あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

オタクが死んだ後に残るもの

けものフレンズbyニコニコ動画
p-shirokuma.hatenadiary.com
はてブでは結構叩かれているけど、個人的には納得いく話でした。
はてブのコメントでは以下のコメントと同じ感想を持ちました。

  • id:hepta-lambda 確かに昔から同好の士との交流はあったけども、1人で考え込む時間を全く取らず視聴後すぐに他者の感想にアクセスすることが可能になったってのは大きな違いだとは思ってます
  • id:masao_hg 1人でコンテンツと向き合うのが前提だから「おれ」と「あなた=オタク」とで分ける必要があるわけで、みんなが繋がってる現在の「オタク」は「オレら」になるわけですよ。
  • id:namasutenohito 同意。アニメなりゲームなりの作品と自分とで一対一で相対している時間と密度は確実に薄まったと実感している。ネット導入以前は作品への想いを煮こんで濃縮させてドロドロになったソレを外に出す場所が無かった感。
  • id:an56 記事も映像も何でもコメントつくのが当たり前になって他人を知る機会は無茶苦茶増えた。タチコマが同期する感じで平準化するような矯正も働いてるのかな
  • id:cider_kondo 「昔のオタクは、空間的にも情報的にも切り離されていることが多く、それがため~」が最重要なのだが(自分やシロクマ先生のような)老害には自明過ぎて太字にすべき要点と気づけず、そこ見落とした若者が論難する悲劇
  • id:lady_joker 私の場合は、SNSに自説を投げて反証をもらいつつ、論を練り上げてる部分がある。対象とサシで向かい合う時間も必要だけど、人間ひとりの能力なんかたかが知れてるので、そこ リソースを使いすぎるのは全く無意味
  • id:echorev 良くも悪くもインターネット集合知がコンテンツとの向き合い方を変えたっていうのはあると思うね

コンテンツに対する評価は「その人の好み」「そもそもその作品をどういう作品として見るか」という二つの要因によって決まる

そもそも人は、アニメ・漫画・ゲーム・ラノベといったコンテンツを消費するとき、一体どのような要因に基づいてそのコンテンツを「面白い」「つまらない」と評価しているのでしょうか。
「その人の好み」というのももちろんあります。例えば、かわいい女の子がキャッキャウフフする作品が好きな人は、『けいおん!』とか『ゆるゆり』が好き。戦場とか殺し合いが好きな人は、『進撃の巨人』とか『幼女戦記』とかが好き。お仕事作品が好きな人は『花咲くいろは』とか『SHIROBAKO』とかが好き、という具合です。
一方で、「そもそもその作品をどういう作品として見るか」という要因の違いもあります。例えばとても話題になった『けものフレンズ』なんかは、ゆるふわなキャラクターたちがほんわかしたやり取りをする作品、として見る人もいれば、動物の形態描写の細かさに注目する人もいるし、作品の裏にある設定にSFっぽさを感じる人もいる。さらには、骨しゃぶり氏(id:honeshabri)やねこねこ氏(http://nekodayo.livedoor.biz/)のように、文明批評のメッセージまで感じる人までいたりするわけです。
honeshabri.hatenablog.com
ねこねこブログ : けものフレンズはなぜ見ていて泣きたくなるほど切ないのか。寂しいフレンズ達と題名『けものフレンズ』 - livedoor Blog(ブログ)
このような二つの要因の違いによって、まったく同じコンテンツを消費しているにもかかわらず、消費している人の間で「あの作品は面白かった」「あの作品はつまらなかった」みたいな評価の違いが生まれてくるわけです。

SNSといったWebサービスは、小集団内で作品の見方を均質化していく

そして、2ちゃんねるふたば☆ちゃんねるみたいなウェブ掲示板、Youtubeニコニコ動画といった動画共有サービス、twitterやLINEといったSNS、AbemaTVみたいなネット中継サービスは、先に挙げたコンテンツ消費の評価における二つの要因、

