地獄というものがあるらしい。現世で悪いことをした人間、例えば嘘をついた人間とかは、エンマさまとやらに舌を引っこ抜かれて、そこに連れていかれるそうだ。
それを聞いてぼくは思う。
だとしたら、ぼくを含めた障害者なんかはみんな、そこで舌を引っこ抜かれて、地獄に行くんだろうなと。
ぼくは日々口に出す。「迷惑かけてごめんね」、「気を使ってくれてありがとう」、という言葉を。朝起きれなくて遅刻してしまったり、口で説明されてもわけがわからないから、ぼくだけ紙でマニュアルをもらったりしたときに。
やっちゃいけないことをやっちゃったり、できないことをできるように手助けしてもらったりした時に、これらの言葉を使えば、だいたい、うまく収まる。
障害者にわざわざ付き合ってくれる人なんて、みんないい人だから、そういう言葉を使えばたいていにこやかに受け入れてくれる。これを社会の法律では、「合理的配慮」と、言うらしい。
だけど、笑顔でそうやってお礼を言う中で、僕は心のなかでこう思う。
「なんでぼくだけ、こんな周りに感謝したり、あやまったりしなきゃいけないんだ」
そしてこう呟く。
「一度でもぼくに頭を下げさせた人間 みんな死んじゃえばいいのにな」
もちろんぼくだって子どもではないから、これらのお礼に意味なんてないことはわかっている。
こういう社交辞令というのは、世の中のコミュニケーションを円滑に回すための、決まりごとでしかなくて、「ありがとう」という言葉は、別にありがとうと思っていなくても、使っていいし、「ごめんなさい」という言葉も、本当にごめんなさいと思っていなくても、使っていい。
だけれども、その一方でぼくは、こうも思っている。
「この決まりごとこそがぼくの命綱で、この決まりごとが守れなかったら、僕は生きてはいけないのだ」
と。
「合理的配慮は企業が当然果たすよう努めなければならない義務です」なんて法律には書いてある。
けど、でも実際、朝起きれなくて毎日のように遅刻したり、わざわざコピー用紙を何枚も消費しなければ、まともなコミュニケーションもできないような人間を、誰が好き好んで雇うのか。そういう人間を雇うのは、結局のところ、雇う側の善意でしかない。
ぼくは、善意によりかかって生きている。
そして、善意というのは、いとも簡単に消える。
どうせ善意で誰かを助けたいなら、より気持ちよく助けられる方を助けたいだろう。助けられてもむすっとした顔で「助けられて当然」みたいな顔をしている人間よりも、にこやかに「助けてくれてありがとうございます!」と答えられる人間を。
ぶっちゃけて言えば、そういう風に、にこやかにして、いつも周囲に感謝のアピールをし続けることこそ、障害者雇用に求められる「職能」というやつだ。他はどうでもいい。どうせ利益なんてさほど生み出さないのだから。
障害者支援に携わる人はよくこんなことを言う。「障害者のみなさんって、ほんとみんな優しい、天使のような存在ですよね」と。
まあ実際は、本当に天使なのか、天使であると嘘をつかなければ、生き残れないだけなのだけれど。
そしてぼくは、後者に属する。周りにいい顔して、いつも笑顔と感謝を絶やさないことで、生き残るすべを探す。心のなかで、「そんなの全部嘘だよバーカ」とせせら笑いながら。
そんなぼくは、死んだあと、きっとエンマさまに罪を暴かれ、舌を引っこ抜かれて地獄につれていかれるのだろう。
できれば、死んだあとぐらいは、おべっか使わず暮らしたい。
でも、きっと地獄でも、僕は、鬼たちに「本当にありがとうね」と言いながら、暮らすんだろうな。