと、社会学に進んだわけで*3

サブカルチャー想像力が「オウム真理教」のようなカルト宗教につながるのではないかという危惧は、当時のサブカルチャー作品自体の中にもありました。『機動戦艦ナデシコ』というタイトルはその典型でした。

この作品は、オタクのロボットアニメを真に受けてしまった人たちが、木星に軍事国家を作り地球に侵攻してくるという話なのですが、そこでの木星の人々はまさしくオウム真理教のメタファーだったわけです。

ついでに言うと、この作品の脚本家であり、僕の好きなアニメ関係者では五本の指に入る會川昇氏は、こういう「サブカルチャー的想像力の暴走への危惧」というのを、ライフワークのように描いてきた人で、例えば『シャンバラを征く者』という作品では、原作とは違い、主人公たちが第二次世界大戦前夜のドイツに転生するなんてオリジナルストーリーを展開して、ナチスドイツとオカルトの関係を描いたり

UN-GO』という作品では、プロパガンダソングを歌う女性アイドルグループなんてエピソードを書いたりもしました。

あの頃の東浩紀だって、サブカルチャーと「オウム真理教」に親和性があると主張していた

前回の記事で白饅頭氏が触れていた東浩紀だって、まさに彼の原点である『動物化するポストモダン』で、サブカルチャーの想像力とオウム真理教の親和性について語っているわけです。

そしてその虚構の物語 は、ときに現実の大きな 物語(政治的なイデオロギー) の替わりとして大きな 役割を果たしている。そのもっとも華々しい例が、サブカルチャーの想像力で 教義を固め、 最終的にテロにまで行き着いてしまったオウム真理教の存在である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.45). 講談社. Kindle 版.

前項における『機動戦艦ナデシコ』に対する分析も、まさしくこの本に書いてあって「あ、そうだったよな」と気づいたものです

そして、90年代までのオタク(いわゆる「オタク第2世代」)は、虚構の物語を求めるが故に、テロまで行き着いてしまったのに対し、2000年代以降のオタク(いわゆる「オタク第三世代」)は、そもそもそういう物語ではなくデータベースを求めるよう「動物化」したというのが、『動物化するポストモダン』の主張な訳です。

そしてこの動物化」は、大きな物語を必要としないという意味では、宮台氏が言う「コギャル」と同じであると述べ、さらにこれこそがオウム真理教のような閉塞性を乗り越える道であると述べているわけですね。

オウム真理教徒は前者の代表であり、「ブルセラ少女」は後者の代表である。このような対立のうえで、 宮台は、前者の閉塞性を知的に乗り越えることはおそらく可能だが、「 その 間接性たるや気が遠くなるほどであり、その実効性には疑いを禁じえない」と記し、続けて、「しかし私は、まったく別の道があるかもしれ ないと思っている。 それは、全面的包括要求そのものを放棄するという、決定的な、しかも現に私たちが進みつつある道である」と述べている(注50)。


(略)


記号化され、 匿名化された都市文化のなかで、「ユミとユカの区別もつかない」でまったりと生きている九〇年代のブルセラ少女たちには、もはや世界全体を見渡そうという意志( 全面的包括要求) も、その断念から来る過剰な自意識も存在しない。彼らは有意味化戦略をもたず、物語消費も必要としない。


これはまさに、 筆者がここまでデータベース 消費として論じてきたものと同じ「 道」である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.121-122). 講談社. Kindle 版.

つまり、東氏においても、オウム真理教というのは真剣な恐怖で、「動物化」とは、そういう方向へオタクが行かないための道筋の付け方だったわけですね。

「抵抗としての無反省」が「無反省」に変わる瞬間

ところが、時が経った現在においては、そのような「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という恐怖はほぼ忘れ去られてしまっている。

僕はこの過程で、「抵抗としての無反省」が、単なる「無反省」へと変わってしまったのではないか?と思う訳です。

「抵抗としての無反省」とは、以前も
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という記事で触れたことがあるのですが、北田暁大氏が『嗤う日本のナショナリズム

という本で提唱した概念で、乱暴に要約すると「『暴力を反省しよう』という反省を繰り返すと、結果として暴力(よく言われる「正義の暴走」)を生むのだから、敢えて反省しないようにしよう」という態度のことです。

以前の記事では、1960~70年代の学生運動を例にあげたのですが、実はこれはオウム真理教にもいえることで、「動物化」とか「まったり革命」というのも、(その提唱時点においては)結局は「抵抗としての無反省」のバリエーションだったのだと思うわけです。

そして、「抵抗としての無反省」は、その抵抗という側面が覚えられている限りにおいては、「正義の暴走」と呼ばれるような暴力に対する歯止めとなるのですが、その「抵抗として」という部分が忘れられ単なる「無反省」になると、「暴力を行使して何が悪い」という開き直りにつながっていくわけです。

結局大事なのは、歴史を知り、それを自分たちに置き換えて考えることではないか

僕が、オウムやナチス連合赤軍のような歴史的事件に注目し、「それらを繰り返す方向に動いていないか」と常に注意するのは、まさしくこのような「『無反省』への反省」があるからなんです。

「抵抗としての無反省」も、あくまで「抵抗としての」という契機が忘れられなければ有用なはずなんですが、それが忘れられれば途端に単なる暴力の肯定になる。「抵抗としての無反省」に限らず、あらゆる理論・規範・ライフスタイルというのは、その理論・規範・ライフスタイルが存在している歴史的・社会的背景をもとに、そこでいかに幸福に生きるかを考えるために編み出されたはずな訳で、その歴史的・社会的背景が忘れ去られ、一人歩きし始めた途端、人々を不幸にするのでは無いかと、僕は考える訳です。

だから、歴史や社会に関する人文知を学び、それらを相対化する必要があるのです。

他人の思想を考えるときも、自分の思想を考えるときも、僕が「オウムやナチス連合赤軍のようなものにつながっていかないか」という視座を重要視するのは、そういう理由があるのです。

*1:ちなみに宮台氏ゼミの出身

*2:自分は『新世紀エヴァンゲリオン』から借用されたと思ってたんだけど、実際はむしろこっちの方が先だったり

*3:まあ、普通に考えればミイラ取りがミイラになる可能性の方が高いよなと、今になっては思うけど