  • その人の好み
  • そもそもその作品をどういう作品として見るか

に影響を与え、特に、2つ目の「そもそもその作品をどういう作品として見るか」という点に大きな影響を与えています。その影響は、端的に言えば、「個人から小集団へ」ということです。
例えば、あるアニメを見ているとき、昔だったら、その作品をどうやって見るかとか、そうやってみた作品を自分は好むかどうかという点は、あくまで自分一人の知識・選好によって決められるものでした。自分がその作品をみて「これは熱血ものだな」「これはSFものだな」と決め、そしてその上で「自分は熱血もの嫌いだからこの作品嫌いだな」、「自分はSFもの好きだからこの作品好きだな」と評価を下すわけです(実際は、もちろんもっと複雑な過程で評価は決定されるんですが、ここでは単純化しています)。
もちろんそのあとに、その自分の中で定まった評価を基に、即売会やらオフ会やらでコミュニケーションをして、そしてその中で当初の評価に修正をすることもあるかもしれません。ですが、そこでも一番最初の準拠点となるのは、自分が一番最初に一人で見た時の感想、ファースト・インプレッションであり、そして、人は往々にして、認知的不協和を嫌がりますから、その最初に見た感想を強化する方面で、コミュニケーションによる修正を行いがちになるのです。
しかし、このようなコンテンツ消費のやり方は、先に挙げたようなWebサービスの登場により大きく変わったわけです。
例えば、僕の弟なんかはよく、アニメを見ていて気になったセリフとかがあると、アニメをみながら手元のスマホtwitterでタイムラインを見たりするわけです。そうすると、twitter上では、そのセリフに対してリアルタイムで、そのセリフは以前のこういう伏線を解消するセリフだとか、あるいは逆にそのセリフは以前描かれたこの設定と矛盾するのではないかとか、はたまたそのセリフには実は元ネタがあって、このセリフはその元ネタに対するオマージュであるとか、そういった情報が即座に書き込まれるわけです。そして、そういった情報を見ながらアニメを見れば、当然そういった情報に接しないでアニメを見る時とは、「そもそもその作品をどういう作品として見るか」という、作品の見え方も変わってくるわけです。
具体的にどう変わるかといえば、それは、その人が属する小集団全体で、作品の見方が均質化していくということです。今までなんで同じ作品を見ているはずなのに、その作品をどう見るかが異なってきたのかといえば、それはひとえに、個人個人で、作品を見る際に前提となる知識が異なっているということでした。しかし、SNSといったWebサービスを用いれば、コンテンツを消費している小集団の人々が持っている前提知識が、即座に小集団全体で共有できるようになるのです。そうなってくると、当然、作品をどう見るかという点も似たり寄ったりになっていき、あとは、そうやって見えた作品をどう評価するかという、個人の好みの違いのみが、評価の違いの要因となってきます。
しかしSNSの特性上、人々は同じような好みの人間とつながりたがりますから、その評価の違いもそんなに大きなものにはならず、結果として、作品の評価自体が、個人で持ち、一人ひとり異なるものであったものから、小集団で共有するようなものとなっていくのです。

この変化は良いことか悪いことか

このような変化を、私たちは一体どう受け取るべきなのでしょうか。
ある面ではこれは、それこそ、コンテンツ消費において「個性」というものが消滅していき、多様性がなくなっていく過程として、悲観的にとらえることができるでしょう。僕自身、割と古いタイプの人間なので、SNSごときに自分の感想・評価を左右されてしまうというのはどうにも恐ろしく感じますし、色々な見方ができるようになるのは、確かにいいことなのかもしれないが、しかしその反面、一つの見方に則って深く考えることができなくなってしまうのではないかといった危惧も感じます。特にSNSなんかを見ていると、ある作品に対する評価がいったんある小集団の中で定まってしまうと、それに対して異を唱えることがかなり難しくなり、個と個が独立した個人として対話する機会っていうのは、ほとんどなくなってしまっているように見えたりするわけです。
ただ、そうやって悲観的な見方ができる一方で、このようなSNSで小集団に溶け込み、自我の境界をなくしながらコンテンツを消費することが楽しくないかといえば、それもウソになるわけです。さらに言えば、昔の、コンテンツを消費しながら知識を即座に共有できるような環境がなかったオタクは知識が少なくて、一面的な見方しかできなかったが、今の人々は知識を即座に共有でき、多面的な見方もできるようになったと言うこともできるわけです。
僕は、まだまだ前者のような悲観的な見解ですが、このようなコンテンツ消費のやり方が当たり前になった、若者たちの間からは、いつか、そんな悲観的な老人たちをあっと驚かせる新たな才能が生まれてくるのかもしれませんね。